act2
三月もそろそろ終わろうとする日に、僕は母さんの入れてくれたワイルド・ストロベリィ・ティーを飲みながら、引っ越しの車が止まるのを部屋の窓から眺めていた。
今日から智也さんの部屋に新しい住人が来る。もちろん僕としては誰にも使ってなんか欲しくないけど、そんなわがままは言えない。〈ムーン・ライト荘は〉三階建ての私設の学生寮で一階は大きなダイニング・ルームと大型テレビの置いてあるリビングの他に僕の部屋と母さんの部屋がある。二階と三階それぞれに三部屋ずつ同じ広さの部屋が有って、小さいながらもそれぞれに独立したキッチンとユニットタイプのバスルームも付いている。
別に取り立てて学校や性別の決まりが或訳じゃないけど、自転車でも通える距離に名門大学があることと、門限なんかを決めなくても済むように僕の知る限りいつも此処には大学生のそれも男の人しか住んでいない。
食事に関しても基本的には自由で、作って欲しい人だけがダイニングにあるボードに必要な日を書き込むことになって居るんだけど、デートやコンパでもない限り、たいていみんな下で食事をしている。
今年は卒業した人が居ないので新しく入ってくるのは智也さんの部屋に来る人しか居ない。今夜はその人のための歓迎会をすることになっていた。
「舞ちゃん!ちょっと出てきて」
母さんが大きな声で僕を呼んだ。
毎年恒例とは言え、新しい人が来るたびに少し緊張する。新しい人には申し訳ないけど、今回は特に智也さんの部屋を横取りされたような複雑な気持ちが混じってしまってあんまり会いたくない。
リビングに入っていくと、小麦色に焼けた人なっこそうな笑顔が僕を迎えた。何かスポーツでもしているのだろう、背が高くて胸が厚い。沢山の大学生と今まで一緒に過ごしてきたけど、こういう人のことを好青年って言うのかもしれないな。
「あんたが、舞ちゃん?俺、後藤尊仁(たかひと)いうねん。仲良うしょうな」
うわぁ!関西弁だ!いろんな地方の人が今までも居たけど、テレビ以外ではじめて生を聞いた。
「関西の人なの?」
「そうや、大阪。いったことあるか?」
「ううん」
「そうか。いっぺん行ってみるのんもおもしろいとこやで」
「後藤君。これに決まり事が書いてあるからよんで置いてね。それから電話は部屋のをそのまま使ってくれて良いから。えーと、203はたしか・・・」
母さんは台帳をぱらぱらとめくる。
「616XXXX・・・」
無意識のうちに智也さんの部屋の電話番号が唇から零れた。
「舞ちゃんたら、よく憶えてるわねぇ」
そう言いながら母さんが後藤さんに渡す紙の端に番号を控えた。
「僕、母さんと違って若いもの」
笑顔を作って咄嗟に嘘を付いた。声を掛ければみんなが降りてくる〈ムーン・ライト荘〉の中で部屋の電話番号を覚える必要なんか無い。もし外から誰かに用事があればリビングにある電話にかければ呼び出して貰えるし、それで用事は済むんだから。僕にしたって憶えているのは智也さんの部屋だけで、戸塚さんの番号すら、手帳の隅に書いてあるだけなんだから。
「そしたら俺、ちょっと部屋片づけてきますわ」
「あ、後藤君。今夜、七時から歓迎会する事になってるから」
「ああ、わざわざ済みません」
ぺこりと母さんに頭を下げて、僕の頭をポンと叩くと片手に持った紙をひらひらさしながら後藤さんは軽快な身のこなしで二階に上がっていった。
昨日まで智也さんの部屋だった所に。
「こちらが今日から仲間になる後藤尊仁君。いつものことだけど大学はみんなと同じだからキャンパスでも会う事が有ると思うわ。解らないことや困ったことがあるときは教えてあげてね。 みんなバイトやなんかで忙しいからなかなか揃うこともないんだけど仲良くしてあげてね。それじゃ、簡単に紹介して置くわね」
所狭しと、ご馳走が並んだ8人掛けのテーブルの端に座って後藤さんをみんなに紹介した母さんは、今度は後藤さんに向かって自分の右隣から順に名前を言った。
「こちらが最年長の日野君。次が立松君、それから岩本君に大矢君。」
それぞれ、会釈したり挨拶したりしている。「舞人(まいと)にはさっき、会ったものね。舞ちゃんの横の空席は戸塚君、もうすぐ帰ってくると思うんだけど先に始めましょうか?日野君、乾杯してくれる?」
母さんに促されて、銘々ビールやジュースをつぎ、日野さんがグラスを高く挙げた。
「それじゃあ、新しい仲間に。乾杯」
「乾杯」
「よろしくな」
グラスのふれ合う音の中、ざわざわとみんなが話し始めた。
ひらひらと舞い落ちてくる名残雪に気づいた僕は一人だけ他のみんなから遮断されたように窓の外を見ていた。
不意に僕の手の中のオレンジジュースの入ったグラスに、テーブルの向こう側から大きく身を乗り出した後藤さんのグラスが触れてカチンと鳴った。
「あ、よろしく」
咄嗟に我に返って、小さな声で応えた僕を優しい眼差しが包み込む。
何か僕に話しかけようとする後藤さんから再び僕の目は白い雪の舞う窓に引き戻された。 白い雪とまだ帰ってこない戸塚さんがあの日をフラッシュバックさせて、段々胸が苦しくなってくる。
「舞ちゃんは、今、中学生なんか?」
「今年から、高校」
「そうか、ほんならもう行くとこ決まってるん?」
「うん」
まったく上の空で返事をしている僕に後藤さんが次々に話しかけてくる。
その時、がちゃりとドアの空く音がして、僕は玄関に飛び出した。
「戸塚さん!」
戸塚さんの顔を見た途端、不覚にも涙で目が霞む。
「どうした?舞ちゃん」
軽く雪を払って、コートを脱ごうとしていた戸塚さんは、びっくりしたように大きく目を見開いて、今にも泣きだしそうな僕に尋ねた。
「戸塚さんまで・・・なんだか帰ってこないんじゃないかって僕・・・雪が降ってきて・・」
自分でも何を言っているのかよく分からない。戸塚さんはそっと僕の頬に手を触れると僕を安心させるようにゆっくりと言った。
「心配しなくても、俺はちゃんと舞ちゃんの所に帰ってくるから。」
「うん」
唇を噛みしめて頷いた。
あの日からずっと戸塚さんは僕の精神安定剤の役目をしていてくれる。この人が居なかったらきっと受験すらままならなかっただろう。ショックのあまり、十分合格圏にあったはずの滑り止めの私学にさえ合格することの出来なかった僕に、智也さんのためにもがんばれと叱咤とエールの両方を送ってくれたのも戸塚さんだった。だけど、合格したら春休みに二人でスキーに行こうと約束してくれた智也さんはもう居ない。雪国で育ち、雪と供に逝ってしまった智也さん。
こうしてこれから先もずっと、雪が降るたびに僕の心は狂ったように智也さんを求めるんだろうか。