Crystals of snow story

*秋霖しゅうりん

始まりは牡丹雪が舞い散る凛とした夜だった。    

鹿川のいない夜は未知にとって酷なほど長い。

未知は書きかけのラフの上に細い銀縁の眼鏡を置き、ほぅ〜と溜息を吐いた。壁掛けの時計を見ると、時刻はとうに11時を過ぎている。  

心配性の鹿川に夜半過ぎの外出は堅く禁じられているので、夜の時間を持て余す未知は大抵11時過ぎにフラリとマンションからほど近い本屋と、翌日の朝食を買いに2ブロックほど離れた国道沿いのコンビニに足を向けることが多かった。  

本屋には遅い時間だというのに塾帰りの10代の子達がいつも何人かいて、未知は明るい店内に入るといつも昼間のような錯覚を起こす。  

カウンターの傍を通ると23.4の可愛らしい女店員がなじみの客である未知に向かってニッコリと片えくぼの出来る人なつっこい笑顔を見せてくれる。  

だが、その後によるコンビニの店員は、愛想笑いすら浮かべず、何が気に入らないのかいつも仏頂面で黙々と商品のバーコードを拾っていた。  

同じ客商売なのにと不快に思うのが普通なのかも知れないが、未知は今日まで今までのコンビニの店員が至極無愛想だということすら、たいして気にも留めてはいなかった。  

笑顔を向けられれば、未知もニッコリと笑顔を返すが、仏頂面で商品を渡されたからと言って別段気分を害する未知ではなかったからだ。  

どこか社会との一線を引いている未知にとって、唯一の身内である鹿川以外の人間はブラウン管を通して見るドラマの登場人物のようなものだった。未知とは係わりのない人たち、面と向かって視線を交わしても、お互い何かを与え合うことなど有りはしないのだと・・・・ 

未知自身がその事をどれだけ自覚していたのか・・・・・・・

その日までむしろ彼こそが何人も侵すことの出来ない無菌の水槽の中にいる美しい熱帯魚だったのかも知れない・・・・  

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『冷たい・・・』  

暖房のよく効いた暖かい本屋から出ようとした未知が自動ドアのマットを踏むと、身を切るような真冬の冷気がむき出しの頬撫でた。

冬の寒さは身体の奥深くに閉じこめた過去の悲しみを無理矢理こじ開けてしまいそうで、未知はゾクリと身震いをしたあと、少しでも温もりを手放すまいとコートの衿を立てて、真っ暗な天空を見上げた。  

真っ暗な頭上からヒラヒラと舞い落ちる大粒の雪は、白い花びらのように深い藍色のカシミヤのコートの上にはらりはらりと絶え間なく散る。  

水分をしっかりと弾く毛足の長いコートの上に落ちた雪の何割かは6角形の美しい結晶がはっきりと見て取れて、未知は暫しの間だ寒さすら忘れ、なんて綺麗なんだろうと無意識のうちに乙女のような桜唇(おうしん)の口角を上げた。  

無意識に柔らかく微笑んだ表情のままコンビニの扉を開けて店内に足を踏み入れると、レジの横に立っている背の高い青年が惚けたように未知を見詰めていた。

まるで今まで見たことのない神聖なものでも見るような畏敬をその黒瞳に浮かべて、青年は凍り付いたようにカウンターの奥で佇んでいた。 

青年の視線に気づいた未知がゆっくりと彼を見詰め返すと、青年は自分の不躾な視線を恥じたのか瞬時に頬を茜色に染め、慌てて、ペコリと頭を下げた。

『あれ・・・?いつもの人とは違うんだ・・・』 

人柄がスッキリとした目鼻立ちに現れてるのだろう、素直そうな青年に未知は邪気のない笑顔を返した。その笑顔が青年にどれほどの衝撃を与えるかなど、ほんの少しも考えることもなく、ただニッコリと未知は微笑んだのだ。

昨日までの仏頂面をしていたフリーター風の店員とは対照的に実直そうな青年。

彼の動揺は傍目にも明らかなのに、未知は彼の視線を気にも留めずにいつものように青い籠に手を伸ばした。    

レジをすますとき、青年は未知から視線を逸らしたまま何かを言った。  

生憎、角度が悪く唇の動きが正確には読めないが、たぶん『今夜は冷えますね』とでも言ったのだろう。未知は返事をする変わりに、もう一度そうだねと綺麗な微笑を浮かべた。  

未知の笑顔に青年は再び照れくさそうに頬を紅色に染めた。    

その時になって、ようやく未知は何故彼は赤くなるんだろうと訝しく思ったのだが、何故か嫌な気持ちにはならなかった。    

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真っ白な牡丹雪が薄紅色の桜の花びらに変わり、季節が緩やかに移り変わっても、青年の未知を見詰める真摯な瞳は変わらなかった。  

変わらないと言うよりむしろ背中にさえ彼の視線を感じることがあるほど彼の澄んだ黒瞳はいつもいつも何かを言いたげだった。  

彼が何かを言いたいことは未知にも分かるのだが、必死になって彼の発した言葉を読みとっても、それは全て、極当たり前の言葉でしかなく、未知は、今まで誰にも感じたことのない苛立ちを青年に感じ始めていた。

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そんなある日、彼が突然店から姿を消した。

夏の最中、ぎらぎらとした太陽に熱せられたアスファルトから昼間の熱気がモヤモヤと立ち上がる蒸し暑い夜だった。  

「どうした?やけにご機嫌斜めだな」  

鹿川はついさっき、嬉しそうにおつまみを買いに行くと出かけた未知の変化に静に尋ねた。  

先ほどの外の蒸し暑さが嘘のように快適にクーラーの効いた部屋で、鹿川のためにブランデーを注ぎながら未知は何でもないと首を振る。  

何でもないわけないだろうと笑いながら抱き寄せられて、未知は鹿川の広い胸に甘えるように身体を預けた。

「何があった?」  

未知の髪を梳きながら、もう一度鹿川が根気よく尋ねる。  

もう一度未知も首を横に振って、鹿川の肩に顔を埋めた。  

甘いアラミスの香りが未知のざわめく胸を少しずつ慰めてくれる。

『僕には義兄さんがいる・・・・』  

認めたくはなかった、認めるのが怖かった。何故こんなにも心が騒ぐのか・・・  

・・・・彼がいない・・・・・    

やはり彼はいなかった。  

ここ数日、青年の変わりに人の良さそうな年輩のおじさんが愛想良くレジをこなしている。

時折彼がいないことはもちろんあった。どうやら彼の休みは水曜らしく、何時しか未知は水曜日には店に行かなくなっていた。  

しかし、この数日間というもの彼はずっといなかったのだ。  

今日こそはと思っていたのに・・・・

彼は辞めたんだろうか・・・・・  

そう思ったとたん、未知の胸はキリリと痛んだ。

それは嘗て経験したことのない甘酸っぱい不思議な痛みだった。 

逞しい鹿川の背中に廻した腕にギュッと力を込めて、未知はもう一度アラミスの香りを胸一杯に吸い込んだ。

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数日後、青年はいつものようにさわやかな笑顔で未知を出迎えてくれた。未知の足が彼を認めた途端、自動ドアのところで動かなくなった。

胸が・・・痛かった。

あの時と同じ不思議な痛みが、何倍にもなって未知の胸を嘖んだ。

帰ってきてくれたんだ・・・・

彼が帰ってきてくれるのを望んでいたはずなのに、彼がいなくてとても寂しかったのに、胸はなおズキズキと痛みを増す。そのまま、店にはいることができず、未知は咄嗟に財布を忘れた振りをして踵を返した。

変に思われたかも知れない・・・・

今度はドキドキと胸が早鐘のように打ち出した。

誰かにどんな風に思われるかなど、音をなくしたあの日から一度も思ったことなどなかったのに、未知はその日以来、青年にどう思われるかが酷く気に掛かり、努めて冷静に振る舞うようになっていった。

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表面上は変わりない日々が戻ってきたかに思われた。

いつものように未知が訪れると彼はパッと破顔し、未知はそんな青年に綺麗な微笑を返して、僅かな買い物をすます。

くり返し見続ける短い夢のように形をなさなくても、お互いがそんな朧気な関係に満足しているようだった。

だが、さよならはあまりにもあっけなく訪れた。  

猛暑だった夏が勢力をなくし、時折吹くカラリとしたさわやかな風が秋の訪れを告げに来た頃、追われていた絵本の締め切りがようやく済んで数日ぶりに店を訪れた未知が観たものは、商品がほとんどなくガランとした店内だった。  

驚いて立ちすくんでいる未知に気づいた青年が、本当に申し訳なさそうに今日で店は閉店だと教えてくれた。  

最大の努力を駆使し、驚きと動揺を隠して、未知は手早く買い物を済ませた。

買い物と言っても商品はほとんどなく、残っていたオレンジといつものミネラルウォーターをもっていつもと同じようにレジの前に立った。

仮面の下で未知の顔は悲しげに歪んでいるのに、彼は未知の気持ちに気づくことなく、いつもより時間を掛けて丁重にバーコードを拾っていく。

早く立ち去りたい・・・・ 

商品がなくて申し訳ないと謝る青年に、未知は小さく首を振り、足早に店を後にした。  

振り返るのが怖かった。  

やるせない想いが体中からあふれ出そうで未知はただひたすら家路を急いだ。  

何時しか頬になま暖かいものが流れ始めたが未知自身一体自分が何に泣いているのかが分からなかった。

僕は一体、どうしたんだろう・・・・・・

僕は一体、どうしたいんだろう・・・・・・・

やるせない未知の涙に共鳴したのか、その夜遅く夏の終わりを告げる秋霖が身体を丸めて泣き疲れて眠る未知を包み込むようにしっとりと降り始めていた。

〈END〉

 

 

キリ番記念として「若葉堂」さまに献上していた作品です。

秋の気配がしてきたので、そろそろこちらでもあげようかなと〈笑〉大部分のお客様は読んでくださってるのだとは思うのですが、まだの方は是非ご一読くださいませ_(._.)_

−氷川 雪乃−