Crystals of snow story

*ANGEL*

8

 


「どうした、東森、珍しいなぁ。
夕べの女は激しかったのか?ん?」

講義を聴きながら、大きなあくびをした眞一に、高校からの友人、石渡康明がニマニマ笑いながら小声でそう言うと肘でつついた。

「いやぁ、夕べ俺の家でちょっと一騒動があってさ」

もうひとつ出かけたあくびをかみ殺して眞一も小声で答える。

「騒動?!」

ビックリしたのか押さえていたはずの石渡の声が裏返って教室内に響くと、教鞭を執っていた助教授にじろりと睨まれた。

今度は眞一が石渡を肘でつついて苦笑いをする。

あの後、何だかよくは分からないが研二が大声で叫び、足音を荒げて階段を駆け下りて家を飛び出した後、鈴矢がボロボロ泣きながら眞一の部屋に飛び込んで来たのだ。

素直というか感情の起伏が激しくまだまだ子供の研二とは違って、幼い頃からいつも人当たりが良く冷静な鈴矢がこれほど取り乱しているのを眞一は初めて見た。

ある種、鈴矢は自分に似ていると眞一は思っている。

自分の容姿の良さを知っているだけに、みっともない様を人様に見せまいとするセーブが掛かり、あまり内面を見せず常に取り澄ましている所がある。

もちろん、同類だけが分かる事で、周りは、冷静沈着で柔和、綺麗で感じのいい人だとしか思ってはいないだろうが。

『研くんが、研くんが・・・』

と何度もちゃんとした言葉にすらならない嗚咽を繰り返し泣きじゃくる鈴矢を抱きしめて、よしよしと背中を撫でてやりながらも、眞一は途方に暮れた。

ようやく泣き収まった鈴矢を、自宅まで送っては行ったものの、その間も鈴矢は放心したように眞一に躯を預けていた。

車に乗せる間もぐったりと眞一にしなだれかかる姿は、普段のはにかみながらも、いつも僅かな乱れもなく小綺麗な鈴矢とは別人のようだった。

研二の馬鹿なのは昔から知ってはいたが、鈴矢までもが恋をすると、こんな風に、傍目も気にせず乱れてしまうものなのか・・・・・・・と、眞一は少々ショックを受けていた。

大昔だが、かつて、眞一自身も一度、逆上せ上がりかけた事があった。

しかしそれは思春期の少年によくある出来事で、恋と言うより初めての経験に溺れただけだったように思う。

相手は6つ年上の女子大生だった。

眞一も弟の研二と同じ、一貫教育の名門校、櫻綾学院で幼稚舎から高校までを過ごした。

外部から高等部に入学することは至難の業だと言われるほどレベルの高い櫻綾のこと、エスカレーター式に上へと登れるとはいえ、やはり中には学内の勉強だけでは落ち零れそうになる友人も若干名いて、彼女はそんな友人の家庭教師だった。

特に仲が良かった覚えもない、今ではフルネームすら思い出せないほど目立たなかったその友人に一度遊びに来ないかと誘われたのは、どんないきさつだっただろうか。

自分の成績の悪さを棚にあげて、嬉しそうに友人は眞一に彼女を紹介した。

男子しか居ない殺伐とした青春を過ごしている櫻綾の中等部の同級生にとって、小学舎の頃から女子達に囲まれ、一歩校外へ出ると、数駅先の橘女子の女子高生に取り囲まれる事も多い眞一のような少年は妬みと羨望の対象だったのだろう。

そんな眞一に、ごくごく平凡な同級生は才色兼備の女子大生と知り合いであることを自慢したかったのかもしれない。

その時友人は、まさか憧れの家庭教師までもが眞一にちょかいを出すとは思っていなかっただろうに。

教えた覚えもない携帯に彼女からメールが入ったのは翌日のことだった。

彼女から呼び出された用件の名目はなんだっただろうか、たぶんあまり成績の芳しくない教え子の為に、授業の進み具合や試験の傾向などを教えて欲しいというような、友人なら断り辛い頼まれ事だったのだろう。

お礼に分からない所を教えてあげると言われ、その日のうちに、ちゃかり眞一を自分の部屋に招き入れた、女子大生は、それ以上の事を手取足取り眞一に教えてくれた。

たしかに綺麗な人だった。流れるストレートの黒い髪。

小中学生には持つことが出来ない、大人な魅惑の香りと微笑み。

顔立ちのちゃんとした輪郭などもう遠に忘れてしまったが、初めて近づいてくた艶やかなピンクの唇だけが今も鮮明に脳裏に残っている。

好きなのかどうなのか、そんなことは分からなかった。
目の前に差し出された白い肢体にくらくらして。

甘く囁かれて塞がれる口腔。
漏れる、甘い吐息。
初めて触れた柔肌と、暖かく絡みつく密の園。

遊び慣れた彼女の愛撫は、覚え始めたばかりの自慰など比べ物にならなかった。

性に目覚めたばかりの子供が、その快楽に溺れるのに時間など掛からなくて当然のことだ。

誘われるままに眞一は何度も彼女と密会した。

しかし、所詮は女子大生のお遊びだった。

初で美少年の中学生を色香で翻弄するのが楽しかっただけに過ぎない。

三月ほど続いた関係も、同級生が無事高等部に進学し、家庭教師の役を終えると、彼女はさっさと眞一の元から去ってしまったのだから。


『ごめんね、眞一君。でも、あなたさ、最近ちょっと鬱陶しいのよねぇ』

会いたくて、何度か掛けた携帯は段々繋がらなくなって、最後に彼女が出てくれたときに、言われた台詞がそれだった。

携帯の向こうでは、衣擦れの音と男の声が微かに聞こえ、彼女がその男に甘えるように笑う声と共に電話が切れた。

ツーツーと無機質な音だけが眞一の耳にいつまでも聞こえ続ける。

始まりはどうあれ、愛し合っているのだと思っていた。

だからベッドを共にするのだと。

セックス=愛なのだろうと、まだその頃の眞一は信じていた。

愛ってこんなにあっけないものなのか。

恋愛って、たかだかこんなものか・・・・

『可愛いわ、眞一。大好きよ』

と、何度も何度も言ったのは誰だった?

あんなに、身体をすり寄せて甘えて来ていたのに?

つい、半月ほど前までは、何度も、もっと抱いてと誘ってきてたのは誰?

鬱陶しいだって??

誘って来たのは誰だよ・・・

初めての失恋にプライドが激しく傷ついた。

物心ついた頃からバレンタインには嫌って言うほどチョコをもらう眞一の少々高い鼻っ柱を折られたのだから。

涙すら出なかった。

今では、顔すらハッキリ思い出すことは出来ない。

ストレートロングの黒髪が美しい人だったが、そのことすら、思い出すのも腹立たしい。

初めての経験は、性体験以上の物を眞一に教え込んだのだ。

恋愛なんて、お遊びだと。

逆上せ上がるのは、馬鹿のすることなんだと。

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