**未来への予約**

 

( 9 )

 

翌日、普段通り出勤した俺は、準備に少し時間をとられるので5分ほどしてから美術室に来て下さいと鹿川先生に言われて、校舎の一番東側にある階段を一人で三階へと上がっているところだった。

踊り場から見える時計はちょうど12時15分前を指している。

俺は三階にたどり着くと窓からひょいっと頭だけを覗かせて空を眺め、鰯雲の掛かった青い空に向かって『サヨナラ』と小さな声で呟いた。    

廊下の突き当たりにある美術室に俺が一歩足を踏み入れると、黄色い歓声があがった。

「静かに!静かにしなさい!こちらが僕のごり押しでモデルを努めて下さることになった英語の高城未来先生です。
まあ、桐生学院広しといえ、僕の名前を知らなくても高城先生の名前を知らない生徒はいないだろうけどね」 

ドッと笑いが起こる。  

長椅子のようなものを囲むように、生徒がイーゼルを立てて座っているのを見ると、どうやら俺はその長椅子に座るようだ。

ざわめく生徒をぐるりと見回しながら椅子迄行った俺は鹿川先生の指示を待った。

ほかの生徒より大きいせいか一番後ろの席に座っている荻野は心配そうな顔で俺を見詰めている。

「楽な姿勢で座って下さい」

「こうですか?」  

クッションがいくつも置かれた長椅子にもたれ掛かるようにゆったりと腰掛けた。

「先生!脱いでくれないんですか?つまんない!」  

一人が叫んだと思うと、あちこちから賛同の声が挙がる。

「こらこら、無理を言っちゃいけないよ」  

生徒を諭しながらも、しっかりと自分用のイーゼルの前に陣取っている鹿川先生は、ほんの少し期待に満ちた目を俺に向けた。

「何だよ、みんな。俺が脱いだ方が描く気になるの?」  

問いかけに大きく頷く生徒達の向こうで、荻野一人が必死な形相で俺に駄目のサインを送っている。  

その仕草が可愛くてつい、

「じゃあ、上だけね。下まで脱ぐとちょっとヤバイから」  

一番向こうで真っ赤な顔をして怒っている荻野に首を傾げて見せて、さっさと洗いざらしたジーンズだけの姿になると、嬌声を上げて色めき立っっている生徒達に釘を差した。

「こんな毛色の変わったモデルになんて滅多にお目にかかれないんだからね。
ちゃんと描かなきゃ駄目だよ」

「そうだよ。ちゃんと描かなきゃ、高城先生はもちろん他の学年の子達にも申し訳ないからね。
はい始めて」  

パンと鹿川先生が手を叩くと、教室の中に画用紙の上を滑る鉛筆の音だけが広がり、私語が消えた。  

50分の時間の間に鹿川先生は何度もイーゼルの場所を変えて、かなりの数のデッサンを描いていた。絵を描くときはあの人の良さそうな笑顔が消え、おっとりした顔が手指と同じほど芸術家のそれに変わるんだなと感心しているうちに時間は過ぎてゆき、チャイムが鳴った。  

あまり熱心に描いていたため、生徒の絵が時間内に見て回れなかった鹿川先生は、俺が服を着ている間にみんなのデッサンを見て歩いて、やっぱりモデルが良いと出来が良いもんだねえと頻りに感心しながら、描き上がった分を集めていた。

「へえ、みんな旨いものですね。俺は全く絵なんか描けないから」  

にぎやかに出ていく生徒達の横で集まった絵を見せて貰っていると、一枚の絵に目が止まった。

旨いとか下手とかそんなんじゃ無いけれど、何かがほかのとは違う。

「なかなかいいですね。絵に色気がある。荻野は高城先生に惚れてるのかな?」  

鹿川先生は俺の手元を覗き込んだ。

「え?これ荻野のですか?」   

力強いデッサンを手に鹿川先生を振り仰いだ。

「高城先生も荻野のことはご存じですか?まあ彼も先生に負けず劣らず、桐生学院では有名人の一人ですからね」    

生徒のいなくなった美術室でもう一度改めて荻野の絵に見入った俺は、 『ありがた〜く描かせていただきますよ』  と笑った、昨夜の顔が目の前の絵に重なる。

「私事で恐縮なんですが、今日のデッサンを元に一枚描かせていただいても良いでしょうか」  

さっき描いた絵を手に持ったまま鹿川先生が、ぼんやりと立っている俺に訊いてきた。

「ちゃんとしたカンバスにって事ですか?俺は別に構いませんが」

「もしかしたら展覧会なんかで人前に出すかもしれませんがそれでも良いですか?」

「光栄ですね。もし出されることが有れば教えて下さい見に行きますから。
さっき描いておられた分、見せていただけませんか?」  

手渡された紙は4枚。顔のアップが正面と横顔。全体の絵が2枚。

流石に素人目から見ても生徒達のものとは雲泥の差だ。

俺はこれにちゃんと色の付いた絵が無性に見てみたくなった。

「この絵を仕上げるのに個人的にモデルが必要ならいつでも言って下さい。
俺も見てみたいですから」

「本当ですか!」  

顔を輝かした鹿川先生はおもむろにガバッと俺に抱きついた。

「あ、すみません!つい興奮してしまって」 

ホールドアップする形で手を離すと、申し訳なさそうに頭を下げた。

「やだな。男同士なんですからそんなに気にしないで下さい。
セクハラで訴えたりなんかしませんから」

笑いながら、あたふたと片づけ始める先生と供に美術室の後片づけを手伝った。  

階段を一緒に下りるときに、俺の数段下に立った鹿川先生は目の高さが同じになったかと思うと、俺の目をグイッとのぞき込み、

「今の今まで、薄い茶色だと思ってましたよ。緑が混じっているんですね?」  

危ないぐらいの至近距離で言った。

「ええ。ヘーゼルグリーンと言って、ヨーロッパ系の白人には結構多いんですよ。俺のこの目の色を榛葉色の瞳と呼んだ人もいましたけど」

「ほう。風流ですね」  

再び階段を下りながら話している俺達の前に、一階の踊り場からぬっと荻野が現れて、

「鹿川先生、高城先生をお借りします」  

と言うと、返事も聞かず俺を連れてとっとと歩き出した。     

 

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