act4
「戸塚さん見なかった?」
部屋に行ってみたものの居なかったのでリビングでテレビを見ている尊さんと大矢さんに訊いてみた。
「さっき日野さんの部屋に行ってたみたいだけど」
大矢さんが教えてくれた。
「そう・・・」
明日の入学式のあと三人でお祝いしょうって約束していたんだけど、家庭教師のバイトやなんかで忙しい戸塚さんと、どうするかまだちゃんと決めていなかった。
「なんか、用があるんか?」
「ううん、別に。後でもいいんだ」
踵を返して自室に戻ろうとしたら、二人が階段を降りてきた。
「今、いい?」
戸塚さんの腕を掴んで引き留めると、日野さんが僕の頭をクシャッと撫でてみんなの方に行った。
「明日、いいの?」
「ちゃんと前から約束してただろう?」
遠慮がちに尋ねた僕に、目元を和ませて応えてくれる。
「何時?」
「バイトから帰るのが九時頃になるけど、舞ちゃんそれでもいいか?」
「うん」
「どっかで待ち合わせようか?」
「ううん。戸塚さんの部屋でいい。僕おこずかい奮発して、智也さんの好きな白ワイン買って置くね」
「じゃあ、俺はなにか摘むものでも買って帰るよ」
「うん」
リビングに入っていく戸塚さんの後ろ姿を見送っていた僕は、テレビを見ていたはずの尊さんが僕を見詰ていたことに気づいて微笑み掛けた。
その途端、手にしていたコーヒーカップを落としそうなほど狼狽えた尊さんは僕から視線を外した。
『変な、尊さん』
躊躇いがちに部屋のドアがノックされた。
「はぁ〜い」
真新しい制服を脱いで着替えていた僕は、あわててズボンを履くとドアを開けた。
開いたドアの前に尊さんが立っていた。
「おめでとう。舞ちゃん」
入学式を無事終えて家に帰ってきたばかりの僕に尊さんは小さな箱をくれた。
「なに?コレ」
「お祝いや。開けてみ」
どうぞと部屋に通して、僕がベッドに腰掛けてプレゼントを開く間、尊さんは僕の部屋を落ち着かなげにうろうろしている。
箱から出てきたのはエメラルドグリーンの文字盤が光の加減でキラキラと貝殻のように光る高価そうなダイバーだった。
「貰えないよ。こんな高いもの」
びっくりして返そうとする僕の手を尊さんも押し返す。
「高いこと無いって。今、時計は安いんや。気にせんと貰うたって」
気休めだと解っていても、折角僕の為に買ってきてくれたんだと思うと無下に断ることもできない。
「有り難う」
改まってお礼を言った僕に、尊さんらしくもなく遠慮がちに訊いてきた。
「舞ちゃん。今晩お祝いついでにどっかいかへんか。」
「今夜?ごめん。今日はちょっと・・・」
「誰かと約束でもあるんか?」
気のせいか声のトーンが僅かに違う。
「うん。ごめんね。今度また誘って」
気を悪くさせないように、努めて明るく返事を返した。
「戸塚さんか・・・」
形のいい眉を顰めて吐き捨てるように言うと唐突に部屋を出ていってしまった。
『なんで、急に怒るんだよ・・・』
9時少し前に、戸塚さんが帰ってきたのが部屋に居た僕にも解った。
少し太くて暖かい声が岩本さんの声と混じりながらリビングの方から流れてきたからだ。 もちろん会話の内容までは解らないけど、響いてくる感じや、足音なんかも永く一緒にいれば聞き分けれるようになるのが不思議だ。
しっかりした戸塚さんの足音が今度は三階へと上っていく。前はこうしてよく耳を澄まして、一人の人だけをじっとベッドに腰掛けたまま追いかけたものだった。
初めの頃は自分自身がいったい誰の声や足音に聞き耳を立てているのかすら解らずにいたんだ。それは僕にとっては初めて抱く感情で、いつしか何処にいてもあの人の姿を追い求めている自分に気が付いてしまった。
視界の中にいるときはその人の姿を求め、それ以外の時は少しでもあの人と関わりのあるものに触れていたかった。
ずっと、それだけでいいと思ってた。弟のように想ってくれるだけで十分幸せだって本当に思ってたんだ。
それなのに、くだらない嫉妬に駆られた僕が我が儘をいって困らせてしまったとき。智也さんは優しいキスをしてくれた後に、僕のことを好きだと言ってくれたんだ。
僕があんまり欲張ったせいで、神様は智也さんを連れていってしまったのかな。
日野さんが言ったように、智也さんは僕になんかには不釣り合いなほど、綺麗で、優しくて・・・智也さん・・・会いたいよ・・・
そっと、指先で唇に触れてみる。ほんの数回しか重ねられることの無かった智也さんの優しい口づけを辿るように・・・
『どうして・・・』と尋ねる僕に、『受験が終わるまで、ここから先はお預けだよ』と、
微笑んだ智也さん。
僕、今日から高校生なんだよ。
「母さん。僕、ちょっと戸塚さんに用があるから先に休んでてね」
酒屋さんのビニール袋を抱えて階段を上がりかけながらリビングに声を掛けた。
「じゃあ、遅くなるようだったら、電気も消して置くわよ」
「うん」
ろくにリビングの方を見もせずに軽やかに階段をかけ上り、三〇三のドアをノックした。「舞ちゃん?空いてるから、入っておいで」 部屋の中にはいると小さなテーブルにチーズやサラミの他にちょっとしたお寿司なんかが並んでいる。
「戸塚さん。ご飯まだだったんじゃないの?」 シャワーを浴びたばかりだったのかTシャツ姿で濡れた髪をタオルで拭いている戸塚さんに訊いた。
「ああ、今日は美恵子さんに頼んで無かったからな。本当は舞ちゃんと外で食べるつもりだったんだ」
「あ、だから、外でって言ってたんだ」
「いいさ、このほうがゆっくり出来て」
いつも僕のことを一番に考えてくれるんだね。
「これ。奮発したんだよ。でもどれがいいかわかんないから、お店の人に予算言って選んで貰ったんだけど」
ビニールの袋から、白ワインを取り出して戸塚さんに渡し、大事にポケットに仕舞って有った智也さんの写真をテーブルの上に立てた。
「俺も、ワインのことはさっぱり分からないからなぁ」
そういいながら、キッチンからコルク抜きを出してきて上手にボンッと栓を抜いた。
「悪いな、折角上等なワインなのに、ビール用のタンブラーしかなくて」
コップを三っつ出しながら苦笑する。
「いいよ、そんなの。何に入れても味は一緒でしょ」
「それじゃ、舞ちゃん。入学おめでとう」
「有り難う」
口に含んだワインは、ほわっと身体を暖めてくれる。
「これ」
「え?」
僕の目の前に見覚えのある年季の入ったボールペンが差し出された。
「これ、智也さんの・・・」
確か中学の入学祝いに貰ったものだって、いつも大事に使ってた。
「おじさん達が荷物の整理に来たときに、形見分けにってくれたんだ」
「だめだよ。戸塚さんが貰ったんだもん」
堪らなく欲しいと想う気持ちを封じ込めるように大きく頭(かぶり)を振った。
「本当の事言うと、最初はどうしようかと思ったんだ。俺は親友として一生アイツを思い続けてやることが出来る。だけど舞ちゃんはいつか智也のことを忘れて誰かを好きにならなきゃならない」
「智也さんの事忘れるなんて出来ないよ!僕は誰も好きになったりなんかしない!」
思わず声が高くなる僕を、諭すように続けて戸塚さんは話す。
「今はまだ無理でも、そんな訳にはいかないよ。舞ちゃんの人生はこれからなんだから。 難しいとは思う、誰かを好きになりかけても必ず智也と比べてしまうだろう。舞ちゃんのことはたしかに可愛そうだと思うけど、正直言って智也と比べられる奴もたまったもんじゃないだろうな」
愛おしそうに智也さんの写真にグラスをあげて見せた。
「だからこれ、今舞ちゃんにあげるんじゃなくて、預けるよ。もし舞ちゃんが智也以上に好きだと思う人が出来たら、俺に返してくれ。俺がちゃんと智也に報告してやるから」
「戸塚さん・・・」
僕の手にターコイズ・ブルーのどっしりとしたボールペンが戸塚さんの手から乗せられた。
「大切にするよ、僕。ずっと・・・」
僕は写真の中で柔らかく微笑んでいる智也さんに、しっかりとボールペンを握り締めながら、そっと呟いた。