**未来への予約**

 

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「未来」  

肩に手を置かれて、涙に霞む目を上げると心配げな懐かしい裕征の顔がそこにあった。

「裕征・・・」  

裕征のスーツの襟をギュッと握りしめながら肩に顔を埋めて、懐かしい淡いコロンの香りに包まれて俺は涙を堪えた。  

裕征は何も言わずに震える俺の背中を優しく撫でてから、ロビーへと誘い、椅子に座らせてくれた。  

時間が遅いせいもあるのだろうか、いつもなら宿泊客やバンケットの利用客でかなり込み合う広いロビーの中も、今は人影も疎らだった。

「何があった?未来。話してごらん」  

ようやく落ち着いた俺の顔を覗き込んで訊く、裕征の柔らかな眼差しが昔と変わらない。

「いろいろ有ったよ。裕征と別れてから。ほんとうにいろいろ」

「部屋を取った方が話しがしやすいか?」  

口ごもる俺に気遣って、一流ホテルのロビーに何の遜色も感じさせないほど、スタイリッシュなダークスーツに身を包んだ裕征が優しく尋ねる。

「ううん。ここでいい。
俺なんかと部屋にはいるとこ見られたりしたら、裕征に迷惑が掛かるから」

「変わらないな未来は・・・絶対に俺には我が儘を言ってくれない」

「え?」

「言って欲しかったんだよ。ずっと。
慶吾には幾らでも言える我が儘を、俺には決して言わなかったろう?」  

指摘されて初めてその事に気が付いた。

確かに慶吾には幾らでも言えた我が儘を、俺は一度も裕征に言ったことがなかった。

「我が儘なんか言ったら裕征に嫌われるんじゃないかって思うと恐かったんだ」  

ああ、そうだったんだ本当に。

俺が一番恐れていた。

裕征本人に、もうお前など必要ないと言われる時が来ることを。

「未来が我が儘を言ってくれない理由を俺は未来を失ってからやっと理解したんだ。
俺が未来の信頼を勝ち得ることの出来ない、出来の悪い恋人だった事をね。
初めてお前達を引き合わせたときから、慶吾が強くお前に惹かれてるのは感じてたけど、まさか未来が慶吾の所に行ってしまうなんて夢にも思ってみなかった。
俺は未来を愛してたし、自惚れやと笑われるかもしれないが、未来にも愛されてると信じていたから」

「違う・・俺は・・・・・・」

「待っててくれてると信じてた。
親父が急に倒れて俺が事業を引き継ぐために、実家に戻って片づけなきゃならない事が有るからしばらく待ってて欲しいと言ったときも、未来は何も言わずに、ただニッコリと頷いただけだったよな?
後になって親父の秘書が、お袋の差し金で未来に手切れ金を渡しに行ったと聞かされて、慌ててマンションに戻ってみたら、もう部屋はもぬけの殻で、未来は慶吾の所に行ってしまった後だった」

古傷をこじ開ける痛みに耐えるように、裕征は細く長い息を吐いた。

「裕征・・あの時は裕征に迷惑かけたくなかったんだ。あの人が・・俺が裕征と別れないと裕征は会社からも家からも縁を切られるって・・・・・・・・・・
俺・・俺みたいな、だ、男妾がいたら・・・・・いけないって。
釣り合いのとれる家柄のお嬢さんと縁談が進んでるから裕征のために別れろって、そう言われて・・・・・・・」

違う、違う。そうじゃない。

裕征に話しながら俺はあのときの底なし沼に落ちていくような不安の本質に今頃になってようやく気が付いたんだ。

裕征の為に身を引くなんて、そんな格好のいいものじゃなかったんだな・・・・

本当は裕征が俺のために何もかも失ったあと、いつか俺を俺のことを憎むんじゃないかと思ったんだ。

こんなことになったのは、お前のせいだ。

お前なんかいらないと裕征自身の口から言われる事が、裕征を失うこと以上に俺は恐かったんだ。

「俺の気持ちを一度もたしかめようともせずに?
何故それならそうと慶吾の所に行く前に『裕征の気持ちはどうなの』と俺を詰りにきてはくれなかったんだ?
あの時もし本当に、お前と別れるか家を出るかと迫られていたら、俺はためらわずにお前を取ってたよ。
確かに桜庭家と言うバックを無くせば途轍もない贅沢はさせてやれなかったかもしれないが、お前と人並み以上に楽しく暮らせる位には、ちゃんと稼げるぐらいの自信は俺にもあったさ」  

今なら解る。

本当のことが・・・・・・・・

もしあの時二人で一からやり直したとしても、裕征はきっと何処でも成功することが出来ただろう。

そうでなければ何千何万と言う社員を使って会社を切り盛りしていくなんて言うことが並の男に出来るはずがないんだ。

「ごめん。俺が間違ってたんだ」  

そうだ、裕征を信じ切れなかったのは俺の方だったんだ。

むしろ裕征を見くびって裏切ったのは俺・・・・・・・・

「今更恨み言を言っても始まらないな。
時計の針は逆さまには回せないし未来が悪いわけじゃない。
信じて貰えなかった俺にも落ち度はあるし、なによりつまらないプライドを捨てきれずにお前を奪い返しに行くだけの勇気が俺には無かったんだから」  

微かな自嘲の笑みを頬に浮かべ裕征は手を挙げてボーイを呼ぶとコーヒーを二つ持ってくるように頼んだ。

「昔のことより、今の様子を教えてくれないか未来?桐生学院で講師をしてるんだろう?」

「そんなことまで知ってるの?」  

驚いて聞き返す俺に、

「あきらめが悪いのかな俺は。
未来ともう一度元の鞘に収まりたいと思ってる訳じゃない。
俺にはもう娘もいるし、あの時のように簡単に仕事や家庭を手放すわけにはいかないからな。
ただ出来ればずっと未来のことをみていたい。
俺が幸せにしてやれなかった分も未来には幸せになって欲しいんだ」  

俺を見る裕征の身体全体から、溢れるほどの愛情を感じる。

性愛を越えた包み込まれるような暖かい愛情を。

「俺のこと今でも綺麗だと思ってくれる?」

「もちろんだ。世界中でお前が一番綺麗だよ未来。
おっと、かみさんには内緒だぞ」  

甘いマスクを崩して片目をつぶった。

「良かった。今日逢えて・・・・・・・
もっと前に・・・だめだねこんな事考えても。
時計の針は逆さまには回せないものね」  

作り物でない笑顔で、目の前にいる過去の恋人にニッコリと微笑み掛けた。

「どうだ?桐生学院は?」   

ロイヤルブルーの制服に身を包んだボーイが恭しく持ってきたコーヒーを受け取って、優雅に飲みながら改めて裕征は訊いた。

「うん。思ったより面白いよ。長い間人付き合いを避けてたから、結構新しい発見もあるし」

「そうか。もしお前がその気なら臨時雇いじゃなくて正式に講師になるか?」

「そんなの俺がその気になったって無理だよ。向こうの都合ってのがあるんだから」

「お前さえ嫌じゃなければ、そのぐらいのことはなんとでも出来る」  

何でもないことのようにさらりと裕征は言ってのけた。

「俺が桐生学院にいくことになった裏に裕征も一枚噛んでるの?」

「いや。これは小枝子の考えたことだ。
未来が部屋に籠もりすぎてるって、ずっと心配してたからな小枝子は。
この件に関しては俺は何も手出しなんかしてない。
ただ桐生学院と言えば、この辺りでもかなり裕福な家の子が通う学校だ。
幾らでもつながりはつけられる」  

こんな些細なこと一つとっても、改めて並はずれた力のある人だと思い知らされる。

ほんの三年の間に如何にも青年実業家と言った感じの貫禄が以前よりうんと強くなっている。

自信と傲慢を漂わせる慶吾より、ソフトな外見に隠されてはいるものの、ほんとに敵に回したら恐いのは裕征の方なのかもしれないな。

「そうだ。桐生学院と言えば日本陸上界の新星がいるんだよな?」  

小枝子からこれも何か訊いているのか、意味ありげな視線を俺に向けると話題を変えた。 

三年間というもの、ただ裕征のことを忘れる為にだけ終始してきた俺なのに、これじゃあまるでお釈迦様の手のひらの中で、ぐるぐる回り続けている孫悟空みたいだ。  

人の器ってものはこんなにも違うものなのかと、呆れて可笑しくなってきた。

「日本陸上界の新星?」  

もちろん彼奴のことだよね。

「確か荻野隼人(はやと)」

「へえ?彼奴そんなにすごいやつなの?」

「四年後のロンドンはこのまま行けば確実なんじゃないかと言われている。
荻野の亡くなった父親もオリンピックの陸上選手だったからな」

「ふ〜ん。陸上のことは分かんないけど。良い奴だよ彼奴は」

「桐生じゃ大変だろうな苦学生は」

「苦学生なの?」

「スポーツ特待生で入ってるはずだ。荻野の家は母親と確か姉がいるだけでこれと言った金持ちじゃない。
俺も同じような学校に通ってたから、ああ言う学校の付き合いの派手さをよく知っている」

「でも特待生なら授業料とかいらないんだろ?」

「それはそうだが、ああいう学校は他にもいろいろと金が掛かる。
それに金持ちのバカ息子達は貧乏な奴には意地が悪いときてる。
自分で稼いで金持ちになった訳でもないのにな」  

長い足を組変えて、苦笑を漏らした。

「変なの。自分だって生まれつきの金持ちのくせに」

「だからこそ嫌なところも沢山見てきて知っているんだよ。
それでかな?未来といるとホッとするのは」

「なんだよそれ。俺のことビンボー人だと思ってバカにしてるだろう」  

声を出して笑ったのなんて何年ぶりだろう。それも裕征と笑い会えるなんて。

心が軽くなるみたいだ。

 

 

ふっと、背中に気配を感じた途端、

「・・・・・・慶吾」  

裕征の顔から笑顔が消えて俺の頭越しに呟いた。

 

 

 

8話へいく?