Crystals of snow story
白銀の鬼神
Destroy Angel様リニューアルお祝い作品
心惹かれるほど、美しく燃えるような新緑に彩られた皐月の山道。 さやさやと梢を揺らしながら、かなり急ぎ足で一人の青年が降りて来た。 余春とはいえ日中は日に日に夏めいて、竹で編まれた大きな背負子を広い肩に背負っている青年は、額や首筋にぐっしょりと汗を滲ませている。 山間にある小川のせせらぎまで降りてきた青年は大きく息を吐くと肩に背負っていた大きな背負子を降ろした。 転ばぬようにゆっくりと、おうとつのある川縁の砂利を踏みしめて、腰掛けるのにちょうど良い大きさの岩に腰を下ろした青年は腰の帯に挟んでいた手ぬぐいを冷たい水に浸すと、褐色の逞しい胸元の汗を拭った。 「もうお日様があんなに傾いてしまった。汗が引いたらすぐに村に帰らねば、直に暗くなってしまうな」 誰に言うともなく呟くと青年は僅かに着物の裾を端折って草履を脱ぐと、バシャバシャと飛沫を立てながら素足を清らかな流れに浸した。 「ああ。いい気持ちだ」 両手を腰の横に下ろして岩で身体を支えると、ゆっくりと高く蒼い空を仰いで目を閉じた。 青年の名前は耕太と言う。 奥深い山間の村に祖母と妹の三人で細々と暮らし。この夏、数えで十七を迎えたばかりだった。 耕太の亡くなった母親は丹後から此処に嫁入りした機織りの名手で、年は若いが妹の繭もまた、織物を京の都に持っていけば必ず高価で買い付けて貰えるほどの腕前だった。 その妹の為に耕太は畑仕事の合間にこうして、草木染めに使う草の根や葉を山の奥深くに取りに来ているのだ。 いくら田舎だとて、山奥は若い娘が一人で来るところではない。 巷では各国の大名が天下を取ろうと野心を燃やし、血なまぐさい戦乱の時代を迎えようとしているが。翆緑に燃える色とりどりの美しい木々に囲まれた此処は丹後と京の狭間にある深い山の中、古より鬼の住むという大江山。 ☆*☆*☆ 「さあさ、暗くならないうちに帰らないと、またばあさまに鬼に取って食われるって、言われちまうな」 ほんとに、ばあさまときたら迷信深いんだから。 一人でやれやれと笑いながら川から上げた足を拭って草履を履いていると、小川のせせらぎや、木の葉の揺れる音以外に、何か生き物の立てる物音が近づいてくる。 ガサッ! 耕太の立っていたすぐ後ろの茂みが大きく揺れた。 「だ、誰だ!?」 岩の上で身体を捻った耕太は、懐に忍ばせてある小刀に手を当てて、深く生い茂っている茂みに、声を掛けた。 山の中には恐ろしい物は数多くある。山犬や猪のほかに、時として追い剥ぎや山賊が出没することもあるのだ。 キュ〜 「あぁ。びっくりした。水を飲みに来たのか?さあ、怖がらなくてもいい、出ておいで」 ホッと胸をなで下ろし、岩から降り立った耕太は安堵の溜息を吐くと、優しく茂みに向かって声を掛けた。 しかし、物音のした茂みの木の葉を揺らして出てきたのは、子鹿を胸に抱いた一人の人影。 「ひっ・・・ひぃ〜・・・・・」 大きく目を見張った耕太の膝が、まるで音が聞こえそうなほど激しくカタカタと震え出した。 耕太のすぐ目の前には、白銀の髪を川縁に吹く爽やかな風にそよがし、見たこともない程、蒼い、蒼い瞳をした若い男が立っていた。 その頭に乳白色の二本の角を覗かせて。 鬼は耕太にほんの少し物言いたげな瞳を向けた後、耕太のすぐ横を通り、傷ついた子鹿の後ろ足を労るように、そっと、子鹿を水辺に下ろしてやった。 腰を抜かしている耕太の驚きをよそに、よほど喉が乾いていたのか子鹿は一心不乱に水を飲み始めた。 「怪我・・・・を、しているのか?」 後ろ足を庇って、器用に三本の足で立つ子鹿を見ながら耕太は鬼に恐る恐る尋ねた。 「そうだ。だから綺羅(きら)が此処に連れてきてやった」 子鹿のまだしっかりと斑点の残っている背を撫でながら鬼が応えた。鬼の声は少女のそれのように優しげで、その声のおかげか耕太の震えが不思議に退いた。 「俺、傷薬を持っているぞ。そいつに塗ってやっても良いいか?」 少し正気に戻った耕太は、背負子にくくりつけてある竹の筒から軟膏を取り出すと、水際にいる子鹿と鬼の側に寄った。 織物の染料にするための、草や木の根を取りに山に入るときには必ずばあさまが『怪我すんじゃねえぞ』と持たせる物だ。 「おまえは綺羅が怖くないのか?」 逃げ出さずに近くに寄ってくる者がいるなど思いもしなかった綺羅は、その白銀の髪を掻き上げて顔を上げると、晴れ渡る空よりも蒼い双眸で耕太を見詰めた。 「恐く・・無くはない・・・・・・。綺羅って?お前の名前なのか?」 耕太も偽りのない黒曜石の瞳で、白く美しい綺羅を見詰め返した。 もちろん、腰が抜けるほど驚いたけれど。 それに、目の前にいるのは、いつもばあさま達から話に訊いていた鬼の風貌とは似てもにつかない姿をしていた。 確かに眼前に立つ綺羅には紛れもない二本の角は有る。 「お前は?」 「俺?ああ、俺は耕太って言うんだ」 耕太は、にっこりと綺羅に笑い掛けた。 「耕太・・・・・・・耕太、いつか、ここにまた来るか?」 耕太の笑顔に眩しそうに目を細めた綺羅は、しばらく逡巡したのち真面目な顔で問うた。 「え?なんでだ?」 「綺羅は耕太の笑った顔が好きだ。子鹿も可愛いが、子鹿は笑わない」 「おかしな奴だな、そりゃ子鹿は笑ったりしないさ」 素朴な綺羅の賞賛の言葉に、耕太はなぜかほんのり頬を赤らめて、もう一度笑った。 その笑顔に釣られたのか綺羅もふふっと笑みを零す。 「綺羅は何処に住んでいるんだ?」 川縁に足を組んで座っている綺羅の横にぺたりと腰を下ろして耕太は訊いた。 「綺羅はこの山に住んでいる」 「それは俺も同じだけど。家は無いのか?」 「家?ああ、人間の村にあるあれか?綺羅は持っていはない」 「家族は?他の鬼は何処にいるんだ」 みんながみんな、綺羅のようではないかもしれない。そんな不安が耕太の脳裏を横切り思わず周りをきょろきょろ見回した。 「綺羅しか居ない。綺羅がたぶん最後の鬼だと榊(さかき)が言っていた」 すっ〜と蒼い瞳を綺羅は細めた。 「榊?それは誰?」 「綺羅と榊は朱鷺(とき)から生まれた」 「・・・?ってことは、兄弟なんだな?その榊と朱鷺は何処にいるんだ?」 「ここ」 綺羅は白く美しい手で、地面を軽く叩いた。 「朱鷺のことを綺羅は知らない。綺羅を生んで直に死んだと榊は言っていた。榊も随分前に土に帰った。他の屍と同じ」 吸い込まれそうなほど蒼い綺羅の目に悲しみがよぎる。 「そっか・・・・俺のお袋も三年前に死んだんだ。おやじはもっと前だ。それでも俺には、ばあさまと繭が居るけど、綺羅はそれじゃあ一人ぼっちなんだな?」 「綺羅は榊以外の鬼に会ったことがない。だからもう、綺羅しかいない」 「寂しくはないのか?俺ならひとりぼっちなんてとても絶えられないけどな」 母を亡くした時の悲しみが、不意に耕太の胸によみがえる。まだ幼かった繭が母の死を理解できないことがとても不憫だった。 「榊は綺羅の総てだった。綺羅は白くて小さくて弱いと、いつも大切に守ってくれていた。 綺羅の呟きと供に、川風が綺羅の白銀の髪をふんわりと揺らした。 まるで榊が風になって愛しい綺羅の髪を撫でたかのように。 「お、俺ではだめか?綺羅の友達になれない?」 耕太は横に座る美しい綺羅を、少しでも慰めたかった。 「友達?」 「そう。友達。綺羅の言う鬼の仲間にはなれないけど、こうやっていろんなお話しをする友達には成れるだろ?」 「また、話をしに来るのか?」 耕太の言葉に綺羅は瞳を輝かした。 「ああ」 耕太はコックリと頷いて見せた。 「榊がいなくなってから、どきどき高い木の上から村を見る。村には色んな人間が居て面白い。綺羅に話してくれ、綺羅の知らぬ事を沢山。耕太のことは前から知っている。よく山に来るし、村の中で一番耕太が綺麗だ」 「き、きれいぃ〜??お前の審美眼おかしいんじゃないのか?」 たとえようもなく美しい綺羅に綺麗だと言われて戸惑う耕太を見て、綺羅は楽しそうに笑った。 確かに耕太は村の娘にも人気が高かった。耕太を射止めたがっている者は近隣の村にも多くいるし、都に出れば、女からだけでなく男から誘いを受けることもたびたびあった。 位の高い都人の中には美しい女をはべらすだけでは飽きたらづ、耕太のように見目の整った青年を傍に置きたがる風習があるのだという。 ただ綺羅の場合そんな意味ではなく本心から耕太を賞賛しているのだ。褐色に灼けた健康そうな肌や、笑顔の似合う爽やかな容姿は村の誰よりも魅力的で、ぼんやりと村を眺めていた綺羅の目をいつも引き留めていたのだ。 「あっ!いけない」 真横に居る綺羅の白銀の髪が夕日で茜色に染まっていくのを見て、耕太は急いていたことをようやく思い出した。 あわてて立ち上がった耕太に、綺羅は不思議そうな瞳を向けた。 「綺羅。お前に今度会いに来るにはまた此処に来ればいいのか?」 「今度は何時来る?」 蒼い目を踊らせて、嬉しそうに綺羅が訊いた。 「これから夏の間は時々原料を取りにこの辺りまで来るから、そうだな五日ほど経ったらまた出てこれると思う」 「誰もいないところで、綺羅と耕太が呼べば、綺羅はすぐに来る。だからなにもここでなくてもいい」 「すぐ来るって・・・・・ほんとか?」 「綺羅は本当のことしか言わない」 半信半疑の耕太の言葉に軽く首を振って、綺羅は再び笑った。 沈みゆく夕日に透けるような白い髪と白い肌、見たこともない美しく蒼い瞳。 綺羅。俺もお前の笑った顔が好きだよ。 耕太は言葉に出さずに呟いた。 「耕太。綺羅に掴まれ。村まで送って行ってやる」 背負子を再び背負った耕太に綺羅が言った。 「つ、捕まれったって。お前の方が小さいじゃないか」 無理だと返事をするまもなく、側に来た綺羅は背中と背負子の隙間に手を入れて、耕太をふわりと抱き上げた。 「わっ!」 自分より遙かに華奢な綺羅に軽々と抱き上げられて、耕太は呆然と驚愕している。 「耕太!しっかり掴まれ」 その声と供に、梢を揺らし、綺羅は宙を飛ぶ。 夕闇の迫る中、軽々と耕太を抱えたまま恐ろしい早さで、綺羅は鮮やかな緑の樹から樹へと跳躍を繰り返す。 肌を切り裂くような風に、きつく瞼を閉じたまましっかり綺羅に捕まっていた耕太を、村を見下ろす小高い丘の上ににそっと下ろすと、綺羅は耕太の耳元に囁いた。 「村だ。耕太」 「あぁ・・・・・・・凄っげぇな。綺羅は・・・」 息を弾ませて、地面にしっかりと両足をつけた今も、あまりの驚愕に、まだ胸の動機が収まらない。 「またな。必ず会いに行くから。ちゃんと呼んだら来いよ、綺羅」 耕太は無意識に綺羅の長い白銀の髪に手を触れた。 「うん・・・」 綺羅もまたゆっくりと瞼を閉じて、髪に触れた耕太の手に頬を当てた。肌のぬくもりを感じるのは何年ぶりだろう・・・・耕太の温もりをその白磁の頬に綺羅はしっかりと焼き付けた。 ☆*☆*☆ 「耕太!一体いつまでうろうろしている。何かあったかと心配したろうが」 「そうよ、兄さん。心配したんだから」 すっかり宵闇に包まれた村に戻った耕太は、ほんのりと灯火のともる我が家に付くなり、ばあさまと繭に酷く叱られてしまった。 しかし耕太は知っている。この少し厳しい年老いた祖母が両親亡き後、耕太たち兄妹を一番愛してくれていることを。 「ごめん、ごめん、ばあさま。繭も悪かったな。でもほら、たくさん原料を取ってきたぞ」 耕太は背負子を下ろして上がり框に腰を下ろすと、二人に背負子を傾けて中身を見せた。 「わぁ、すごい・・・・・夜叉附子(やしゃぶし)もたくさんある。ありがとう兄さん」 この松かさのような実は深い山にしか無いが、貴重な黒い染料が取れるのだ。 「繭にたんと取ってきてやりたいのは分かるが、こんなに遅くまで森の中に居ちゃなんねえ。山賊や鬼に捕らわれちまうぞ」 祖母はぶつぶつと小言を言いながらも、耕太の元気な姿にホッと息を吐いて、囲炉裏端に戻ると、目の中に入れても痛くないほど可愛い孫息子に、サツマイモの入った粥をよそってやった。 「ほら、耕太の好きな紅芋の粥じゃ。腹が減ったろう?早うお食べ」 「ああ、美味そうだな。ほんとに腹がへったよ」 耕太も囲炉裏の側に行き、祖母の手からほこほこと湯気の立つ粥を受け取りながら、祖母が発した先の言葉を反芻した。 本当にばあさまの言う通りだよ。今日、俺は、あの美しい鬼に捕らわれてしまった。 しかし、こうやっていつもと同じようにばあさまの顔を見ていると、今日綺羅に出会ったことがまるで夢の中の出来事のような気がしてくる。 とても綺麗で、優しい夢。 「耕太!ぼんやりしてると粥が冷めてしまうぞ」 「え?ああ、そうだな。いっただきます」 「なんじゃ?耕太はぼんやりして。山で狐にでも化かされてきたのか?」 祖母は深く皺の刻まれた顔に、さらに皺を増やしてにこやかに笑った。 狐?まさか、ほんとは鬼なんかじゃなくて、狐に化かされちゃったんじゃないだろうな。 耕太も祖母につられて、くすくすと笑った。 友達になろう。 沢山話をしよう。 お前をひとりぼっちになんかしない。 〈終わり〉 |
このお話は、昨年春に献上品としてお渡しした作品ですので、読んでくださった方もいらっしゃるかもしれませんね〈笑〉
基本的には好きなんですね〜こういった話がv
また、鬼だとか天狗だとか書きたいですvv