硝子の扉 5

どれほどの時間がたったのだろう・・・・  

いつもならスッキリとした雰囲気が漂っている静の部屋は、どんよりと空気が滞っていた。    

汗の匂いと、雄の体臭。    

あさっての方に投げ出されている静の枕だけに、いつもの甘い花の匂いがまだ少しは残っているのだろうか・・・・    

既にカーテンから僅かばかり覗く外界は、うっすらと柔らかな茜色を伴いながらも闇に呑まれ始めているようだった。  

あれから半日以上、俺は狂ったように静を(さいな)み続けていたのか・・・・・    

緩慢な動作でシャワーを浴び部屋に戻っても、静はさっきとおなじ姿勢で横臥(おうが)したまま身じろぎもせずにジッとしていた。  

身体に残った水滴を乱暴に拭き取りながら俺はベッドまで戻った。

けだるさと甘い疼きの残るからだに衣服を身につけ、ベッドの端に浅く腰を下ろすと小さな軋みに、静がひっ!と怯えたように身体を縮めて喉を鳴らす。

今朝はあんなにも手慣れた様子で俺を誘ったくせに、静は俺にやめてくれと泣き叫びつづけ、今は魂が抜けてしまったかのように、うつろな目をしている。

取り返しの付かないことをしてしまったのだと、横にいる痛々しい姿の静を改めて見下ろすと、深い後悔が俺の胸を嘖んだが、幾ら静が俺に懇願しても、俺以外の誰かが、俺の全く知り得ぬうちに静に触れていたのかと思うと、あの時の俺に歯止めなど利くはずはなかった。

俺が何年もの間だしがみついてきた静へのプラトニックな想いが音を立てて崩れてしまったのだから。

何のために俺はあんなに苦しい想いをしてまで、想いを封じ込めてなきゃいけなかったんだ?大切に大切にお前だけを見詰めてきたのに。  

お前が大切だからこそ、指一本触れずに、沸き上がる欲望に無理矢理蓋をして、見ない振りをしてきたのに・・・・・お前に触れた奴らを片っ端から殴りつけてやりたい・・・・・

一体何時の間に・・・・・ずっと、俺の側に居たじゃないか。

俺の肘のシャツを指先で握りしめ必死になって俺について来ようとしていた幼いお前を守ってやりたいと思っていたのは俺の独り相撲に過ぎなかったのか?

もう、お前さえ幸せならなんて二度と言えない・・・・・    

お前が誰かのものになるなんて許せない。  

二度と誰にも触れさせない。  

誰にもやらない!!    

たしかに俺の乱暴な行為は愛とよべるものなんかじゃなかった。

独占欲や醜い嫉妬にまみれた、ただの獣と化して静をひたすら罵倒し、蹂躙した。  

俺の下で泣き叫び、涙にまみれ懇願する静に『お前は俺だけのものだからな!』と認めさせたときは、残酷にも俺は征服感と呼ぶ傲慢な喜びに酔いしれていた。  

なのに・・・いま、こうしてピッタリと静の横にいても、お前はとても遠い・・・・・・・・・・   

 

「なあ・・・」  

さっきから何度肩を揺すっても、胎児のように裸身を丸めた静はジッと涙の枯れ果ててしまった瞳でくうを凝視したままだった。

「静!」  苛立ちに、声を少し尖らせると、静はビクリと身体を強張らせ、俺を化け物でも見るような顔で振り返った。

「静、そんな顔するなよ・・・」  

こんなにも愛してるのに・・・・それなのに、それなのに・・・この俺を裏切ったお前が悪いんだ!  

またしても行き場のない嫉妬の炎が俺を(あぶ)る。    

手に入れた筈なのに。    

俺だけのものになった筈なのに・・・    

苛立ちを押さえきれずに、ベッドの端に拳をバッシッと打ち付けた。

「お前は俺のもんだからな!  

今度裏切ったら、絶対に許さない・・・・」 

血の滲んだ拳を唇に押し当てて、俺は蒼ざめた顔でジッと様子を窺っている静に低く唸った。        

 

 

 

チク・タク  チク・タク    

一人っきりでソファに腰掛けていると、普段は聞こえないような音までがはっきりと聞こえてくる。  

時計の音が静の帰りを今か今かと待ちかまえて、何も手に着かない俺をあざ笑っているようだ・・・・  

俺は今朝の情事を後悔していた・・・  

いや、静を抱くたびに、もう二度とこんなことは・・・静の望まない行為はしないと心に誓うのに・・・・

いつもくだらない嫉妬が俺を突き動かすんだ。

「遅いな・・・・」   

何度眺めてみても時計の針の歩みは遅く、今朝の静の何もかも諦め切ったような表情が丸い時計の硝子面に浮かぶ。  

静が出かけるたびに、俺の視界からいなくなるたびに心臓を素手で掴まれているような痛みを感じる。  

もっと、穏やかな愛情だったのに、あいつが傍で笑っていてくれるだけで俺はあんなにも幸せだったのに・・・・・  

腕に触れることすらなく掴まれていた肘があんなにも熱を帯びて、静を身近に感じることが出来たのに、今は腕の中に抱きしめていてるときでさえ俺は不安で不安で堪らない。  

無音の空間に鍵の音がカチャリと響いた。

「ただいま。  

修?どうしたの、電気もつけないで」  

今朝のことなど忘れてしまったかのように屈託無く笑うと、静は壁際のスイッチをパチリと入れた。  

俺は突然の光に目をしばたたかせ、

「こんな時間まで、なにしてたんだ」  

俺の前を横切っていく静に、今日こそは言わないでおこうと思っていた筈の言葉を呟いていた。  

このままじゃ・・・・いけない・・・

「う・・・ぅん。ちょっとね・・・」

「ちょっとって何だよ!」  

歯切れの悪い静の口調に、いけないと思いながらも即座に声が高くなる。  

そんなあさましい自分につくづく嫌気がさした。

「お腹空いてるでしょう?なんか食べた?」 

俺の怒声に片頬をピクリとひきつらせた静は視線を外したまま、唇にだけ作り笑いを残してテーブルの方へと歩いていく。

フリースに包まれた乳白色の喉がコクリと動き、俺に怯えて生唾を飲む音が聞こえてきそうだ。  

何でもなさそうな表情を必死になって保ち華奢な背中が緊張に強張っていくのが見て取れて、俺の胸は益々苦しくなっていく。  

こんな筈じゃなかった・・・・  

こんな関係なんか望んじゃいなかったんだ・・・・  

二人の間に重い沈黙が流れていく。    

しばらくして沈黙を破ったのは静の方だった。

「・・・・・僕、今まで乾先輩と一緒に居たんだよ・・・・」  

食卓テーブルの椅子の背に手を置いたまま静が震える声でそう言った。

静の発した言葉で一瞬目の前が真っ赤に染まる。そんな自分と戦うためにギュッと瞼を堅く閉じた。  

「僕、この部屋に戻ってくるのが怖いんだよ・・・修が・・・怖いんだ」  

頭を垂れた肩が小刻みに震えている。  

俺も怖いよ静。  

このままだと、俺はいつかお前を粉々にしちまう・・・・・  

閉じこめて、縛り付けて、誰にも見られないように誰にも触れさせないように、粉々に壊しちまうよ・・・・  きっと。  

「どうして?どうしてこんな風になっちゃったの?  

そんなに僕が許せないの?  

僕が修の望む僕じゃなかったから?  

僕が修のことを恋愛対象として見ていたのがそんなにも汚らわしいと感じるのなら、幾ら酔っぱらってたからって、あんなこと、あんなこと言わなきゃよかったじゃないか!」 

両手の拳を白くなるほど握りしめて、静は今にも泣き出しそうな顔で俺を振り返った。 

琥珀色の瞳からは今にも大粒の涙が堰を切ってあふれ出しそうに潤み、わなわなと震え噛みしめられた唇からはうっすらと血がにじみ出していた。

「修の嘘つき!  

大切にするって言ったくせに!  

僕の気持ちが迷惑じゃないって言ったくせに!  

無理しなくて良いよって、こうやって、だ、抱き合えるだけで幸せだって言ったくせに!

酔いが、酔いが醒めた途端・・・・

ぼ、僕のこと・・・僕のこと・・・・  

す、好きだから、ずっと好きだったからずっと我慢してきてたけど、修が傍にいてくれるのならって、我慢してたけど、こんなの、もう・・・・もう嫌だ・・・・嫌だよ・・・・・」  

静がその場に崩れるようにしゃがみ込み啜り泣く。  

俺は静の言葉に殴られたようなショックを受けて茫然とソファに座りこんだままだった。

あの日見た、甘やかな夢はこのことだったのか・・・・・

俺はあの夜、大切なものを手に入れたのに自らそれを手放してしまっていたって言うのか?

「静・・・・・あの晩俺達・・・・何もなかったってことか?」

俺の声が・・・・・震える・・・・

「ゥ・・クッ・・・・も、もう、どうでも良いじゃない・・・今更だよ」

「頼むよ、静・・・教えてくれよ」

「しゅ・・・修がしなくてもいいって言ったんだ。  

い、いざとなったら意気地がなくて、ガタガタ震えだした僕に無理するなって・・・・大切にするって言ってくれたんだ、なのに・・・

酔っぱらいの戯言(ざれごと)なんか信じて、有頂天なった僕がバカだったんだ・・・・」  

数歩離れた場所でしゃがみ込んだままの静は幼い子供が泣く時のように両手の拳でゴシゴシと涙を拭いながら何度も何度も同じ言葉を繰り返した。  

俺が言って欲しかった言葉を、俺が言いたかった言葉をうわごとのように何度も何度も・・・・・    

 

ダイ スキ ダッタンダ  

シュウノ コトガ ダレヨリモ スキダッタノニ    

ダレヨリモ アイシテルノニ        

 

 

 

あれから半年が過ぎようとしている。  

俺達の関係は端から見れば何も変わっていないように見えるかも知れないが、一度堅く閉じられてしまった硝子の扉は、幾ら俺が嘆いても開いてはくれなかった。    

 

銀杏の葉が色づき始めた校内のカフェテリアのテーブルを挟んで静は昔と同じように俺の前に座っている。

乾いた秋の風がまだいくらか残っている頭上の木の葉をさわさわと揺らしてはどこかへと吹いていく。 

静は秋風に弄ばれた前髪を時折左手で掻き上げながら、蒸気の昇るカフェ・オ・レを口に運び昨夜見た深夜映画の話を俺に訊かせてくれていた。  

あんなことが二人の間に起こったなんて信じられないくらい、優しげな微笑を浮かべ静は今も変わらず俺の側に居る。それだけが俺にとって唯一の救いだった。 

「そろそろ、いこうか」 

「うん。そうだね」  

相づちを打って即座に立ち上がりかけた静は横に置いてあった鞄に俺が何気なく手を伸ばすと、身体をサッと強張らせた。

そんなことが有る度に俺の胸はまた後悔にズキンと痛みを憶える。

「いこう」  

静の変化に気づかないふりをして俺はもう一度静を促してから歩き始めた。

「あ・・・待ってよ。修ってば!」  

後ろからパタパタと追いかけてくる静にツンと右腕を引っ張られた。

「し・・・・ず?」  

ぽかんと口を開けて俺は自分の肘を凝視した。 静がシャツの端を握りしめている肘を・・・

「・・・・ダメ?いいんだよね?」  

真摯な問いかけに俺が無言で頷くと、静は微かに頬を染め俯くと小さな声で囁いた。  

「ああ、わかってる・・・・ごめんな、静・・・」

俺はここが校内の中庭だなんて事など忘れて、誰よりも大切な静を腕の中にしっかりと抱き込んだんだ。  

 

『置いて行っちゃ嫌だ・・・・』

                                          END

ひゃ〜つかれちゃいました。。。

これほど何回も書き直したのって他にはないんじゃぁ・・・・・

で、これかい?って突っ込まれそうなんですが〈爆〉これからが二人の恋愛の始まりなのでしょうきっと・・・・・

精神的な愛情と身体関係の歯車のズレを書きたかったんだけど・・・・なかなか上手く行きません。ともかく、楽しいものではないお話に長らくお付き合い下さってありがとうございました。謝謝!!!!