Crystals of snow story
*ANGEL*
3
一度気に留めると、つい、視線は気になるものへと向けられるもので。
今まで縁の薄かった別棟の図書館に、眞一は是と言った理由もないのについ、足を向けてしまう。
大抵、ろくに本を探すわけでもなく、雑誌コーナーでパラパラと月刊誌を捲ったり、司書の夏生と他愛ないおしゃべりをして、時々は早番の彼女を伴って図書館を後にするが、普段は20〜30分もすれば退館する。
もちろん、ろくに探しもしないのだから本を借りるわけでもなく、建物に入るときも、出るときも図書館の本を持っていることはまず無かった。
一月近く日参している間、4割ぐらいの確率で、天使を目の端に留めることがあった。
お互いに、入館時間は前後するので、中にいることも有れば、後から入ってくることもある。大人の中にたった1人、小さな身体。それだけでも充分目を惹くだろうが、プラス、煌めく金の髪がどこにても、注意を惹きつける。
少年を見つけることはとてもたやすかったが、一月の間話しかけるわけでもなく、ただ、黙視で確認する。
天使が唐突に舞い降りたあの日から、しらず眞一の日課になってしまっていた。
時折、少年の方が眞一に気づいて、微笑んだり、会釈したりと小さなアクションを起こすことはあったが、そんなときは、今少年の存在に気付いたとばかりに、驚いて見せ、若干ぎこちなく微笑みを返した後、何故か早々に図書館を出てしまう。
僅かに頬を強張らせながら、足早に玄関を抜けると、本館までの間に木立に囲まれた広場が広がる。
広場の中央あたりまで来る頃には歩みは自然と速度を落とし、いつものスタイリッシュな眞一へと戻る。
いつもの優しげな、余裕の笑みすら強張っていたはずの頬に浮かべて。☆
11月初めのある日、4限目の講義が急に休講になり、眞一はまた、気が付くと図書館の前に居た。
2連並んだゲートの一つは白いプレートに赤い文字で書かれた点検中の札が置いてあり、一箇所だけ通れるゲートの前でカードを出すために足を止めると、眞一はふっと考え込んだ。
しかし・・・・俺は、なんで最近ここにばかり来るんだろう・・・・
ただ、何故か、この場所がやけに気にかかる。
たしかに、司書の夏生とは、それなりに良い関係ではある。
前原教授に言いつけられ、山ほどの本を抱えて来たあの日まではお茶程度の付き合いだったが、あの日を境に関係は簡単に進んだ。司書をしているだけあって、読書好きの彼女は、話題も機知に富み会話も弾んだ。
なにより、ベッドの相性もよかったし、年下の眞一に本気にはならないわよと、あくまで遊びと割り切ってくれる彼女のサバサバした性格が好きだった。
しかし、別段夏生に会うためにここに来る必要もない。
いつだって、携帯で連絡が取れるのだから。夏生に会うためでなければ、では、誰に会うために?
ふっと金色の巻き毛が脳裏に蘇り、眞一は、首をぶるぶるっと振ると、まさかなっと、小さく唸った。
特定の人がいつもいる場所。
その場所に、なぜかしら気持ちが引き寄せられる。
磁石に鉄が引き寄せられるような、その行動は、とても、分かり切った理由のはずなのに、本人には未だ自覚が無いようだった。
「お困りですか?」
些か音楽的な、少女のような声が軽やかにかかる。
そうだったな、確かここであの子に後ろから声を掛けられたんだ。
考え事をしていた眞一は、ふふっと、思い出し笑いをしてから、ハッと我に返った。
今の声は?
「今日は、カード自体を忘れたんですか?」
振り返ると、今日はアイボリーホワイトだがやはり複雑なアラン模様のセーターを着た天使が微笑んでいた。
「ぅっあ!!!ぁ・・・いや、そうじゃなくて」
あきらかに狼狽している眞一に、少年は小さく首を傾げる。
「ぼく、驚かせちゃいましたか?」
「ぃいや・・・・そ、そうじゃくて」
オウムみたいに、同じ言葉を繰り返したあと、片手で意味もなく髪を掻き上げると、ようやく眞一は落ち着きを取り戻した。
またしても、胸が僅かに痛み、少年に気づかれぬよう、小さく息を吐く。
「ちょっとね、考え事をしてたんだ。悪かったね、通るのにじゃまだったろう?」
「いえ、今来たところですから」
「お先にどうぞ」
得意の柔らかな笑みを浮かべて、少年が先に通れるように身体をずらし、眞一は財布からカードを出した。
「東森さんが先にどうぞ、ぼく、急がないですから」
「え?俺の名前を?」
突然、苗字を呼ばれて、眞一は小さく驚きの声を上げる。
「東森眞一さん。でしょ?学生方の中では有名な方だと父から聞きました」
「はは・・・・有名って・・・」
あまり良い意味ではなさそうだけど。
「ぼくは、セルジュ。セルジュ・加勢といいます。
父がここで教鞭を執ってるんです」
自慢の父なのだろう、澄み切った双眸が加勢教授のことを紹介するときにキラキラと輝いた。
少年の瞳の輝きを微笑ましく感じながら、眞一はゆるやかに頷いた。
「うん、加勢教授の息子さんだってね、俺もそれは聞いてしってる」
しかし天才児だとは聞いていたが、金髪碧眼の愛くるしい少年が、日本語を悠長に話すだけでなく、まだ10歳の子供が『教鞭』などという言葉をすらすらと口にすることに、眞一は不思議さを感じずにいられない。
「セルジュくんって、イギリスでは飛び級だって?」
「あ、ええ。向こうは自由ですから、あまり珍しくもないんですよ」
いや、充分珍しいとおもうが・・・・
「向こうでは、大学へも?」
「ええ、今は休学扱いになってますが、オックスフォードに一年ほど通っていました」
「そ・・・そぅか、あはは」
あまりにもさらりとそう言ったセルジュに、眞一は意味もなく笑うと、笑顔で答えた。
9歳で、オックスフォード・・・すごすぎる・・・・
「休学ってことは、また近いうちに戻るんだね?」
「さあ、どうでしょうか。
父は、日本からオファーが来たときに、つまりここでのお仕事ですが、僕がまだ卒業していないので断ると言ったんですけど、ぼく自身、父の祖国に住んでみたかったですし、別に急いで卒業することもないので。
気が向けばまた、戻るかもって感じです」
「はは、そうだね。急がなくてもね、たしかに・・・」
「ええ、今は、日本で義務教育を受けています。
大学の傍にあるでしょ?
裏門を出てすぐの所にある、市立の花咲小学校に通ってるんです。楽しいです」
今更小学校で、しかも、名門校ではなく極一般家庭の子達が通う、公立の小学校で、なにを勉強するんだろうと思ったが、そんな言葉を掛けるのが可哀想なぐらい、本当に楽しそうにセルジュは話す。
「もう、随分お友達も出来たんですよ。
日本語、教わっていてよかったです」
「とても上手だね。小さい頃から家では日本語だったの?」
「いいえ、父は家では今もフランス語しか話しませんから」
「フランス語で?」
「ええ、母がフランス人だったんです。ぼくが産まれてすぐ亡くなったそうですが。
そのあとすぐに、ぼくたちイギリスに渡ってしまったので、ぼくが母の国の言葉を忘れないようにって、家の中では今もずっと」
「じゃあ、君はお母さんを知らずに?」
「でも、家には沢山母の写真や絵がありますから。父は今も母をとても愛していて、ぼくに母の話をしてくれますし」
セルジュの朗らかな受け答えは、早くに母を亡くした悲しみを感じさせなかった。
写真や絵だけが母の記憶なら、寂しいとか悲しいと言った感情もあまり生まれないものなのかも知れないが。
「写真も肖像画も、何を見てもとても綺麗な人なんです!父は、ぼくのこと母にそっくりだって、いつも言ってくれるんです」
家族愛が深いのだろう、記憶にない母をも、キラキラした瞳で熱心に眞一に話す。そんな、セルジュのかわいらしい自慢に眞一の目元が微かに笑う。
「そう、君にそっくりなら、凄く綺麗な人だろうね」
まじまじと覗き込まれて、セルジュは、一瞬息を呑んだあと、みるみる頬を染めた。大人と変わらぬどころかそれ以上の頭脳をもっているのだ、今の自分の言葉が自分自身を美しいと褒めてしまったことに気づき、あきらかに恥じている。
大人びた言葉使いと相反しているだけに、そんな素直さがとても愛らしい。
「なんだか・・・・ぼく、変なこと、言っちゃいました」
「全然、変なことなんかないよ。
そうだ、こんど俺にお母さんの写真見せてくれるかい?
そっくりか、どうか判定しなきゃね」項垂れてしまった、セルジュの頭を優し仕草でくしゃっと撫でた。
「あ、はい。今度持ってきます」
弾けるようにセルジュが頷いて金髪が揺れた先に、柱時計が目に止まった。
「おっと・・・・もうこんな時間なんだ」
「あ、ほんとだ、ぼくも帰らないと・・・」
「セルジュくん、帰るのかい?」
「ええ、今日はぼくが夕飯係なんです。東森さんは?これから調べ物ですか?」
「いや、俺は五限目出なきゃなんだ。レポート提出日でね。
しかし、結局ふたりとも入らなかったな」
「あはは、そうですね。何しに来たんだか、ぼくたち」
入館レーンの手前で、同時に手にしたままのカードを見合わせて、吹き出した。
「悪い、そろそろ行かないと、遅刻する」
「あ、はい。じゃあ今度写真持ってきますから」
「うん、又、セルジュくん」
「あ、あの。嫌でなければ、セル、で、いいです。親しい人はそう呼ぶんです」
「そう?じゃぁ・・・セル。また・・」
親しい人だけが呼ぶ、呼び名を噛みしめるように唇に載せると、何故か甘酸っぱいような気持ちになった。
「はい、東森さん、また」
小さく手を振り、足早に本館に向かった眞一は、思い出したように振り返る。
「セルー!俺のことは、眞一でいいから。
あ、さすがに、呼び捨ては言いにくいか・・・眞一さんでいいからー!」
立ち止まり、小さなセルが、もう二回りほど小さく見える位置で叫んだ。
「はい!眞一さん!」
もう一度小さな手を振って返事をしたセルを見届けた後、眞一は再び本館へと今度は軽やかに小走りで駆け出した。可愛い声で「眞一さん」と呼ばれたことが嬉しかった。
きちんと日にちを約束したわけでもない「また」の日が何故か待ち遠しかった。