光の中で微笑んで 最終章
「遙!気がついたのかい?」
香苗が薄く瞼を開けた遙の身体を、そっと労るように揺すぶった。
開かれた視界の先は、白一色の殺風景な病院の一室。
部屋の中にいる人物が伯母だと気づいた遙が、ホッと頬の緊張を緩め小さく喉を動かして唾を飲み込んだ拍子に、うめくように眉を顰めた。
「・・伯母さん・・喉が・・痛いよ・・・」
「胃洗浄をしたんだよ。管を入れて洗ったから、しばらく痛むって先生がいってたけど、もう、心配ないからね」
涙で流れたマスカラが目の下に付いて、真っ黒になった目元を、香苗はごめんよ、ごめんよと呟きながら、ハンカチで何度も拭った。
「いせん・・じょう?ってなぁに?」
ベッドに横たわったままの遙が不思議そうに瞼をしばたたかせて香苗に尋ねた。
「クスリ、ちょっと多めに飲んじまっただろう。だから全部胃から洗い出したんだよ」
心配いらないよと、香苗は優しく遙の髪を撫でた。
「クスリなんか飲んでないよ・・・?
僕・・・・・・・・
伯母さんが帰ってくるの、お部屋でずっと待ってたんだよ」「なにいって・・・・・・・おまえ・・・」
「寒かったの・・・僕・・・、でも良い子にしてたんだよ、僕」
幼い表情で弱々しく微笑む遙の髪を撫でていた香苗の指が、沸き上がってくる戦慄に凍り付いた。
「遙・・・すぐ、戻るから。いい子で待ってるんだよ」
音を立てて血の気がひくように蒼ざめた香苗は、それでも不安がる遙にすぐだからと微笑んで見せて、医者の元へと、もつれる足取りで走った。
逆行性健忘。精神科の医師が下した診断はそれだった。
つまり遙はあの日まで遡り、それ以降の記憶を無くしたのだ。
生と死の狭間で、遙はあの子を抱きしめて一つに交わったのだろう。
今の遙は8才の少年。
寒さに震え、孤独に耐え、汚れを知らぬままの幼い遙。
鏡を見ても大人になった自分にすら遙は違和感を憶えない。
遙の網膜は幼いあの日の姿を鏡に映しだすからだ。戸惑う香苗達をよそに、当の遙はとても、とても、幸せそうだった。
遙の主治医も遙の精神が赤ん坊の頃にまで逆行したわけではないので、別段生活に差し障りはないと退院を勧めた。
病院に居てもなにも施す術は無いのだからと。
「行きましょうか」里香子の言葉に、洋一が片づけられたベッドの上から肩から下げられるボストンバックを持ち上げた。小さな子供がまるまる入りそうなほど大きな鞄だが、その中に遙の過去すべてが収まっている。
促されるように、里香子と洋一に両脇から挟まれながら、遙は一月滞在した病室を後にした。
「どうして?どうして、香苗伯母さんと一緒にいちゃいけないの?」
見知らぬ二人のもとで暮らすのだと、昨夜突然伯母に言われた遙は、心持たなくて仕方がない。
昨日までずっと傍に付いていてくれていた伯母は、退院の日だというのに、今日は一度も顔を出してはくれない。
優しくて綺麗な、お兄さんとお姉さんは何度もお見舞いに来てはくれたけど、僕の知らない人たちなのにと遙は病院の中をキョロキョロと見回しながら香苗の姿を必死で探した。
「伯母さんね、遙ちゃんの面倒を見れなくなったんですって。だからお姉さんと仲良くやっていきましょうね」
「伯母さん・・・・・・・僕が嫌いになっちゃったの?僕が悪い子だから?」
「ばかね、伯母さんは遙ちゃんが大好きなのよ・・・・だから、遙ちゃんに幸せになって欲しいの。
それにね、私も洋一も遙ちゃんが大好きよ。」里香子は香苗を見つけられずにべそをかきだした遙の頬を両手で挟んで、子供に諭すように、優しく言った。
あの後、遙が気になって毎日「シンドローム」に顔を出していた里香子は訪れた清治に事情を訊いた。
実際のところ、清治に真剣な面差しで遙を頼めないかと相談された時は、確かに躊躇した。
人一人、まして尋常ではない状態の少年を預かるのだ、おいそれと頷くわけにはいかない。それでも里香子は洋一のためにも遙のためにも、清治の頼みを聞くべきだと決心した。
遙を引き取るにあたり、里香子の最大の悩みは加藤である。
遙が幾ら病気とは言え、愛する里香子と遙が一つ屋根の下に二人っきりで暮らすなど、認めるわけにはいかないと、おとなしい加藤には珍しいほどハッキリと断言したのだ。
ただし二人っきりで無ければ譲歩しようとも言った。
すなわちプロポーズである。
いい機会かもしれないわね。なかなか思い切れなかった私の背中を、遙ちゃんが押してくれたのかしら・・・・
「何も心配いらないのよ。仲良くやっていけるわ」
里香子は真っ直ぐに遙を見詰めてニッコリと笑った。
反対側から洋一が黙ったまま、愛情に満ちた瞳を遙にそそいでいた。
看護婦さん達に見送られて、おいおい泣きながら車に乗り込む遙の姿を、物陰からそっと見送る人影が二つ。
「これで、いいんだね。遙、幸せになれるんだね?」
香苗は縋り付くように、清治の逞しい腕を掴んだ。
「ああ。俺のことは、何にも憶えちゃいないんだろうが、香苗ママの事はきっと覚えていてくれるさ」
嗚咽を漏らす香苗の小刻みに震える背中に清治はそっと腕を廻した。
「頭のいい遙の事だ。高校は辞めちまったが、大検とやらでもうけて、いずれちゃんと大学にも行くだろう。俺達は遠くから遙の幸せだけを願ってやろうや。な?」
お前は俺の名前すら覚えてねぇが、俺は一生忘れねぇ・・・あの夜を、お前が掠れた声で囁いてくれた言葉を・・・・・・・・
俺もお前が好きだったよ。
他の誰よりも、一番な・・・・・・・明るい光の中で生きろ・・遙・・・
二度とこんな所に、戻ってきちゃいけねぇぜ。清治は香苗をしっかりと抱きかかえたまま、遠ざかる車を何時までも見送った。
四年後、
「遙!遙の好きなドラマ始まるよ!」
ソファに腰を下ろし、テレビのリモコンを押した洋一が、ベランダで里香子と共に花や観葉植物に水をやっている遙に声を掛けた。
あの後、里香子は加藤と結婚し、洋一は希望の大学に進学した。
そして情緒的な面はまだまだ幼いままだが、思いの外早く学力を取り戻した遙は、今年大検を受けようとしていた。
失われた記憶は何も戻らないが、暖かい愛に育まれて、少しずつだが遙は自分の現状を理解し始めていた。
自分が12才ではなく、今年本当は二十歳になると言うこと、洋一が遙が大人になるのを、辛抱強く待っていてくれていることも。
「間に合った?」
子供がスプリングの跳ね返りを楽しむように、勢い良くピョコンとソファを揺らして洋一の横に座ると、いつものように洋一が、遙の頬に啄むような軽いキスをした。
「今始まるところだよ」
涼やかな目元が優しく綻ぶ。
「あら、もう10時なのね?」
ベランダから戻ってきた里香子の気配を感じて、遙はパッと頬を染め俯いてしまう。
ピピピッ、ピピピッ!!
「あら?ニュース速報ですって」
唐突にテレビから流れ出た警告音に、ソファの背もたれに両手をついて立っていた里香子が何気なく呟いた。
里香子の呟きに促されるように顔を上げた遥は、画面の上部に流れるテロップを無言のまましばし眺めた。
『今夜9時45頃、東京都新宿区の路上で暴力団の抗争があり、羽島組組長、羽島正樹と香山組幹部、桐生清治の二人が死亡したもよう。なお抗争のさい流れ弾が・・・・・』
里香子と洋一は驚愕の面もちで瞬時に顔を見合わせて目配せを済ますと、同時に強張った表情のまま、遙を覗き込んだ。
大きく目を見開いて、凍り付いたように画面を凝視したままの遙の瞳からは、透き通った涙が止めどなく溢れだしていた。
「・・・遙」
「・・・ど、どうしちゃたんだろう・・・僕・・」
涙が溢れて止まらない・・・・誰の事かも判らないのに、胸が潰れそうなほど悲しくて・・・
「いいんだよ。遙・・・いいんだ」
洋一は泣きじゃくる遙を、胸の中に優しく包み込んだ。
洋一の暖かい抱擁の中で落ち着きを取り戻した遙の耳に、開け放たれたままのベランダの窓の向こうから、
『遙・・・俺ぁ本気だったんだぜ』
思い出せないけれど、確かに聞き覚えの有る重みのある声が、微かに笑いを含くませて低く囁いたような気がした。
END
長い間、お付き合いありがとうございました・・・・・・・
清治ファンの方ごめんなさい(><)
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