**未来への予約**

 

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「偉く楽しそうだな?」  

振り返った俺に、また冷たい機械のような視線と声が掛かる。

「ちょうど良かった。裕征との話が終わったら、慶吾の部屋に行くつもりだったんだ」

「そうか?それならいますぐ来るんだ未来!」  

慶吾が後ろから力任せに俺の肘を掴み上げた。

「あっ!」  

昨夜痛めた右腕を強く引かれて、痛さに顔を顰めた途端、裕征が慶吾の腕を押さえた。

「大丈夫か未来?」

「う、うん」

「お前は口を出すな」  

裕征に向かって、慶吾が唸る。

「乱暴するつもりなら未来はいかせない」  

俺を守ろうとして中に割って入ろうとする裕征の腕にそっと手を乗せて、

「いいんだ裕征。慶吾は乱暴なんかしやしない。
俺達今日こそきっちり話さなきゃならないことが有るんだ。
ほんとに逢えて良かった。今日は有り難う」  

裕征の身体を向こう側に押した。  

俺の本心を探るように深い瞳が俺を捕らえた後、裕征はフッと柔らかく微笑んだ。

「そうか・・・今度、また会おうな?」

「うん」  

俺の返事に頷いて、裕征は慶吾を鋭く一瞥すると俺達にゆっくりと背を向けた。  

幾ら思いきったつもりでも、俺の中にいる昔の俺が、遠ざかっていくその広い背中にすがりつきたい衝動に駆られる。  

終わったんだ。

これで本当に逝ってしまう・・・・・・・・俺の・・・・俺の裕征・・・・・・・ 

「嘘つき・・・・・・」  

切ない想いで裕征の姿が豪華なロビーから消えるのを見詰めていた俺の耳に、慶吾の微かな呟きが聞こえた。  

振り返った俺から視線を逸らし、溜息を一つ吐くと、さっきまで裕征の腰掛けていたソファに慶吾はドッサリと座り込んだ。  

いつもは嫌味なほど自信に満ちているくせに、肘掛けに凭れ片手で顔を隠すように俯いた慶吾はまるで俺の知らない人みたいだった。

「慶吾」  

がっくりと落とされた慶吾の肩に手を置いて俺は小さく声を掛けた。

「行けよ。そんなに裕征が恋しいなら追いかけて行けばいい」

「終わったんだ。今度こそほんとに。
強がりに聞こえるかもしれないけど、もう裕征も俺も昔のままじゃない」  」

俺の言葉に、キッと顔を上げた慶吾は、
「嘘だ。今さっきどんな眼差しでお前が裕征を見詰めていたと思ってるんだ?
三年経った今でも昔と少しも変わっちゃいない。
この三年間どんなに俺がそれを望んでも、決して俺に向けられる事はなかったのに」

必死になって感情を抑えているのか、声が微かに震えている。

「だから何度も言ったろう?
今の俺はあんたのことをほんの少しも愛してなんかいないって。
それなのに何故離婚してまで俺を縛りつけようとする?
このままだと俺はいつか慶吾を憎んでしまう」

「未来・・・俺が憎いのか?」

「今更昔の関係に戻りたいと言ってもそれは無理なことだけど。
あの頃の俺はほんとに慶吾が大好きだった。
あんたと対等だなんてそんな思い上がった気持ちは更々なかったけど、恋人の裕征とは違う、たった一人心から信じられる大切な友達だと思ってたんだ。
あの時小枝子の所に転がり込まないで慶吾の所に行ったのも、単に慶吾は同姓で俺の唯一信頼出来る友達だったからなんだ。
その慶吾にまで『初めてあったときから、俺は未来が欲しかった』と言われたときに、俺の中に有った慶吾への純粋な愛情が音を立てて壊れていった。  
あの時すぐに俺を自分のものにすることが無ければ、あるいは慶吾への友愛が恋に変わることもあったかもしれないけど。
裕征の親父さんの秘書とやらに蔑んだ口調で『男妾』と呼ばれて傷ついたばかりの俺は、信じてたあんたにまでずっとそんな目で見られていたと知ったときに、つくづく自分が汚らわしい物に思えたよ。
その後もあんたは俺をまるで見せ物のようにパーティーに連れだして自分のものだと誇示して歩いた。
おかげで慶吾が結婚すると決まった時や、今回の渡米の時も新しいパトロンになってやろうって言うスケベ親父がかなり俺のマンションにまでやって来てたのなんか知らなかったろ?
慶吾には解らないだろうけど俺にもほんの少しだけプライドって奴があったのに、それすらあんたは俺から奪っていった。
俺があんたの囲われものになったつもりなんか無くても、幾ら自分で稼いで細々と暮らしているつもりでも、世間では俺はれっきとした東堂慶吾に金で買われた慰み者で通っていると、ご親切にも教えてくれる輩が山ほどいたよ。中には裕征とのことを聞きかじっている奴もいて、『饗庭、東堂ときたら次は差詰め国外かい?』と聞いてくる始末だ。
そう言えば『東堂慶吾と別れる気がないなら、一晩幾らで買えるんだ』と訊かれて、投げやりに『一億』と答えたら、その場で小切手を切られて逃げるのに困ったこともあったな」

俺は慶吾の真正面に座り、今まで決して慶吾には話さなかった様なことまで、総て話して訊かせた。
この三年間が俺にとってどんなものだったのか、何故慶吾を愛することが出来なかったのか、それを慶吾に知って貰うために。

「何故いままで俺に何も話さなかったんだ?」

両手を膝の上で拳が白くなるほど握りしめ、歯がみするように苦々しい口調で慶吾が言った。

「信頼してなかったから・・・きっと慶吾もそいつらと同じ目で俺を見ているんだと思ってたからかな。だってそうだろう?
いつも慶吾は俺が働くのをいやがって、何度も生活ぐらいみさせろと言っていたじゃないか。
それを囲われものと言わずになんと呼ぶんだ?」 

困ったように俺を見ている慶吾に、ゆっくり尋ねた。

「悪者は俺だけか?
愛してなどいない。
囲われものなんかになるのも嫌だ。というならどうして三年も俺の側にいた?」

「慶吾のことを責めてなんかいない。一番悪いのはこの俺だ。
俺自身、自分を追いつめながらも慶吾との関係を切らなかったのは、心のどこかで裕征の住む世界と繋がっていたかったからなんだと思う。
初めに裕征の事を信じ切れなかったのも俺だし、慶吾が俺のことをそんな風に思っていると知った時点で出ていかなかったのも俺。
それに何よりちゃんと慶吾が家庭を持った後まで、俺には関係ないんだからと、ずるずる関係を続けていたのも俺が悪いんだ」

「俺の家庭のことはどうでもいい。あいつとは離婚すると言っているだろう。
そもそも結婚すると言えば、少しでもお前が俺を気にしてくれるかと思って言い出したことなのに、お前が全く知らぬ存ぜぬを決め込むから、引っ込みが付かなくなっただけの結婚なんだから」  

これ見よがしに肩を竦めると、左手の薬指からプラチナの結婚指輪を外し俺の前に差し出した。  

俺は首を左右に振り、

「慶吾達夫婦の話に俺を巻き込まないでよ。
二人の間がどうのと言われても俺には解らないし、奥さんは慶吾のことを愛してるかもしれないじゃないか。
どんな形にせよ一度は結婚したんだ、慶吾の一方的な都合で振り回されたら奥さんだって迷惑だよ。
俺と慶吾は赤の他人だけど、慶吾達は夫婦なんだよ。
俺が原因で籍を入れて、俺が原因で籍を抜くなんてあまりにも奥さんに失礼だと思わないのかい?
ともかく俺は慶吾も裕征も関係ない世界で一からやり直したいんだ。
元々俺には場違いの世界だったけどね。贅沢なんて別にしたいと思わないし、慶吾が見せびらかして自慢できるこの顔だって、後十年もすればいやでも翳りが出るさ。
そんな外見だけじゃなくて自分自身に自信を持てる人間になりたい。
本当に長い間忘れてしまってたよ。
俺がまだ若いんだって事をね」

「俺にはもう会わないつもりか?」  

慶吾は再び拳が白くなるほどきつく両手を握りしめた。

外した指輪をその中に閉じこめたまま。

「いつか、いつかまた逢えるといいね。本当は慶吾のこと憎んでなんかいないよ。
憎めっこないじゃない。あんなに大好きだったのに・・・・・・・・」

「未来・・・」  

深夜のロビーには、もう制服を着たホテルマン以外俺達の姿しか無く、テーブルの上には裕征の飲んだコーヒーカップと冷め切った俺のコーヒーが残されているだけだった。

 

「最後に一つお願いが有るんだけど」  

そう、どうしても言っておかなければならないことが、まだ一つ残ってるんだ。

「なんだ?なんでもしてやるよ」  

慶吾は蒼ざめた唇にたばこを銜えて、細く紫煙を吐き出した。

「明日、慶吾がニューヨークに発つ前に白澤が辞表を出すと思うんだ。
それを破って欲しい」  

タバコの煙の向こうにある慶吾の瞳をしっかりと捉えて俺は言った。

「なるほど。例の相手は白澤だったんだな」 

細かいことを言うまでもなく、慶吾はしたり顔で頷いて、

「わかった。破ってやろう。それでいいんだな?」

「うん、有り難う。明日の飛行機は何時?」

俺はソファから立ち上がりながら尋ねた。

「11時45分発の便だ」

「そう。身体に気をつけてね。さよなら慶吾」 

ひらりと手のひらを振りながら踵を返した俺の背中に慶吾の声が掛かる。

「望みは?望みはひとかけらもないのか未来?」

「俺達が過去の俺達に戻れないように、未来(みらい)の俺達もきっと今とは違うよね?
未来(みらい)のことは誰にも解らないよ。慶吾」  

俺は煌めくシャンデリアの下を、振り向かずに歩き出した。

鼻の奥がツンとした痛みを伴って、さっき、裕征を見送ったときには溢れなかった涙が何故なのか頬に伝う。

そう、これからどうなるかなんて、未来(みらい)のことは誰にも解らない。

希望に満ちた未来(みらい)を望んで俺につけられた未来(みき)という名前。

『貴方の名前はね未来、日本の漢字で書くと『みらい』とも読めるてfutureという意味になるのよ
。ね?素敵じゃない?マムはとっても良い名前だと思っているの』

幼い俺を、その形のいい膝に乗せてマムは何度か話してくれたっけ。

煌めく都会のネオンをぼんやり眺めながら、俺はそんなことを思い出していた。

   

 

9話へいく?