**未来への予約**
( 4 )
「あ、痛ぅ・・・」
講師室で棚の上に置かれた資料を取ろうとして右腕を挙げた俺は、思わずうめき声を上げてしまった。
「どうしたの?高城先生?」
ペーパーテストの答え合わせをしていた茉莉が首だけを俺の方へ向けて訊いてきた。
「どれ、僕が取りましょう」
美術講師の確か鹿川譲二とか言ってたっけ。背の高い彼が右肩をさすっている俺に覆い被さるように、ひょいと腕を伸ばして資料を取ってくれた。
「済みません。ちょっと昨日捻っちゃって」
「どういたしまして」
にこやかに笑いながら、如何にも絵筆の似合いそうな長い指と供に俺の前に資料を差し出した。
「有り難う。鹿川先生でしたね?」
頷く彼に、俺も茉莉に言われた曲者の笑顔とやらを返した。
「何してそんなところ捻ったりしたの?」
赤ペンを動かしながらも怪訝そうに茉莉が尋ねた。
まあ確かに、足首ならともかくスポーツ選手でもない限り滅多に肩なんて捻る奴はいないよな。
「あれ?高城先生」
横に立っていた鹿川先生がツイッと俺の顎を斜め上に持ち上げて、
「ここもですか?」
僅かに眉を顰めて、長い指の先で俺の唇の左端に出来た小さな傷をなぞった。
「飲み過ぎて転んだんですよ。大した事じゃない」
下手な言い訳だなと言わんばかりの顔をした鹿川先生から離れて、俺にあてがわれている机に座った。
『暴力振るう奴なんかと付き合っちゃだめよ未来!』
小さな声で茉莉は俺の耳元で言った。
『そうだね』 俺も小声で答えて、例年の授業内容に関する資料に真剣に目を通し始めた。
たった5ヶ月ほどの臨時講師とはいえ、仕事として受けたからには責任は持たなければならない。
いい加減に人生を生きてる割には、こと仕事に関しては俺は割合に真面目なんだ。
俺を養う為に親父と離婚した後も、バリバリのキャリアウーマンとして働いていたマムを見て育ったせいかもしれない。
『遊んでいては食べてはいけないのよ』と口癖のように言っていた人だった。
「高城先生、ちょっと良いですか?」
いつの間にか鹿川先生が俺の隣の椅子に跨って俺の顔を覗き込んでいた。
「何でしょう?」
額に掛かっている琥珀色の前髪を掻き上げて資料から顔を上げる。
「ほんとにほれぼれするぐらい綺麗ですね」
「それはどうも」
「不躾なお願いだとは思うんですが、2年生の授業で人物画のデッサンをさせようかと思っているんですが、モデルをお願いできないでしょうか?」
「はあ?」
「もちろん先生の授業とかち合わない時だけで結構です。
それにその時間をとられたことで先生の仕事に支障をきたすならコピーでもワープロ打ちでもお手伝いしますから」
「俺はモデルなんて経験有りませんから」
「ただ座っていただくだけで良いんです。何なら本かなにか読んでいただいてても結構ですから」
執拗に食い下がる鹿川先生の横から茉莉が口を出す。
「してあげなさいな。本音は個人的にモデルを頼みたいけど無理だろうなあって、ずっと悩んでおられたのよ。ね?鹿川せんせ」
「野山先生!酷いですよ。ばらすなんて」
酷いといいながらもいかにも楽しそうに笑っている。
笑うと目元に笑い皺が寄って、こっちまで楽しくなるような愛嬌のある顔になるんだな。
こんな笑顔を毎日見ていたら、俺の営業用のスマイルなんかは確かに曲もんに見えるよな。
ぬぼっとした大きな図体に暖かい笑顔はよく似合うが、如何にも芸術家といった感じの手指だけがミスマッチで不思議な人だ。
「いいですよ。いつからですか?」
「ほ、ほんとですか?いやぁ嬉しいな。さっそく明日はどうです?4時間目なんですが?」
「ええ。大丈夫ですよ。俺は3・4時間目は授業がないから」
机にたててある時間割を見ながら答えた。
☆★☆
「なんだ?荻野。俺を待ってたの?」
人気のない下駄箱の横の壁にもたれ掛かっていた大きな影に俺は声を掛けた。
こくりと頷く荻野に、
「残念ながら俺は今日、お前に口止め料を払わなきゃならないような悪さは何にもしてないぜ」
「違う!俺・・・昨日あいつが先生のマンションに入って行くの見たから、それに先生、肩、怪我してるみたいだから・・・俺心配で・・・」
「何?お前。俺のことストーキングしてんの?」
「違う!違う!そんな顔しないで下さいよ」
怯んだ俺に、つかみかかるような勢いで言った。
「じゃあ何でそんなこと知ってんだよ!」
「俺、先生のマンションの前にあるコンビニでバイトしてるんです」
「へ?」
「先生は知らないだろうけど、俺達コンビニのバイト仲間の間では先生のこといつも話題の的なんだ」
「俺のこと?」
「うん。先生だけでも完璧に目立つけど、昨日の奴や凄い美人がいつも一緒で、なんか映画の中の人たちみたいだって」
確かに毛色が変わってる俺に負けず劣らず、慶吾や小枝子も人目を引くもんな。
だいたい着てる物や、乗ってる車が俺達庶民とは格段に違うときてる。白澤にしたってそこら辺にいる、しょぼくれたサラリーマンに比べたら数段カッコイイ部類になるだろう。
「それで?今度はそれの口止め料がほしいのかい?」
いささか、からかうように眉を上げてニンマリと笑って見せた。
「違う!もう、いいっすよ!」
くるりと踵を返したかと思うと、肩をいからせて大股にズンズン歩いていく。
「待てよ!何怒ってんの?」
まだ、素直に感情を表す様に、からかうと面白い奴だななんて、つい引き留めたくなった。
「怒ってなんかいませんよ」
仏頂面のまま、ぶすっとして荻野が応えた。
そういうのを怒ってるって言うんだよ。荻野君。
「今日もバイトかい?」
「今日は違います。部活に差し障らないようにって監督から釘さされてて、週に3日だけっすから」
「ふ〜ん。なあ、荻野。今から俺と飲みに行かない?」
「えぇ〜!」
ピタッとその場に足を止めて、まじまじと俺を見下ろした。
「あ、やっぱまずいよな。教師が高校生誘っちゃ。悪かった」
「大丈夫です、俺。制服着替えて、コンビニの前で待ってます」
「い、いいって。無理しなくても」
つい、誘ってしまったものの、まさか承知するとは思わなくて俺の方があたふたする。
「無理なんかしてません。7時、7時半には必ずいけますから。じゃあ先生必ずですよ!」
「お、おい、荻野・・・・」
呼び止める声など聞こえないとばかりに、図体は大きくてもまだ少年らしさの残る顔を輝かして、荻野は走り去ってしまった。
何ともまあ、嬉しそうな顔して・・・・・・・・・
ちょっとばかり、惚けたように荻野の後ろ姿を見送った後、クスっと笑いを漏らした。
初めは講師なんて嫌で嫌で仕方がなかったけど、そう悪いものでもないじゃないか。
俺の無くしてしまった物がここにはまだ残ってるような、そんな夢が見れるよ、小枝子。
『で?その子と出かけるって言うの?』
「仕方ねえじゃん。約束しちゃったんだから」
『ほんと、未来って変な子だねえ』
「なんでよ」
『慶吾と揉めた腹いせに、その子と遊ぼうなんて思ってやしないでしょうね?』
「酷いな小枝子。俺はそこまで悪人じゃないよ」
『どうだかぁ』
「あ、いけね。俺そろそろ行かなきゃ。じゃまたね」
ベッドの横にある目覚まし時計の針が、7時半の側まで来てるのを見て慌てて切ろうとした。
『あっ!待って、未来!』
「ん?何?」
『一つ訊きたいんだけど』
「だから、何?」
『昨夜、慶吾に離婚しろって、言ったの?』
小枝子の声のトーンが一つ下がった。
「あ、うん。ちょっと売り言葉に買い言葉って奴。でもなんで?」
『慶吾、本気みたいよ』
「えぇ?嘘・・・・・・・・・」
『相変わらず何にも解っちゃいないんだね』
受話機ごしに小枝子の大きな溜息が聞こえた。
「離婚なんかしてどうするつもりなんだろう?」
『どうするって・・・未来と暮らすに決まってるじゃない』
「やだよ。俺・・・・・・・・・・彼奴きのう俺に暴力振るったんだぜ」
思い出すと腹の底から怒りが込み上げてくる。
『相当重傷だね慶吾も』
「なんでよ!殴られたの俺のほうなのに何で慶吾が重傷なんだよ!」
『・・・そろそろ、慶吾と裕征を別々に考えてあげなよ未来』
「ごっちゃにしてるのは慶吾の方だ」
『ねえ、未来。一度、裕征に会ってみる?』
「なっ!・・・・・・・・」
『未来はあの時、現実に押しつぶされて裕征から逃げ出してそのまんまだから。
だからよけいに裕征を引きずってなきゃなんないのよ』「会っても話すことなんかないよ」
『昔話をするだけでも、だいぶ違うと思うな。
それで過去に見切りをつけられるかもしれないし、万一焼けぼっくいに火が付いたら付いたで、それもまた一つの道なんじゃないの?』「人のことだと思って・・・かっていってら。
もう切るよ。じゃね」しばらく、ぼんやりとコードレスホンを片手に持ったまま、ハッとして、窓から外を見ると、コンビニのところで立っている荻野が見えた。
「いけね。もう10分も過ぎてる」
再び時計に目を遣り、慌てて部屋を飛び出した。