**未来への予約**
( 2 )
慶吾は初めてあったときからずっと俺が欲しかったんだと言っていた。
たぶんそれは仲のいい友達の目新しいおもちゃを欲しがる子供のようなものだったのかもしれない。
初めて俺が慶吾に会ったのは、俺が唯一愛した裕征(ひろゆき)の部屋に居着くようになった頃だった。
裕征と慶吾と小枝子は幼なじみで、その頃既にかなり急がしい身でありながらも、よく誰かの部屋に集まっては別にこれと言った内容のない軽い会話を楽しんでいた。
三人が三人とも、桁外れの金持ちのくせに、コンビニで揃えたような貧相なおつまみで何時間もくだらない話をしていた。
『変なの!』とコロコロ笑う俺に、外に出れば敵ばっかりなんだ。
味方のふりをしていても何時牙を剥かれるか分からないし、俺達が何気なく話した言葉さえどんな風に揚げ足を取られるか分からない、恐ろしい世界に住んでいるんだ。
だから今だけが安らぎの時なんだよと、慶吾と小枝子の前で何の躊躇いもなく俺を腕に優しく抱き込みながら、裕征は話してくれたことが有った。
俺は裕征の恋人で有りながら、小夜子と慶吾のペットのようでもあった。
八つも年齢が下なのも手伝ってか、彼らは俺をまるで子猫のように甘やかしていた。
裕征は苦笑を浮かべながら、競って俺を溺愛する、そんな二人をいつも何も言わずに眺めていた。
今と違って、その頃の俺は愛されることが好きだったから、小夜子の愛も慶吾の愛も無条件に受け入れていた。
裕征への愛とは遙かに違ってはいても、小夜子と慶吾のことを、その頃の俺は俺なりに確かに愛していたんだ。
たった、五年前の事なのにまるで遙か昔の事みたいだな。
だけど、慶吾。
今の俺はあんたを少しも愛してなんかいない。ほんの少しもね・・・
慶吾が出ていってしばらく後、俺は気を取り直して部屋の施錠を済まし、薄暗くなってきた廊下に出た。
夕暮れ時の、人気のない学校って奴はどうしてこんなに薄気味悪く、もの悲しいんだろうな。
俺は部活なんかをする熱心な生徒じゃなかったから、こんなに遅くまで学校に残ってたことなんか無かった気がする。
アメリカにいた頃は子供だったことあって、それなりに友達もいたんだが、日本に帰ってきてからはほとんど友達らしい友達は出来なかった。
毛色の変わっている俺を遠巻きに眺める奴らの中で何時しか一人、孤立して行った。
俺が裕征と出会ったのはちょうどそんな俺が大学に入ったばかりの頃だった。
新宿の駅で言葉が通じずに立ち往生していたアメリカ人の老夫婦を、裕征の会社まで送り届けたことがきっかけだった。
新宿駅には英語の出来る係員もいることはいるのだが、この老夫婦はアトランタの農場主で年齢が高齢な事もあって酷い南部訛りがあったんだ。
日常会話には事欠かない裕征も、やはり所々理解できなくて、帰りかけた俺に助けを求めた。
そして彼らが在日している間、アルバイトで通訳をしてくれないかと俺に頼んだんだ。
ほんの数日間の仕事に多額の謝礼をくれ、これからも時々手伝ってくれないかと言われたとき、既に裕征に好意を抱き始めていた俺は素直に頷いた。
人との関わりに飢えていた俺が、優しくて、金持ちで、大人の裕征に夢中になるのに時間は掛からなかった。
裕征に求められ、初めて身体を重ねたときに味わった、激しい苦痛すら俺には喜びだった。
このときまで疎ましいとさえ思っていた自分の容姿が、生まれて初めて誇らしく思えた。
『綺麗だよ』と何度となく甘やかに囁かれる裕征の言葉に、どれほど俺は喜びに打ち震えた事だろう。
無邪気にただひたすら、裕征との愛に溺れていたあの頃。
裕征も俺と同じように俺を愛していてくれていると信じて疑わなかった、愚かな俺。
☆★☆
「あ!!!」
「ん?」
下駄箱で靴を履き替えている俺の横で驚く声がした。
屈んだまま視線をあげると、さっき短パン姿でグラウンドを走っていた荻野君とやらが、如何にもお坊ちゃん学校らしいプレッピースタイルの桐生の制服を身につけて、すぐそこに立っていた。
近くで見るとでかいなこいつ。
「俺になにか用?」
「な、なんでもないっす」
頬を紅潮させて顔を逸らした。
「そう?じゃあね」
上履きを自分の靴箱に仕舞った俺は、ピンクや紫の花を重そうに咲かせている紫陽花の花が植え込まれている、通用門のほうへと歩き出した。
顔が合っただけで赤くなるなんて、可愛いね、少年は。
さっきの茉莉の言葉じゃないが、こんな所にいると自分がなんだか急に老けてしまったような気になる。
まだ二四だってのにな。
「高城先生!」
背を向けて歩きはじめた俺に、駆け寄ってきた荻野がまた声を掛けた。
「だから、何?」
再び呼び止められたことに、少しいらついて振り返る。
「俺、見たんです。先生が、その・・」
あちゃぁ・・・・・・見たのかよ。
「それで?なに?校長にでも言いつけるのかい?」
「俺、誰にも言ってない!」
ムキになって俺を見下ろす。
慶吾よりちょっとでかいかもしれないな。
慶吾と俺は10a近く違うんだから、こいつは185ちょっと有るって事か。
日本人のDNAしかないくせに何食ったらこんなにでかくなれるんだ?
「ん〜ん。別に俺個人はクビになろうがならまいが一向に構わないんだけどね。
クビになると紹介してくれた人の顔に泥を塗ることになるんだな。
だから俺としては出来れば君に内緒にしてて欲しいんだけど。どう?」またもや、極上の笑みを浮かべて少年を懐柔にかかる。
「はじめっから俺は誰にも言うつもりはないっす」
「君の言いたいことがよく分からないな?じゃあ何故わざわざ俺に見たと言わなきゃならないんだ?」
「あの、俺は・・・」
「はは〜ん。口止め料か」
「ち、違う!」
荻野は真っ赤になって大きく首を横に振った。
分かってるさ。
お前の欲しいのは金じゃないんだろ?
正直、俺にそんなことを言ってキスの一つでもせしめようって奴はごまんといるんだから。
誘うように大きな木の陰に連れ込むと、ゆっくりと腕を首に廻し、堅く身体を強張らせたままの荻野に顔を寄せた。
やんわりと重なった口唇を割って舌を滑り込ませた俺は、口づけだけで総てを奪い取るような濃厚な奴をひとつ。
ゆっくりと口唇を離した後も、エンブレムの付いたシャツの上からでも解るほど、胸を激しく上下させたまま、呆然と立ちすくむ荻野に、
「いいかい、これで口止め終了だからね」
からかうように投げキッスを送った。
☆★☆
『それで?どうしたの』
「別に、そのまま帰ってきた」
『知らないわよぉ、純情な子に手を出して、後で助けてくれなんて言わないでよ。
昨夜といい今日といい、波瀾万丈だね、未来ってば』電話の向こうで小枝子がくすくす笑っている。
「ちょっと、ちょっと、昨日はともかく、今日のは俺が悪いんじゃないんだからね!慶吾の奴が突然現れて、あんな所でキスしたのが悪いんだ!
そもそもなんで彼奴が学校に来たんだ?
俺は桐生で教えてるなんて彼奴に話した覚えはないんだぜ。
さては小枝子。お教えただろう?」『だってさぁ。昨夜から煩かったんだもーん。慶吾の奴。未来がいない!何処に行ったんだって。
まさか未来と白澤クンのことばらすわけにもいかなくて困っちゃったんだからね』「別にいいじゃん。教えたってさ」
電話の子機を手にしたまま、ゴロンとベッドに寝ころんだ。
『未来ねえ。慶吾のことほんと何にも解っちゃいないんだね。
未来と白澤クンのことばらしたりしたら、白澤クン一瞬でクビ切られちゃうよ』「何でだよ。俺が誰と寝ようが慶吾にとやかく言われるつもりは無いね」
『未来は良くても、クビ切られる白澤クンが可哀想じゃない。
未来には分かんないかもしれないけど、ちょっとやそっとの競争率で慶吾の秘書なんかになれないんだからね』「どうせ俺は世間に疎いですよ。
だけどね俺は慶吾に一切干渉してないんだから、慶吾にも干渉されたかないんだよ」『意外と慶吾は未来に干渉されたがってるのかもよ』
「止せよ、馬鹿馬鹿しい」
ビッーーー!!
「あれ?」
狭いワンルームのドアに目を遣った。
『相変わらず色気の無いベルね。だれ?』
「しらねーよ。げっ!白澤かぁ?」
『かもね。いまの部屋のベルでしょ?オートロック開けて入って来れる人なんて限られてるもんね』
「いいや、俺シカトしちゃおっと」
『ドアチェーン掛けたまま開けてみたら?』
ドンドン!
ビッービッー!!
「ひつこいなあ、もう」
仕方なく上体を起こす。
『節操のない自分を恨むんだね。バイバイ〜未来ちゃん』
可笑しそうな笑い声と供に電話が切れた。
「小枝子!」
叫んだものの俺の耳には虚しくプープーと無機質な音が聞こえてくるだけだった。
その間もドアはまだ激しく叩かれている。
このままほっとけば、後で大家から苦情が来ること間違いなしだな。
「うるさいな!叩くなよ!」
ドアに向かって叫ぶとようやく、騒がしい音が止まった。
溜息を一つ吐きながらベッドから降りて、立った数歩で着いてしまう、玄関ドアに向かう。
小枝子に言われたようにドアチェーンを掛けてから扉を僅かに開いた。