*あなたの声が聴きたくてK*

 

『小鳥は飛び立ってしまった。  

君に知らせるべきか否か熟考したが、未知の事を一番に考えるのなら、知らせるべきだと思う。  

鳥籠から逃げた小鳥は長くは生きられないものだ、だが敢えて私が追うのは止しておこう。

未知が初めて自分の意志で人生を歩もうとしているのだから。  

君と未知との幸せを祈れるほど私は心の広い人間ではないが、未知には幸せになって欲しいと心から願っている。

私の与えることの出来なかった幸せを君は未知に与えることが出来るのかも知れない。

君がまだ未知への想いを持ち続けているのなら、折り返し連絡をくれたまえ。                

                                           鹿川敏彦』

 

未知さんがいない?複雑な思いで泡立つ胸を宥めながら、メールを読み終わった後、啓士は急いで返信を打った。

鹿川に会い真実を知るために。  

数日後、ようやく連絡が取れ、実際に鹿川に会えるまで啓士の頭は真っ白だった。  

折角前田が善意で送ってくれた、ドイツ語の資料すらどこかにポンと抜け落ちて、まるで夢遊病者の様に後期の試験の残りを受けた。  

普段なら試験の出来に友人達と一喜一憂してるはずなのに、友人に話しかけられてもまるで上の空で、啓士はふわふわと雲の上を歩いている様な有様だった。

唯一の救いは試験中でバイトを休んでいることぐらいだろうか、このままラブリーのホールに出たなら、コーヒーを客に零すどころか、何をしでかすか分かったものではない。   

 

約束の日、意を決して啓士は指定された店へと出向いていった。

込み合う街を歩く啓士の頭のなかをぐるぐると想いが交差する。  

未知を恋いこがれる熱い思い。  

鹿川との考えたくはない関係への嫉妬。  

それを越えてなお、幾度となく沸き上がる浅はかな願い。                 

 

チリリンと涼やかな音を鳴らして啓士は喫茶店のドアを開けた。

約束にはまだ10分以上あるが鹿川の指定した喫茶店についたのだ。  

割合と大きなホールにはテーブルが10数個有り、啓士はドアの傍にあるテーブルに後で連れがくるからと腰を下ろした。  

ウエイトレスが水を運んできたと同時にドアが開き、颯爽としたイギリス紳士のようにトレンチコートを腕に掛けて、ツイードのスーツを着こなした鹿川が店内に入ってきた。 

「待たせたかな?私はブレンドを頼む」   

啓士に軽く会釈をした後、注文を取りに来たウエイトレスにそう言うと、啓士の真向かいの椅子を鹿川はゆっくりと引き腰を沈めた。

「俺もさっき来たところですから。そんなことより、いったい何がどうなっているんです?」

鹿川が座りきるのを待てずに、啓士は訊いた。

「メールの通りだ。未知はクリスマスの当日にあのマンションから姿を消したよ」  

鹿川はほんの少し疲れを感じさせる緩慢な動作でテーブルに肘を突き、

「君の所には行ってないんだね?」  

射るような眼差しで確かめるように訊いた。

「俺の・・・所にいると思っていたんですか?」

「いや。  

むしろ、君の所にいてくれれば良いと思っていただけだ」

ふぅーと息を付き、そうかと鹿川は呟いた。

「何故です?あの時あなたは未知さんは自分のものだとハッキリ俺に言ったじゃないですか?なのに何故?」  

詰め寄る啓士から視線を逸らすことなく鹿川は訊いてくれと話し出した。

「長い話だ。もう20年近くも昔。  

私のうちに父が未知を連れて来たんだ。  

未知がまだ5つのときで、白いセーターに赤い半ズボンを履いた未知は、まさにお人形のように可愛かったよ」  

目を細め語りだした鹿川は啓士の向こうに幼い未知の姿が見えるかのように懐かしそうに空を眺めた。

「未知は父の親友だった朝霞夫妻の子供だったんだが交通事故で両親を亡くして、うちに引き取られてきたんだ。

私は当時中学に通っていたが、親戚でも何でもない子を父が引き取るという事への疑念より、小さな可愛い弟が出来たことに有頂天になっていた」

「その頃はまだ・・?」 

「ん?ああ、その頃はちゃんと聞こえていたよ。あの騒動があるまではね」

「騒動?」  

啓士が聞き返したときに、ウエイトレスが注文したコーヒーを持ってきたので、会話は一時中断し、鹿川は胸ポケットから取りだしたラークに悠然と火をつけた。  

ウエイトレスがテーブルを離れると同時に紫煙を長々と吐き出した鹿川は、赤いタバコの箱を啓士に進める形で差し出しながら再び話を戻した。

「よくよく考えてみればおかしな話しだろう?幾ら学生時代からの親友が死んだからって普通は子供など引き取ったりしない。  

未知がうちに来てから仲が良かった筈の両親に亀裂が入りだしたんだ。  

母は事あるごとに父を詰っていたよ。未知は父の子供なんじゃないかってね」

「な・・・じゃあ、異母兄弟なのか?」

「いや、DNA検査の結果、未知は紛れもなく朝霞夫妻の子供だったよ。

たぶん、本当は父の言うとおり未知の母親とは一度も深い関係などなかったんだろう。 

鬱々と悩み、あんな事になる前に母のためにも、もっと早く調べれば良かったんだ」  

鹿川は悔しげにタバコを灰皿にきつく押しつけて消した。

「しかし、母が疑うのも無理はなかった。  

朝霞のおばさんは凄く綺麗な人だったし、父が未知を引き取ったのもおばさんの面影を幼い未知にみたからだと私も今は思っている。

深い関係などなくても、そこに確かな想いが存在すれば母にとっては裏切りに違いはないのだから。 

父との言い争いが増してくるごとに、母の未知に対する態度は段々常軌を逸し。  

私が学校のスキー合宿で数日家を空けている間に、ちょっと手を滑らせて母の大事にしていた茶器を割ってしまった未知を母は一晩表にたたせておいたんだ

二月の凍てつくような寒い夜。  

部屋着のままで、一晩中。  

凍死しても不思議じゃなかったと、知らせを受けて病院に駆けつけた父に医者が言ったそうだ」

「何で・・・そんなひどい・・」 

「ひどいよな・・・人は憎しみに捕らわれると時に鬼になる。  

40度を越える高熱が一週間続き、熱が下がったときには未知は音も言葉も失っていた。  

医者が言うには、聴く能力は熱のせいで奪われたが、声帯にはこれと言った異常がないからしゃべれないのは精神的なものが原因だろうと言っていたよ。  

実際に、眠っているときに微かだが何かを呟く事がある」

「じゃあ、口は利けるんだ?笑い声を俺は一度だけ訊いたことがあるけど・・・」

「けいじ・・・」  

鹿川がポツリと呟いた。

「はぁ?」

「未知が、何度か夢の中で呟いた言葉だ。囁くように何度も繰り返していたよ。  

私も道化だな、恋敵にこんな事をわざわざ教えてやるなんて」  

クスリと苦笑いを漏らした鹿川は、コーヒーではなく冷たい水を手に取り一気に飲み干した。

「それでもいいと思っていたんだ。  

たとえ君に未知が初めての恋をしたとしても、たとえ君との間に何かがあったとしても、昔のように未知を庇護するのが私であり、未知も私の翼の中で眠るのを望むのならそれで良いと思っていたんだがな・・・」

「鹿川さん・・・」

「あの日、君が出ていった晩、未知は私の胸ではもう眠らない、いや眠れないと言った。  

私の庇護はいらないと、君と同じラインにたちたいとも言った。  

未知は音を無くしてから初めて自分の意志で生きようとしたんだ」

「いま、今、未知さんはどこにいるんですか?」 

今すぐにでも未知を探し出したい衝動に駆られた啓士はテーブルに両手を着いて立ち上がった。

「私にも分からない。  

だが、編集者にはいずれ連絡が入るだろう、未知が生きていくための糧を得るのは絵本の仕事だけだからな。

居所が分かれば必ず君に連絡しよう」  

これで交渉は成立だと鹿川はにこやかに右手を差し出した。

「あなたは本当にそれで良いんですか?未知さんを愛していると言っていたのに」  

鹿川の好意を嬉しいと思う反面、こんなにもあっさりと恋人を手放せるものなのかといった疑念が握手に応じるのを躊躇わせた。

「愛しているよ。血が繋がっていなくとも大切な弟だからね」

「おとうと・・・?でも・・そういう関係だったんでしょう?」  

苦渋に満ちた啓士の問いに、鹿川は明らかに瞠目した。

「関係・・・?」  

聞き返されて、啓士はクッと言葉に詰まり赤くなって黙り込んでしまった。

「そうか」  

カッカッと大きな声で鹿川は笑い出した。

「君はそんな風に思っていたのか?  

私と未知との関係は、きっと父と朝霞のおばさんとの関係のようなものだ。  

私は未知を愛している。大切な恋人のように守っても来た。

確かに未知が望めば君の言うような関係を持っただろう。

その事は否定しないが生憎、未知が私に求めたのは恋人ではなく守護神(ガーディアン)だったんだよ」  

にわかには信じられない言葉に、

「でも、寝言を訊いたとか、一緒に眠るって・・・」

「音を無くして以来、未知は暗闇を極端に嫌う。だから私が傍にいてやれるときは私の腕の中で未知は眠るんだ。  

クリスマスイブの夜も未知が眠るまで抱いていたんだが、風呂に入ってる間に君が来て目が覚めたんだろう」

じゃあ、あの移り香は・・・・なんだ。そうだったんだ。 

晴れ晴れとした気分でしっかりと鹿川の手を握り返した啓士は、必ず連絡をくださいねと念を押してから鹿川と別れた。    

いったい町の景色がこんなに綺麗に見えるのは何カ月ぶりだろうかと啓士はあちこちを眺めながら歩いていた。

まだ冷たい空気の中で、店先におかれた鉢植えの桃の花が紅色に彩られて綻び始めていた。      

 

一月近くもたってからようやく未知の新住所が出版社から鹿川経由で送られてきた。 住所は思いの外遠く、啓士は無理を言ってバイトを休み、電車を二時間も乗り継いで、小さな駅に降り立った。  

小さなターミナルには路線バスが二台止まっていて、道路向こうに数件並ぶ店の端にコンビニを見つけた啓士はメモを片手に道順を訊こうと道路を横切っていった。  

 

キュンとねじれるように胸が鳴った。  

 

道路に面したガラス越しに、見まごうことのない未知の姿が映っている。

コンビニにいる未知の姿を見つけただけで、鼻の奥がツンとして、ガラス越しに映る未知が3っに見えた。  

啓士が店の外にいることに気づかない未知は、中年のおばさんに籠をわたし、会計を済ますと、白いビニール袋を右手に下げてクルリと啓士の方を向いた。

自動ドアを踏んでドアが開いた瞬間、未知の瞳が驚きに見開かれた。

「未知さん!」  

啓士に声を掛けられて、未知は泣き笑いのような顔で口唇を噛み立ちすくんでしまった。  

同じ様な泣き笑いを浮かべた啓士が数歩近づいてくると、未知は絞り出すような声で囁いた。

「け・・いじ・・・・」

 

 

「電気、付けようか?」  

狭いベッドの中で啓士が尋ねると、眠たそうな瞼を一生懸命開けていた未知が慌てて首を横に振った。

「暗いの嫌いなんだろう?」  

もう一度顔を寄せてからかうように尋ねると今度は拗ねたように頬を染めて未知は目を逸らした。  

怒るなよと笑いながらついさっき熱く燃え上がった未知の躯を啓士は腕の中にギュッと抱き込んだ。  

肌と肌が触れ合うことがこんなにも愛しく幸せなことだと啓士は今日初めて知った。

満ち足りた幸せの中で、未知の耳朶を口唇に含ませながら啓士が、

「愛しているよ」  

と囁くと、くすぐったそうに未知は首を竦めて、安心しきった表情で微笑んだ後、静に瞼を閉じた。      

 

常人には聞き取れない魔法の音が世界には幾つも存在する。  

啓士の胸で安らかな眠りについた未知には、遠くから急ぎ足でやってくる春の足音が確かに聞こえていた。

〈おわり〉