優しすぎる恋人 

 

八畳ほどの洋間が俺の城。  

俺が高校生になった頃から、この部屋にノックもせずに入ってくる人は居ない。  

姉ちゃんのお下がりで貰った、宮付きのベッドの端に腰を下ろして、俺はカウントダウンをしながら“チャルメラ”が鳴り響くのを待っていた。  

毎日、毎日、たとえ晩飯を食っている最中でも。見たいテレビが有ろうとも。俺は八時五分前には必ず自分の城で有るこの部屋に戻り“チャルメラ”が鳴るのをひたすら待っているのだ。   

手のひらにおもちゃのような軽い携帯電話を載せたまま。    

シンと静まり返った俺の部屋で、音が鳴るほんの一,二秒前に俺とあの人を繋ぐ携帯がブルブルっと震えだし、続いて誰もが知るあの名曲が流れ出す。  

時間はジャスト八時。  

まるでNTTの時報のごとく正確に“チャルメラ”は一日たりと休むことなく俺の部屋に八時を告げる。  

俺は息を止めて、手の中の機械を凝視し、少なくとも5回は同じフレーズを聴いてからめんどくさそうに返事をする。

「もしもし」

『正臣?僕だ』  

俺以外の人がこの携帯に出ることなど有りはしないのに、光一朗は必ず、正臣?と尻上がりに俺の名を呼び俺が出た事を確かめる。  

俺の声とほかの人の声が聞き分けられないと言われて居るようで俺はいつも悲しくなる。

「毎日、同じ事訊くなよな!俺の携帯に掛けてんだから、俺しかでる奴居ないにきまってるだろう」 

『ごめん。今度から気を付けるよ』  

尊大な態度の俺にも決して怒ることのない光一朗は、和やかな口調で俺に謝罪した。

「ああ、そうだ。俺今日女の子に誘われて、[アルマゲドン]見てきたから、明日映画行くのやめて、ドライブにするわ」  

俺が前々から観たいと言っていた、この映画のチケットを、光一朗が明日のために用意しているのを承知で我が儘を吹っ掛ける。

『え?』  

流石の光一朗も言葉に詰まる。  

俺は内心ホッと息を付いて、

「なんなら、もう一回光一朗と観てやってもいいけど」 

高慢な口調で譲歩してやった。

『気にしなくてもいいよ。同じのを何度も観るほど正臣は映画好きじゃないだろ?明日の朝、何時に迎えに行けば良いんだ?』  

なぜ?どうして怒らないんだよ・・・

『正臣?』  

返事をしない俺に、

『どうした?何か怒っているのか?』

「怒ってなんかねえよ・・じゃあ明日九時に来てよ。バイ」  

一方的に携帯を切った。      

光一朗は優しい。優しさの度が過ぎるんだ。

俺が何をしても怒った試しがない。俺が頼めば何でもしてくれる。毎日電話ぐらいしろと言った結果がこの通りだ。  

でも・・・光一朗の方から俺に何かを望むことは決してない。  

俺の“チャルメラ”も午後八時以外に鳴ることはないんだ。    

 

 

「何処に行く?」  

絶好の行楽日和を確約する如く、雲一つ浮かべることなく真っ青に晴れ渡った空。  ピッタリ九時に俺の家の前に横付けされた真新しいシーマの助手席に、深々と身を沈めた俺に光一朗が訊いた。  

偏光ガラスの入ったサングラスを掛けた光一朗の横顔は、ちょっと日本人離れしている高い鼻梁と薄めの唇が綺麗なシルエットを作り出している。  

俺は光一朗を見る度いつも、今までの光一朗への恋は嘘もんで、今まさに光一朗との恋に落ちた気分になるんだ。  

つまり毎度おめでたいほどトキメクって事なんだけど。  

すぐ側に居るだけで、俺の胸は高鳴り、まともに光一朗の方すら観ることが出来ない。

俺は光一朗のことを自分の恋人だと思っているが、実際こんな関係を普通恋人同士と呼ぶのかどうか甚だ定かではない。  

ほんとの所、一年以上こうして日曜日事にデートを重ねているっていうのに、キスすらしたことがないのだ。  

キスはおろか、俺も光一朗も一度も『好き』 だの『愛している』なんぞという言葉を口にしたことはない。むろん手を繋ぐ、抱き寄せる等々の行為に及ぶこともないんだ。  

俺は光一朗と面と向かうと心臓が口から飛び出しそうなほどバクバクするので、まともに顔を見ることも出来ないし、光一朗は果たしてそんなことがしたいのかどうか俺には皆目見当も付かない。  

光一朗は俺が望めば何でも訊いてくれる。 

もしも、俺が一足飛びにエッチをしようと言ったなら、ほんの少しの沈黙の後に、いつもの穏やかな口調で良いよと応えるだろう。たぶんだけど。  

そんなのってあまりにも寂しすぎる。  

俺は普通の恋人同士がごくごく当たり前に進むステップを進んだ後に***したいんだ。    

優しすぎる恋人なんて俺は要らない。  

「何処でもいい。光一朗の行きたいとこに連れてってよ」  

俺のではなく、光一朗の行きたいところへ何処へでもいいから連れて行ってよ。  

俺の返事と供に高級車だけが持つ滑らかな動きで車が滑り出した。  

ホームドラマでよく見かけるような、よく似た外観の家が並ぶ住宅街を抜け、行楽に出かける車で込み合った国道を郊外へと向かう。  

欅並木が青々と茂り、所々に植えられた花水木が可憐な白い花を咲かせている。  

街中を抜け小一時間ほど走ると、だんだんと鮮やかな山ツツジに彩られた小高い山が間近に迫ってくる。

さっきまでの混雑が嘘のようにほかの車は通らなくなってきて、周りに民家も見あたらない。  

期待に小さく胸を膨らませ(光一朗に過度の期待は禁物なんだ)ほんのり甘い声をだした俺は、

「ねえ、何処にいくのさ?」  

助手席の窓から目を離して、光一朗を振り返った。

「何処にも行かないよ。今日はドライブがしたいんだろう?正臣がそうしたいなら、一日中こうして走っていてあげる」  

光を吸って濃いグレーに変わってしまったサングラスのせいで、俺には光一朗の表情が少しもわかりゃしない。  

過度の期待はしていない。

それは重々承知の上だけど、せめて二人切りに成れるところに行こうとしてくれていたんだと思った俺は、あまりの情けなさに視界が霞む。  

外の鮮やかな陽光を滲む涙に浴びて、七色のプリズムに歪んだ光一朗の横顔は、まるで俺をあざ笑う悪魔のようだ。

「止めて・・・」

「正臣?」  

俺の名前を呼ぶ光一朗の語尾が上がる。

「止めろよ!」  

叫んだ俺の望み通り、一車線しかない山道の退避場所を見つけた光一朗は、新車のボディーに細かい傷が付くのを黙認して、かなり草の生い茂った凸凹の空き地に車を止めた。

「気分でも悪いのか?」  

涙に潤んだ俺の目を覗き込んだ光一朗は俺の頬にそっと手を触れる。

「俺に障るな!」  

心とは裏腹な言葉が俺の口から迸る。  

相変わらず、サングラスをしたままの整った顔はなんの感情も表しやしない。

「もういい・・・俺もうヤダ!電話も掛けてこなくていい。休みの度に無理して俺に付き合わなくてもいいよ」  

唇を噛んで俯いた俺の耳に、カチャリとシートベルトの外れる音が聞こえた途端、ほんの数センチの距離にサングラスを外した光一朗のどアップが迫る。

「本気でそう言ってるのか?正臣はそれでいいんだね?」  

怒った光一朗を初めて見た。  

間近に怒りを漂わせる光一朗の綺麗な顔を拝顔した俺は、くらくらして体中がクラゲになってしまいそうだ。  

今にも溶け出そうとしている脳味噌の中から僅かに残った理性を掻き集めて、

「だ、だって。光一朗は、俺と一緒に行きたい所も、したいことも、なんにもないんだろ?」

「あるよ」

「嘘つき。いつも俺のしたいことを訊くだけじゃないか」

「僕のしたいことと、正臣のしたいことが一致しないから、正臣の望む事を優先しているんだ。それでは駄目なのかい?」  

いつの間にか怒りの表情が消えて、光一朗は困ったように首を傾げている。

「俺は光一朗の何?」

「一番大切な人だ。だから大事にしたい」  

甘い吐息が伏せた睫毛に掛かり、俺はそれだけでおかしくなっちまいそうだ。  

身体が小刻みに震え、乾いた口唇を舌で湿らせた。

「正臣・・・」  

乾いた口唇が再びなぞられる。今度は光一朗の舌先で・・・

「こ、光一朗!」  

咄嗟に手で口を塞ぎ、光一朗からズリッと後ずさった。  

運転席のシートに上体を戻した光一朗は、ダッシュボードに置いていたサングラスを再び手に取り、

「ほら。僕と正臣のしたいことは違っただろう?」  

後ずさった俺を悲しげに見詰めた瞳をサングラスで隠してしまった。

「光一朗の・・・したい事って?・・」  

まさか、俺の口唇を嘗めたいなんて落ちじゃないよな・・・

「僕が正臣にしたいことなら山ほど有るさ。でも正臣の望まないことはしないと決めてるんだ。そうしないと歯止めが利かなくなりそうだから・・・」  

薄い唇に自嘲の笑みが浮かぶ。

「俺の望みなら何でも訊いてくれるんだよな?光一朗はいつだって何でも?」  

俺も再び期待に震える指でカチャカチャ金具をならしながらシートベルトを外し、

「俺の望みは・・・光一朗の望みを叶え、普通の恋人のようにけんかしたり、甘えたりしたいんだ。

何が食べたいとかどこかに連れてって欲しい訳じゃない。電話だって光一朗が俺の声を聞きたいと思って掛けてきてくれるんじゃなきゃ嫌なんだ!

俺は毎晩八時に“チャルメラ”聞くために電話を掛けてこいって言ったんじゃない!」

「チャルメラ?なんのことだい?」

「俺の携帯のメロディ。チャルメラなんだ」

「チャルメラってあのラーメン屋がラッパで吹くあれ?」  

真面目に俺は恋しい気持ちを切々と訴えていたはずなのに、光一朗はくすくす笑いだした。

「わ、わらうなよ!」

「ご、ごめん。そう言えば僕は正臣の携帯が鳴るの聞いたことないな」

「当たり前だろ。この電話の番号知ってんの光一朗だけだもん。一緒に居るときに鳴るわけねえじゃん」  

ふてくされてぶつぶつ言った俺に、

「僕だけの鳴らせるチャルメラか・・・聞いてみたいな」  

光一朗は胸ポケットから自分の携帯を取り出して、ボタン一つで俺の携帯に電話を掛ける。一番親しい人だけが持つ携帯電話の指定席だ。    

俺達はどちらからともなく唇を合わせた。 

鮮やかな緑の木立が鬱そうと茂る山の中。 

背丈の高い雑草の生い茂った空き地に止めた狭い車内で、優しすぎる恋人は俺の本当の恋人になったんだ。  

電子音の奏でる“チャルメラ”をBGMに流しながら。              

〈終わり〉