**未来への予約**
( 3 )
「なんだ?慶吾だったの?」
白澤じゃなかった事にホッとして、いつもと違う慶吾の様子に愚かにも気づかないまま俺はチェーンを外した。
「珍しいね。慶吾がここに来るなんてさ」
慶吾は俺が、この安っぽくて狭苦しいワンルームマンションに住んでいることがかなり気に入らないのだ。
それでも一応、オートロックだしユニットバスも付いていて駅からも近い。
一般庶民の独身者が住むには、この部屋の条件は割といい方だと俺は思っている。
何より家賃のバカ高い東京で、これ以上の部屋の家賃は俺には到底払えやしない。
今でも家賃や光熱費を払ってしまえば、ほとんど手元に金なんか残りはしないんだから。
「誰か来るはずだったのか?」
まるで自分の部屋のようにずかずかと入り込んできた慶吾は俺の言葉尻を捉えて聞き返す。
言葉を発した慶吾の口から結構な量のアルコールの匂いがした。
「なんだよ?もう飲んでるんだ」
俺はクンと匂いを嗅いで、きつい酒の匂いに顔を顰めた。
「悪いか」
「別に悪か無いけど。で?なんのよう?」
ちっぽけなソファーに大様に腰掛けて、突っ立ったままの慶吾を見上げた。
「用が無かったら俺はお前の部屋に来ちゃいけないのか」
「飲んでるからって、俺に絡むなよ。
用がないんなら、帰れよな。家で可愛い奥さんも待ってるぜ。
2ヶ月ぶりなんだろ?俺になんか構ってないで可愛がってやんなよ」「俺が帰ったら誰が来るんだ?」
「何さっきからなに訳のわかんねえこといってんだよ?誰も来やしないさ」
イライラして頭を掻いた。
「俺が居ない間に裕征とよりが戻ったのか?」
俺の前で努めてその名前を出さないようにしてくれていた慶吾の口から裕征の名前を出されて、俺の身体は一瞬にして固まった。
暗黙のうちにお互い裕征のことは口に出さないはずだったんじゃないのか?
聞きたくない、特に慶吾の口からは裕征の名前を聞きたくないんだ。
唇を噛んで顔を背けた。
「そうか。本物が帰ってくれば。ダミーなど何の必要もないって訳なんだな」
鋭い眼光が俺を睨み付ける。
・・・・・・・・・・・違うよ小枝子。
慶吾は俺に束縛されたいなんて夢にも思ってやしない。
慶吾に取って俺は唯一のライバルである裕征から奪い取った戦利品にすぎないんだから。
この誇り高く傲慢で自信家の慶吾は、俺が何百人の相手と寝ようが何とも感じないだろう。
そうさ、それが裕征でさえなければ。
「馬鹿馬鹿しい。もうやめてくれないか。
俺はさっきも言ったように疲れてるんだ。帰ってくれ」「帰らないといったら?」
「じゃあ俺が出てくよ」
「未来!」
立ち上がった俺の腕を慶吾が掴み上げる。
「痛てーな!離せよ!」
「裕征じゃないって言うんなら、相手の名前を言ってみろ!」
「慶吾?な、なにすんだよ!や、やめろ!!うっ・・・・うぁああ!!!」
掴まれた腕を、キリキリと後ろ手に捻り挙げられて、俺は悲鳴を上げた。
「早く言えよ。それとも未来はこういうのが好きなのか?」
「離せ!バカ!つぅ〜!痛ってえぇえ」
「間接外れるぞ?いいのか」
怒りを押し殺しているのか、機械のような感情のない声で慶吾が俺に言った。
「どうとでも好きにしろよ!はぁっ・・・・くっ、暴力振るうなんて最低だね!あんたとはもうこれっきりだからな!なっ、殴るなり・・・・殺すなりして・・・・・でっ、出て行け・・・」
痛さもさることながら、自分の非力さが情けなくて涙が滲む。
「なんだって!裕征とよりが戻った途端、俺とは縁切りだって言うのか!」
大声で怒鳴ると同時に今度は身動きの取れない俺の頬に平手が飛ん出来た。
崩れおれるようにソファにドスンと尻餅をついた俺は、悔しさと情けなさに身体がわなわなと震えて止まらない。
「うっ・・・・うぅ・・・・くっ・・・」
「・・・・・み、未来?泣いてるのか?」
激昂していたはずの慶吾が急に心配そうな声を出して、座り込んだ俺の前に跪いた。
「帰れよ・・・もう気が済んだろう・・・帰ってくれ」
顔を腕の中に埋めて、嗚咽を堪えた。
頬もさっき捻られた腕もずきずきと疼く。
「未来。悪かった。・・・・・・殴るつもりじゃなかったんだ」
何が『殴るつもりはなかった』だ?
怒りが身体の奥から沸き上がってくる。
「殴りたきゃあ何発でも殴れよ・・・
所詮あんたにとって俺は血の通わないただのおもちゃなんだからな。
そうだなぁ。おもちゃじゃSEXの相手は無理だもんな。
差詰め俺はダッチワイフてとこか?そんなに裕征に返品するのが嫌なら半分に切って二人で分けたらどうだ?
慶吾は右半分でもう半分は裕征に送れよ?
ああ、いっそのこと上半身と下半身に分けるか?
そうすると難しいよな?飾りもんのこの顔か、それともあんたがいつも弄ぶSEXの道具か?
なぁ?どっちにするんだ?
ははっ、名案だろ?笑えるよな」乾いた声で笑った。
「未来・・やめろ」
「どうして?あんたの気持ちを代弁してやってるだけじゃないか。
あんたの気持ちがこれでようく分かったよ。
今まではなんで慶吾が俺なんかにこれほど執着するのか俺には解らなかったんだ。
だけどようやく解かった。
折角奪い取った俺を何時裕征が取り戻しに来るかずっと恐々としてたんだってことがね。
俺はあんたと裕征のゲームの駒じゃないんだ。
トランプのババみたいにあっち行きこっち行きするつもりなんて俺には無い。もう俺と裕征は3年前に終わってるんだ。
それから今まで一度だって会ったこともない。
確かにあの時、あんたに逃げ込んだ俺にも罪は有るだろうけど、あんただってこれまで十分俺で楽しんだろ?
終わりにしよう慶吾。もう、あんたなんかウンザリなんだ」「じゃあ・・誰なんだ?相手は」
「関係ないだろ?俺が一度でもあんたの相手を知りたがった事が有るか?
愛し合ってる恋人同士じゃ有るまいし、そんなことを知って何をするって言うんだ?」「信じてくれ未来。俺はお前を愛している」
慶吾らしくもなく憔悴しきった様子でポツリと言った。
「昔は俺も愛してたよ。こんな関係になるまではね」
狂ってしまったんだ何もかも。
楽しかったな、裕征の腕に抱かれて、競い合うように俺を甘やかしてくれる慶吾や小枝子と笑い合っていたあの頃。
いつの間にか慶吾も俺も笑わなくなった。
どちらかというと静かな裕征よりも、冗談が好きな慶吾は四人の中ではムードメーカーで何かと俺を楽しませてくれたのに。
俺と深い仲になってからはまるで人が変わってしまったみたいに傲慢な大人の男になっていった。
もっとも俺自身も心から笑うことなど出来なくなってしまったのだけれど。
「俺は未来と別れるつもりはない」
「俺が嫌だと言えば、また殴るのか?
いっその事殺したらどうだ?
そしたら俺も楽に成れるしあんただって裕征に取り返される心配もないだろう?
あんた達みたいなお偉い人なら俺を殺したって、罪にならないようにどうとでも処理出来るんじゃないのか?
それにお得意の金で犯人を買うこともできるよな。
初犯なら痴情のもつれで人一人殺しても5〜6年で出てこれる。
何億って金を積めば幾らでも引き受ける奴が居るよ」「馬鹿な事を言うものじゃない」
凛々しい眉を顰めて溜息を一つ吐くと、僅かに震える指先で慶吾は内ポケットからタバコを取り出して火をつけた。
「本心だよ慶吾。
俺は意気地がない。だからあの時も死を選ぶことが出来なかった。
一人で死ぬのが俺は恐いんだ。
だけどいつも心のどこかで憧れてるような気がする。
いつか誰かが俺を殺してくれることを・・・
忘れられない裕征への想いも、汚らわしい俺自身からも、無意味な生活からも解き放ってくれる死って奴にね」「お前にとって俺に抱かれたお前は死にたいほど汚らわしいって言うのか?
三年経っても俺はお前の中の裕征をほんの少しも消してやることが出来なかったと言うんだな?
俺はずっと待ってた、お前がいつか俺だけを見てくれることを。
確かに裕征の所にお前がいつか戻って仕舞うんじゃないかと恐々としていると言われればその通りかもしれない。
でも俺にそうさせるのはお前だ未来!」俺は立ち上がって冷蔵庫に行き、缶ビールを取り出すと一気に煽る。
泡の付いた口元を手の甲で拭った俺は吐き捨てるように慶吾に言った。
「ハッ!馬鹿馬鹿しい。
俺に慶吾だけを見詰めて欲しい?
だから裕征に返したくないって?
それならあのどこぞのご令嬢と離婚してから来いよ!
世間体も何もかも、かなぐり捨てて俺だけが欲しいっていうんなら、考えてみてやる。
結局あんた達はみんな同じさ。
生まれながらに人より高いところに立って俺達を見下ろしてるんだ。
金と名誉と地位って奴にまみれてね!!」「・・・・・・・・・・」
慶吾は何も言わずに俺の顔を睨み付けたままタバコをもみ消すと、静かに俺の部屋を後にした。
なあ、俺の言うとおりだろう。
あんた達はみんな自分の持ってる物を何一つ捨てられやしないんだ。
いざとなれば俺の心も体も総て金で片を付けようとするくせに。
そのくせ調子のいいときだけ俺の心まで欲しがるなんてあまりにも虫が世過ぎやしないか?
あんた達に比べたら白澤の方がまだましさ。
俺のために一度でも仕事や生活を捨てようとしたんだから。