光の中で微笑んで 第一章 

 

初夏の早い朝、白々と明けてきた場末の裏通りは、ゴミ箱がひっくり返され、野良猫が残飯をあさり、道のはしには酔っぱらいが残していった臭気の漂う嘔吐物まである。  

闇に紛れてネオンで誤魔化していたその姿を赤裸々に暴かれているようで、なんだか汚いというよりも、凄く悲しげ見えた。   

その姿は夜のあいだだけ華やかに生きる、厚化粧を施したクラブの美人ママに恐ろしい程よく似ていた。      

僕は薄汚く狭い路地を抜け、家に帰って古びたマンションの鍵を開けると、たった一日で何日も掃除をしていないのかと思うほど、色んな物が床やテーブルの上に散乱している部屋を片づけだした。    

僕の保護者である香苗伯母さんはこの近くで小さなスナックのママをしているのだが、何事に付け、凄くおおざっぱな人だった。  

根は悪い人ではないのだろう。  

僕の両親が8年前に交通事故を起こして他界したとき、被害者側に多額の補償金を払うことになった。若くつましく暮らしていた僕の両親にはそんなに多くの預金は無かったらしく、両親の掛けていた生命保険も総てその補償金に充てられた。  

初めは僕に同情的だった親類縁者達も、僕に一円足りともお金が残らないのを知ると、手のひらを返したように、伯母以外の親戚は責任をお互いに擦り付けあいだしたんだ。

結局、最後には伯母になど子供は育てられないと罵っていた親戚も口を噤み。ほかの誰も僕を引き取ろうとしなかった。  

僕を引き取ってくれた香苗伯母は伯母さんなりに弟の子供である僕を可愛がってくれた。 

確かに始終酒浸りで子供を育てるに相応しい環境ではなかったけれど。僕に決して暴力を振るうことはなかったし、傍にいるときはそれなりに世話もしてくれた。  

こんな場末には珍しいくらい上品で綺麗な子だろうと、僕を自慢して連れて歩くこともよくあった。

伯母もキチンとさえしていればとても顔立ちの整った綺麗な人なのに、彼女の美しさを酒と生活の乱れが奪い取ってしまっていたのだ。  

でも伯母の最大の欠点は、いつも誰か男が必要な人だということだったんだ。

そのために時折僕が居ることを完全に忘れてしまう。 

幾ら僕に暴力を振るわなかったとはいえ、伯母のような保護者もまた、児童虐待者に相応するのだという。

 

【ネグレクト】  

子供を放置し養育を怠る。

怪我や痣のように、目立った痕跡を残すわけではないので、欧米と違い日本ではまだまだ軽視されている。 

しかし、ネグレクトを受けた子供は、ちょっとしたことで怯え、過度に緊張するようになるといわれている。  

当時の僕がまさにそうだった。  

伯母は新しい男が出来ると、まだ小学校の3年生だった僕を置いて1日や2日は当たり前、酷いときは4日も5日も帰って来ないことがちょくちょくあった。  

学校に行っている時はまだいい。少なくとも毎日給食が食べられる。

もし伯母がまるまる一週間帰って来なくても、何も食べられないのはたった2日間だけなんだから。    

 

僕が伯母に引き取られて半年ほど経ったクリスマスイブに、上機嫌で帰ってきた叔母は高価なテレビゲームをポンと僕にプレゼントしてくれた。

「いいの?ほんとに僕がこれ貰ってもいいの?ああ、香苗伯母さん有り難う」  

小躍りして喜ぶ僕に、

「遙、二学期の成績表オール5だったもんね。あたしと違ってあんたのパパは頭が良かったから、きっとあんたはパパに似たんだよ」  

ミントの香りのする細いタバコを、紅く塗った長い爪の指の間に挟んで、喜ぶ僕を優しい目で見詰めていた。  

伯母さんにとって年の離れた出来のいい僕の父さんは、小さいときから自慢の弟だったらしい。

だから僕に父さんの面影を見つけるたびに、あんたはパパ似だねといつも褒めてくれていた。  

所がその3日後から伯母は一週間帰って来なかった。

きっと新しい男と旅行にでも出かけてたんだろうけど。既に冬休みに入っていた僕には死活問題だったんだ。   

最初の2、3日はそう深刻なこともなく、冷蔵庫に残っていた卵や戸棚のすみに有ったお酒のおつまみで何とかしのいだ。   

食べる物が何もなくなると僕はマヨネーズをちびちび舐めながら、ともかく水をお腹一杯飲んで空腹を紛らわせながら過ごした。

その内ファンヒーターの灯油も無くなり、僕は寒さと餓えに震えながら膝を抱えて啜り泣き始めたんだ。  

今思えば誰かに助けを求めれば良かったのかも知れないが、幼かった僕はただひたすら、いつ帰るともしれぬ伯母の帰りを、じっと部屋に籠もったまま待ち続けた。  

5日目の朝、目が覚めてひとりぼっちの寂しさを紛らわすために、いつものようにテレビを付ければ、全てのチャンネルがお正月番組で浮かれ騒ぎ、みんな綺麗な着物を着て楽しそうに豪華な食事をしていた。 

『新年あけましておめでとうございます』  

ブラウン管からどの人もにこやかに僕に笑い掛けてくる。

ほとんど動く事もできないほど衰弱しきった僕は、テレビのリモコンの横に丸くなって寝ころんだまま、ただぼんやりと移り変わる画面を眺めていた。

不思議なことにどんなに美味しそうなご馳走を画面でみても、もうおなかは空かなかった。  

でも去年のお正月はお母さんの作ってくれたおせち料理やお雑煮を、家族三人で同じ様なテレビ番組を見ながら食べたんだなと思い出すと、涙が止めどなく後から後から溢れてきて止まらなかった。  

次第にぼんやりとしてくる意識の中で、これで僕もやっとお母さん達の所へいけるのかも知れないと思うと、恐怖なんて感じることもなく、なんだかとても幸せで、ホッとしたことを憶えている。    

 

伯母が帰ってきた時のことを、僕ははっきりと憶えてはいない。

気が付いたときには病院の白い部屋の中だった。  

病院の清潔なベッドの横で、何度も僕にもうほったらかしになんかしないと謝りながら泣く伯母に、不思議と怒りは感じなかった。  

僕は母さんたちのところに逝けなかったんだね・・・  

固いベッドの中に横たわったままの僕の小さな胸を、苦い失望がチクリと刺した。  

涙で流れたマスカラが目の下を黒く汚してしまった伯母の顔を見ていると、伯母も僕さえいなければ、こんな罪悪感に苦しまなくても済むのにと反対に不憫に思っていた。

こんな伯母でも伯母なりに本当は僕のことをとても愛してくれていることを、僕は知っていたのだから。 

僕も唯一の身内で有る欠点だらけのこの伯母が、本当はとても好きだったんだ。  

しかし、どれほど伯母が僕に二度としないと誓っても、この伯母の悪癖が直ることは決してなかった・・・・・・・  

 

 

ああ、なんて暗いんでしょう〈苦笑〉