Crystals of snow story

*ANGEL*

12

 



手元明かりだけで、洗い物をし終わった後も、セルはしばらくの間、蛇口から流れ出る水流に両手をかざしていた。

蛇口から流れる透明な水を眺めながらセルは浅はかな願いだと思いながらも考えずにはいられなかった。

あの日両耳を塞いだはずのこの手。

父の放った残酷な言葉を塞ごうとしたこの手・・・・・・

今流れている、透明な水があのときの言葉をすべて文字通り水に流し去ってくれればいいのに・・・・・・・

この10日間ほどのことはすべて悪夢だったのだと。

そんな風に、何もかも流し去ってくれれば。

蛇口のレバーを上に押し上げて水を止めると、セルはタオルで手を拭きながら虚しい願いに小さく頭を振った。

父の子で無いのではないかと、セルはずっと以前から疑問に思っていた。

信じたくない気持ちが心の中に封印してしまっていたが、ほぼ、確定事項としてそうだろうと判っていたことなのだ。

しかし・・・・・・・・まさか、自分が母と母の実兄の子供だなどとはセルは考えたことはなかった。

古代エジプトでもあるまいに、兄妹で愛し合うなど普通はあり得ないことだろう。

見たことも聞いたこともない母の兄。

思い返せばフランスに住んでいた頃も母の親族に会ったこともなければ、父が母の家族について話すのも聞いたことがなかった。

もちろん母方の祖父母にあったこともない。

しかし、それは西洋人との結婚に反対だったらしい父の家族とも疎遠であり、こうして日本に戻ってきてからも、セルは父方の祖父母どころか、加瀬家の誰かとも一度も顔を合わせた事がなかったのだから、さほど不審な事ではなかったのだ。

母の兄であり、セルの実の父は、きっと、母と同じように、流れる黄金の髪に青い瞳の青年だったのだろう。

面差しも、兄妹ならきっと似ているはず。

鏡に映るセル自身が、まるで母に生き写しの容姿を持っていることが、父の放った信じられない言葉を真実なのだと残酷にも肯定していた。

禁忌の子・・・・・・・・・・・・・・

父の子供ではないことをいずれ知る日がくるかもしれないとセルは思っていたが、まさか自分がそれほど恐ろしい運命の子だったとは。

それでなくとも、普通の子とは違っていた。

天才だ、神童だと、天使だと美しさも相まって褒め称えられ、マスコミにも取り上げられたセルを、見知らぬ人はちやほやされているかのように思われがちだが実生活はそんな夢のような世界ではなかった。

幼い頃から、大人達からはエイリアンでも見るような好奇の目で見られ、同じ年頃の子供達からはどう接して良いかわからない珍獣のように敬遠された。

物心着いた頃から、セルはずっとひとりぼっちだった。

小さな子供が集まる場所に、幼いセルが行ったとしても、子供達の輪の中へ入れてもらえることは決してなかった。

いつしか、一人家に籠もり何かしら作ったり覚えたりと元々の知能の高さに加えさまざまな知識を付けるしか遊びがなかった。

そんなセルに飛び級で高校や大学に入り、周りに沢山の取り巻きが出来ても、心を許せる友人など出来るはずもなかった。

唯一、大切に大切に守り愛してくれた父、一馬を除いては、誰一人セルの孤独な境遇を判ってくれている人など居なかったのだ。

その父が・・・・・・・・

セルは手を拭いていたタオルをぎゅっと握りしめ、父の寝室を振り返る。

さっき、セルが抜け出してきたあのベッドがある部屋だ。

あの日以来、父は眠るときもセルを手放そうとはしなくなった。

たった数日だけ辞めていた酒にもまた毎夜手を伸ばすようになり、酔えばセルを抱いて眠る。

二度と大切な物を失わないように、強くしっかりと腕の中へとセルを閉じこめる。

眠りに落ちるまでの間、父の瞳の中に、父親としての慈愛と、恋のもたらす狂気が交差していた。

ベッドの中で『愛している』と、ささやくスコッチの香りが漂う吐息と頬や唇に押し当てられる口づけ。

とまどうセルに、『お父さん・・・』と、呼ばれると、愛おしげに見つめていた父の顔は苦しそうにゆがむ。

奥深くにある父性が、狂気と葛藤し激しく鬩ぎ合っているのが判る。

そんな父の苦しそうな様子に、過度にも思える愛撫にも出来るだけあらがわないようにセルはしていた。

父の狂気に火を付けるのが、何よりも恐ろしかった。

一歩踏み外せば、取り返しのつかないことが起こるのだと、セルの中で大きな警笛を鳴らしていた。

しかし、どんなことがこの先起きたとしても、父を憎むことは出来ないだろうとセルはおもっていた。

どんなことが、なになのか頭の中で知識としてはわかっていたが、セルは認めたくはなかった。

認めるのが、恐ろしかったから・・・・・・・・・・・・・

そして、はやり、眞一が恋しかった。あり得ないことだとは思っていても、もし、そんなことがいつか自分の身に起きるのなら、相手は眞一で有って欲しかった。

そう考えてしまったとき、セルは自分の罪に驚愕とする。

ぼくは・・・・・なんて罪深いんだろう。

キッチンの手元明かりを消して、暗闇の中セルは父の寝室へと足音を忍ばせて戻っていく。

ひたひたと、床を踏みしめる自分の素足の足音が何かを囁きかけてきているかのようだった。

眞一に出会ったこと、そして、恋をしたことが、やはり間違いだったのだろうか。

だから、ここまで父を苦しめてしまったのか。

ベッドの脇にたったセルは、父の精悍な顔に浮かんでいる陰りをしばらく眺めていた。

しばらく、考え込んだ後、セルは否と首を振った。

「眞一さんのことは、小さなきっかけでしかなかったんだよね」

セルは小さな声でつぶやいた。

「お父さんは、ずぅーーと、ぼくに悟られないようにしてくれてただけで、ずぅーーっとひとりで苦しんでたんだよね」

たとえ眞一に出会わなかったとしても、きっとセルはいつか遅かれ早かれ誰かに心を惹かれていた可能性は高いはずだ。

そうなれば、きっと父は相手が誰であれ、同じように爆発したはずだ。

父が畏れていたのは、母と同じようにセルがどこか手の届かない所へ行ってしまう。

それが最大の理由なのだから。

本当の血を分けた親子ならそんな気持ちはきっと父にも沸かなかっただろう。

どれだけ溺愛した息子であれ息子が未来へ羽ばたくことをきっと喜べたはずなのに。

あんなにも幸せだった親子関係が本当は、始まりから狂っていたのだ。

目に見えて狂い始めたのは最近のことだが、最初からボタンを掛け違えるように少しずつずれていたのだから。

セルは自分だけが、ずっと、ひとりぼっちだと思っていた。

唯一の理解者は父だけだったはずなのに。

「本当に、ひとりぼっちだったのは、お父さんだったんだね・・・・・・
ずっと、ずっと、誰にも言えなくて、苦しんでたんだ。
ぼくの、顔を姿を見るたびに、ずっと・・・・・・・・・」

父の人生を狂わせてしまった自分の存在が許せなかった。

ぼくさえ、いなければ・・・・・・・・・・・

父はきっと、母を忘れ、優しい誰かと暖かい家庭をもてたのかもしれない。

きっと、父に似た、黒髪で利発そうな可愛い男の子が生まれていたかもしれない。

単なる架空論に過ぎないとわかっていても、自分の存在が父から奪ってしまった幸せにセルの心は重く塞がっていった。

乱れて額にかかっていた父の黒髪をそっと撫でつける。

「どうしたらいい?お父さん・・・・・・ぼくは、どうしたら・・・・・・・」

震えるセルの問いに、父は何も答えてはくれなかった。

 

つづきを読む?