Crystals of snow story

*ANGEL*

11

 



人が人を思う心の容量は決まっているのだろうか。

誰かを沢山愛したら、今まで愛していた相手への愛の分量は天秤の重りを移し替えるように、片方は軽くなり片方が重くなるのだろうか?

それが、恋愛だとすれば、たしかにそんなこともあるのだろうと、幼いながらもセルは思った。

今は考えられないけれど、もし、自分が眞一以外の誰かに恋をすることがあれば、眞一への思いは薄れていくのだろう。

だから、人は何度も恋をするのだ。

でも、形の違う愛、たとえば父への愛はたとえどれだけ恋しい人が出来たとしても、薄れるはずがないとセルは信じていた。

もしかしたら、いや、もしかしなくても、血が繋がってすらいない自分を、まして、いわゆる普通の子ではない特殊な子供である自分を、男手一つで慈しみ育ててくれた父への愛が消えるはずなどないと信じていたのだ。

しかし、父の様子はあきらかに違った。

最初は単に年の離れたいわゆるプレイボーイの烙印がある眞一との交際に懸念をもっているだけだと思っていたが、徐々に常軌を逸してくる父の様子は、単にそんなことではないとセルに切実に語りかけて来ていた。

セルが眞一に寄せる思いの強さが増すたび、父はあきらかに畏れていた。

セルの心の中にある天秤の重りが、少しずつ、眞一の受け皿へと移っていってしまうことに。

ふたりで過ごす夕餉の時間は昔から親子の大切な時間だった。

寡黙な父がたいていセルが話すその日の出来事にほほえみを浮かべ相づちを打つ。

大きな笑い声が絶えないような、にぎやかな家庭ではなかったが、ふたりは、ふたりだけで幸せだった。

住む国さえ、何度か変わりはしたが、セルの成長とともに他人に家事を頼む必要もなくなり、ふたりだけの静かで優しい生活が続いていたはずなのに。

恋する気持ちを知ったセルの蕾が花開くような変化とは反比例するように、父の心には得体の知れない暗雲が広がっていった。

大切な、大切な天使が、また、いなくなってしまうのか。

父の心には黒い不安の波紋が広がっていくのがわかる。

その不安から、少しでも逃れたくて、あまり強くもない酒に手を出す。

酒を飲めば、自制心が薄らぎ、つい、些細なことでもセルを怒鳴るような日々が続いた。

数日前、そんな父の体が心配で、

「今日はもう、飲まないで・・・・・」と、スコッチの瓶をしまおうとしたセルを払いのけ、その拍子にサイドボードの角にしたたか胸を打ち付け、息が出来ないほどの痛みに蹲ってしまった。

「セルジュ!!」

ガタンと椅子をはね除け、青ざめて駆け寄ってきた父はセルを抱きしめて、何度も怪我はないか?と繰り返し訪ねたあと、許してくれ・・・・・・・・と、おまえまで失ってしまうようで怖いんだと、声を押し殺すように泣いた。

初めて見る、父の涙に、セルはどうしていいのかわからず、打ち付けた痛みすら忘れて、ただ、父の背を抱きしめ返した。

「J'aime le pere・・・・・・J'aime ・・・・・」

愛しているのだと、セルも泣きながら父を抱きしめ続けた。

どんなに眞一を愛したとしても、あなたへの愛は変わらないのだと。

 

 

「今日、また、会っていたんだな」

あの日から、ピタリとお酒を飲むことをやめた父が、冷や奴にお醤油をかけながら、さらりと言った。

いつもの、詰るような口調ではなく、この豆腐はどこで買ったんだというような、抑揚すらない口調で。

「え?!」

口に運びかけていた、ご飯を、セルはぽろりとお茶碗の中へ零した。

「カフェテリアにいただろう?」

「ご・・・ごめんなさい・・・・・お父さん」

出来るだけセルは校内での待ち合わせはしたくなかったが、父に交際を止められると眞一に告げることも怖かった。

恋人でも、親友でもない、あの人から見れば自分は取るに足らない子供なのだ。

お父さんが会うのを嫌がっているのなら、会わない方がいいねと軽く言われてしまうような気がして。

「謝ることはないさ」

父が小さく笑った。

「お父さん??」

一瞬、セルは父が眞一との交際を認めてくれる気になったのかとおもったが、見つめ返した瞳の冷たさにぞくりとした。

お酒を飲んで怒鳴られるより、なぜか空恐ろしいものを、父の漆黒の瞳は感じさせる。

「いくら、私があの青年とは会わないで欲しいといったところで、おまえはそのつもりはないのだろう?」

今度は、焼き魚の小骨を綺麗な箸裁きで器用に取りながら、父は訪ねた。

まるで、この魚は小骨がおおいなとでも言うような口調で。

「ごめんなさい・・・・・」

尻すぼみに謝るセルに、

「謝ることはないと言っている」

ぴしゃりと、父が言葉を被せた。

ビクっと、竦んだセルに、父はにこやかに言った。

「おまえがあの青年とつきあうのを辞めれないというなら別にかまわないさ、おまえに同年代の友人とだけつきあえと言うのは確かに酷だからね。
ただ、私もおまえをあの男にさあどうぞと、やる気はないよ」

父の言葉を測りかねたセルが不思議そうに目を瞠ると、

「おまえが好きになった相手があの青年でよかったかもしれないね。おまえのことを失わずに済む方法をおもいつかせてくれたよ」

くすくすと楽しそうに父が笑った。

「心配しなくて良い、酷いことはしないよ。だいじなだいじな私のセルジュだからね」

そう言って、父はテーブル越しに伸ばした手で、セルの頬を優しく撫で上げた。

大好きな父に触れられるのは大好きだったはずなのに、セルの背中にゾクリと得体の知れない悪寒が走る。

「ほんとうに、おまえはエリザベートにそっくりになってきたね。綺麗だよセル」

「お父さん・・・・・・・」

漆黒の瞳が夢見るように揺れる。

「そうだね、もう少し髪を伸ばすと良い、もっと綺麗になる。ああ、それから、今日からは私のことを一馬とでも呼んでくれないか?」

「お父さん・・・・・・・?」

「ほら、だめだろう、セルジュ、一馬だ。エリザベートはそう呼んでいたからね」

もういちど、今度は手の甲でゆっくりとセルの頬を撫で上げた。

「おまえの実の父親でなくてよかったよ、セル。さすがに本当の親子じゃ愛し合えないからね。そんな非道なことはあいつじゃあるまいし、私には出来ないさ」

夢見る瞳のその奥に、狂気の光が見える。

父の言葉を噛みしめるように反復すると、セルの体は手足の先から徐々に凍り付いた。

「どうした?怖がることはないよ。大事にするよセル。
今まで以上に沢山かわいがってあげるだけだ」

「お・・・・・お父さん。気はたしかなの??」

ごくりと生唾を飲み込むと、乾ききった口から、ようやく、なんとかそれだけの言葉を発することが出来た。

「気はたしかかって??当然だろう?」

あははと、今度は声まで上げて父は笑った。

「おまえが私の実の息子じゃないのは、おまえもとっくに知っているのだろう?」

ずっと封印してきたはずの秘密を、父は何でもないことのように聞く。

「そ、それは・・・・・・・でも、ぼくのお父さんは、お父さんだけだよ」

大好きな敬愛してやまない父を縋るように見つめるが、父の夢見るような狂気は一向に消える気配がなかった。

「エリザベートの子だからね、おまえは。
だから大切に育ててきたんだよ。嬉しいことに、おまえは彼女によく似ていた。
大きくなるにつれ、彼女が生き返ってきたような錯覚にすらとらわれるほどにね。
綺麗だよセルジュ。
美しすぎて周りのものを狂わせるのも、エリザベートそっくりだね」

「狂わせる・・・・?お母さんが?」

秘密を知りたくはなかった。でも、聞き返さずにいられなかった。

今まで封印されたパンドラの箱は開いたが最後、閉じることは出来ないのだから。

「わたしとエリザベートがパリで出会ったのは知っているね?それはもう女神のように綺麗だったよ。
彼女を愛さない男は誰一人いないほどだった」

そこで言葉を切った父は立ち上がり、ここ数日やめていたはずのスコッチをおもむろにサイドボードから取り出すとボトルに口をつけ、一口煽った。

「そう、誰一人愛さないものはいなかったんだよ、セルジュ。実の兄さえもね」

立ったまま見下ろしてくる父をセルは言葉を失ったまま、ただ見つめ返した。

「聡明なおまえならわかるだろう?
なぜ、近親間の結婚をほとんどの国が禁じている?
濃すぎる血は染色体の異常をもたらす可能性が高くなるからだよね。
反対に、ごくまれに、おまえのような天才児と呼ばれる子も生まれるらしいがね」

父のヒステリックな高い笑い声に、セルは両手で耳をふさいだ。

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セルと加瀬助教授の会話は家庭ではフランス語です。

が、氷川はフランス語はさっぱりわかりませんので、和訳しております(笑)