act7
次の日、昼頃まで寝てしまった僕がリビングに行くと、恒例のジャム作りの手伝いを母さんに頼まれのだろう、大矢さんがダイニングのテーブルで山盛りの苺の蔕を取っていた。 昨夜のとんでもない会話を聞いてしまった僕は、ちょっと躊躇したものの出来るだけ何気なく声を掛けた。
「おはよう。大矢さん」
「おそよう。舞ちゃん」
声を掛けた僕の方に顔を向けて、大矢さんはたおやかに微笑んだ。
つるりとしたなめらかな人形のような頬を見るにつけ、昨夜の話が嘘だったらいいのにと思ってしまう。悲しいとか辛いとかと言うよりも、きっとものすごい屈辱だったに違いない。
涼やかなこの人を力ずくで傷つけた奴がいたと思うとなんだか無性に腹立たしい。必要以上に大矢さんをガードしようとする岩本さんの気持ちが、今やっと少し判ったような気がした。
「ほんとに、何時だと思ってるのよ。幾ら日曜日でももう少し早く起きなさい。ほかのみんなは、もうとっくに出かけたわよ」
母さんは小言を言いながらも、僕の前に朝食を運んできてくれた。
「は〜い」
大して反省もせずに軽い返事をした僕は、美味しそうな匂いに急に空腹を感じて黙々と食べ始めた。
「今日暇?舞ちゃん」
延々と蔕をとり続けながら大矢さんが訊いてきた。
「別に?これと言った予定はないけど」
トーストを囓りながら応えた。
「後で俺に付き合ってくれない?」
「う、うん。いいよ」
「ほんと?美恵子さん!今日、僕と舞ちゃんの分、夕食いりませんから」
ガタンと椅子をならして身を乗り出すと、キッチンに居る母さんに声を掛けた。
「そんな時間まで?何処に行くの?」
「いいんだ。何処でも」
再びやりかけの作業に戻った大矢さんは、なんだか切なそうに笑った。
結局、僕たちは映画を見て、ご飯を食べたあと、夜景の綺麗なホテルのラウンジに落ち着いた。
カクテルを頼んだ大矢さんと、オレンジジュースを頼んだ僕は、他のカップルから見ると奇異に映るんだろう。ちらちらと僕らを盗み見る周りの視線が気になる。
題名は知らないけれど、いかにも愛の調べという感じのする心地よいピアノの音が流れる中で、ほんの少しのお酒で頬に赤みの差した大矢さんは僕の目から見てもやけに艶ぽくて、きっと一人で居れば男女問わず誘われるに違いない。
「悪かったね引っ張り回して。明日は学校なのに」
「いいですよ。僕も楽しかったから。でも大矢さん、こんな所によく来るんですか?」
僕なんかが来るには場違いな感じのする高級な店内を見回しながら尋ねた。
「俺の実家が加賀友禅の工房をしてて、時々このホテルで新作の発表なんかをするんだ。 だから父が上京したときに何回かこのラウンジにも来たことがある」
一年以上一緒にいたのに、大矢さんの事を何も知らないことに改めて気がついた。こんなに長い間二人で過ごすのはもちろん初めてだったし。二人だけになると、無口だと思っていた大矢さんが、結構楽しい話し相手になってくれることを知って驚いた。別に話嫌いでも、口べたでもなく、おおぜいいると、つい聞き役に回ってしまうようなそんな気配りをする人だったんだ。
「昨夜・・・聞いてただろ?」
しばらく会話がとぎれた後、軽く咳払いをして、薄紫色のカクテルを一気に煽ると大矢さんが勢い込んで僕に言った。
「あ、えっと」
頭の中が不意に真っ白になる。
「いいんだ。舞ちゃんが悪いんじゃない。きっと心配して見に来てくれたんだよね。尚志の奴があんな時間に大声出すから」
整った顔が岩本さんの名前を口にした途端不意に曇った。
「今日も、本当はただ岩本さんと顔を合わせたくなくて僕を誘ったんでしょ?」
「自分でも本当言うとよく分からないんだ。 尚志が俺のことを大事に思ってくれてるのは、よく判ってるつもりなんだけど。アイツの目を見るとイライラするんだ。
昨日みたいに、俺が何かをする度にアイツは俺に干渉して来るんだ。もう、3年も前のことなのに。俺は忘れてしまいたいのに。あのことを忘れようとしても、尚志がそれを許してくれない。どんなに俺が忘れようとしても、あの時俺を見た尚志の目がどうしても忘れられないんだ」
辛そうに、両手で顔を覆ってしまった大矢さんをどうやって慰めていいものか解らずに、ただそっと側にある華奢な肩に手を置いた。
「大矢さん・・・岩本さんのこと友達としてじゃなく、その・・・特別な意味で好きなんじゃないの?」
「・・たぶん・・・」
覆われた手の中でくぐもった声が返ってきた。
「たぶんって、自分の気持ちだよ?わかんないの?」
煮え切らない答えに、肩に置いた手に少し力を込めた。
「もし、もしも、好きだって気持ちを俺が認めて、それで、その後はどうすればいい?
ずっとずっと、押さえてきたんだ。ただの幼なじみなんだって。この想いは絶対に恋なんかじゃないって。自分に言い聞かせてきたんだ。いつまでも俺が尚志の側にいられるように・・・
でもあんな事が有った後はそれさえも辛くて、地元の大学に俺が進むと信じていた尚志に黙ったまま、こっちに志望校を変えていたのに。
まさか、尚志も同じ事考えてたなんて俺は思いもしなかったんだ。そこまで尚志が俺のことを重荷に思ってたなんて知らなかった。 あんな事をされた俺と、これ以上一緒にいたくないと思ってたんなら、それならそれで、知らない顔をして放って置いてくれれば良かったのに・・・好きだと認めて、これ以上尚志に所詮お前はそんな奴なのかと軽蔑されたくないんだ。
どうしたらいいのかもう自分でも解らない・・・側にいたいけど、このまま側にいるのは辛いんだ・・・」
顔を覆っていた手を外すと、潤んだ黒目がちな綺麗な瞳が問いかけるように、じっと僕を見詰めた。
「どうしたらって・・・」
思案に暮れた僕は大矢さんの視線から顔を逸らして、眼下に広がる光の海を眺めた。まるで色とりどりの宝石をばらまいたような大都会のイルミネーション。その一つ一つの灯りの中にも別の人が別々の悩みを抱えながら生きているんだろうな。
僕自身、智也さんに特別な感情を抱いていることを知られたら、嫌われてしまうんじゃないかって、長い間恐れていた。嫌われてしまうくらいなら、いっそこのままずっとこの想いを胸に秘めていようって、決めてたんだ。 少しでも永く、少しでも近くにいられるように。でも、もう智也さんは居ないんだ。
「贅沢だよ。大矢さんは・・・」
「贅沢?」
「だって・・・好きな人が側にいるのが辛いなんて・・・大矢さんの気持ちは解らなくはないけど、どんなに側にいて欲しくたって、叶わないことも有るんだよ」
僕は大矢さんの綺麗な横顔に訴えた。
「舞ちゃんには解らないさ、いつだって戸塚さんが側に居るんだから」
自嘲気味に微笑むと、カクテルグラスを唇に運んだ。
「僕が側にいて欲しいのは、戸塚さんなんかじゃない!
もう、僕のことを好きだなんて言ってくれなくてもいい。僕以外の人を見詰めててもいい。昔みたいに切ない片思いに戻ってもいいんだ。
もし、もしも僕の側に戻ってきてくれるんならどんな物とでも引き替えるよ。
僕は・・・会いたいんだ・・・智也さんに・・・会いたい」
切なさに胸が張り裂けそうだ。すぐ側で僕を労る大矢さんの優しい声が聞こえるのに、僕の目は涙で霞んで何も見えやしない。
「ごめん。ごめんよ、舞ちゃん。俺てっきり戸塚さんと付き合ってるとばかり思ってて、可愛そうに。辛かったろうね。ごめんね」
途方に暮れた様子で、僕の顔を覗き込んだ大矢さんの目にも大粒の涙が溢れた。
「やだなぁ。大矢さんまで泣かないでよ。こんな所で男が二人泣いてるなんて、絶対変だよ」
真珠のような涙を浮かべた大矢さんの、色っぽいどアップに照れくさくなった僕は、冗談めかして言った。
案の定、周りの好奇の目は、さっき以上に僕らに注がれている。
「大矢さん。どのみち辛いんなら、確かめて見ようよ。岩本さんの気持ち」
「だ、だめだよ!」
あわてて、首を横に振る。
「側にいられるだけで幸せならそれでもいいけど。それも辛いんならハッキリさせなきゃ。 大矢さんだっていつまでもこのままじゃ前に進めないよ」
「前に進む?」
「僕も、戸塚さんや日野さんに言われたんだ。 幾ら今が辛くても舞ちゃんの人生はこれからなんだって。初めは解ろうとしなかったけど。ううん。きっと解らないフリをしてたんだ。僕はこれからも生きて行かなくちゃいけない。きっと智也さんの分まで幸せにならなきゃいけないんだ。そのためには前に進まなきゃ。智也さんへの想いを捨てるつもりは無いけど、その想いを抱いたまま前に進むんだ」
「解ったよ。もう、逃げない。逃げててもなにも始まらないか・・・有り難う舞ちゃん」 僕に向けられた大矢さんの笑顔はそれはそれは美しかった。なんだか岩本さんに独り占めされるのかと思うとちょっぴり悔しい気がする。僕って元々美形に弱かったのかと、しみじみ思ってしまった。
「ちょっと待っててね」
すかさず席を立った僕はカウンターの横にある電話に向かった。ためらわずに203の電話番号を廻すとすぐに暖かい声が受話器から流れてきた。
「もしもし、ぼく」
『どうしたんや?今どこにおるんや』
少し怒っているのか問いただすように訊いてきた。
「僕が誰か判ってるの?」
『当たり前や!舞ちゃんの声がわからんわけないやろ!』
怒鳴られてしまった。
「さっきから何怒ってんのさ。頼み事しようと思ってかけたんだけど、怒るんならもういいや」
『あかん!切ったらあかんで!怒ってるんや無い。心配してるんや。大矢さんと二人で出かけたって訊いたけど、全然帰ってこうへんし。変なんに絡まれてるんとちゃうかおもてずっと心配してたんや』
「心配することなんか何にも無いのに」
そうは言っても、誰かが気に掛けていてくれるのはなんだか嬉しい。
『それで、今どこや?迎えに行くから、まっとき』
「悪いんだけど、岩本さんも連れてきてくれないかな?」
僕は大矢さんとの会話の要点だけを、かいつまんで尊さんに話して、すぐに来てくれるように頼んだ。
席に戻ると、なんだか幸せそうに大矢さんがゆったりと座っていた。
「すぐ、来てくれるって」
僕ももう一度大矢さんの横に腰掛けて、全然口をつけていなかった、オレンジジュースを飲んだ。氷が溶けてしまって水っぽい。
ジュースを飲んでしかめっ面をした僕を見て微笑み掛けると、大矢さんはゆっくり話し出した。
「どんな結果になっても、後悔しないよ。俺、尚志に出会えて本当に幸せだった。ずっとあこがれてたんだ。小さな頃から、運動も勉強もできて明るくて優しい尚志に。俺は人付き合いがあんまり上手じゃなくて、みんなから好かれる尚志から見たら取るに足りない存在のはずなのに、それでもいつも尚志は俺の側にいてくれた。楽しいときも、悲しいときもいつも側にいてくれたんだ」
まるで、自分に言い聞かすように大矢さんはポツリポツリと岩本さんとのことを話した。 何年もかけて育んできた想いが叶うといいね。大矢さん・・・
「ここやったんか!」
尊さんは店に入るなり、走り寄ってきた。
「岩本さんは?」
「ん?すぐ来る。心配せんでええ」
意味ありげな、ウィンクを僕に送ってきた。 注文を聞きに来たウエイターにビール頼むと尊さんは僕の横に座った。
「タカまで巻き込んじゃったんだね」
当惑気味に大矢さんは僕を見た。
「実は、昨夜尊さんも一緒に聞いちゃったんだ」
「あの時タカも居たの?」
大きな瞳を見開いて尊さんと僕を交互に見た。
「すみません。盗み聞きするつもりや無かったんですけど」
困ったように頭を掻いた。
「ふ〜ん。そう」
大矢さんはそう言うと、からかうように横目でチラリと僕を見た。
「僕たちは、なんでもないんだからね!」「ムキにならなくてもいいよ。前に進めって教えてくれたのは舞ちゃんなんだから」
きょとんとしている尊さんを後目に、大矢さんはくすくすと笑った。
「人をさんざん心配させといて、お前はなににこにこしてるんだ?」
つかつかと側に来た岩本さんは僕たち二人なんかまるで眼中に無いのか、大矢さんの後ろに仁王立ちのままで唸るように言った。
誰の目にも明らかなほど大矢さんの背中に緊張が走る。
「尚志・・・俺・・お前のことが・・・好きなんだ。俺のことを友達としてしか見られないなら、何も言わずに帰ってくれ。明日の朝にはきっと、ただの幼なじみに戻れるから」
背中を向けて俯いたまま、ぎゅっと両手を握りしめた大矢さんは、小さな声で告白した。
「俺の返事。受け取れるか?」
息を詰めて見守る中、大矢さんのグラスの横にルームキーがさりげなく置かれた。
「同情ならいらない・・・」
大矢さんは恐る恐る岩本さんを振り返った。
「ばか。同情なんかでこんな事が出来るか」 まるで触れると壊れでもするかのように、そっと大矢さんの頬を撫でた。
見る見るうちに不安に蒼ざめていた大矢さんの白磁の肌が薄紅に染まり、岩本さんの胸にこつんと額を当てた。