お 猫 さ ま
「ヤダなぁ、もう」
フラスコに試験管から、なにやらピンク色の液体を真剣に注いでいた児玉が、予定時間より20分も遅れて研究室に入ってきた澪の姿を見るなり、小さく呟いた。
まもなく19歳の誕生日を迎える児玉は小柄な所為かどう見ても大学生と言うより、まだまだ高校生のようだ。
その上、なぜだか澪の姿を見た途端、林檎のように頬を染めて視線を斜に逸らしてしまった仕草は大層可愛らしい。
小柄で赤く頬を染めた姿は名前通り、こだまの林檎ちゃんのようである。
「何か言ったか?児玉」
怜悧な美貌を持つ澪は急ぎ足でロッカーから持ってきた白衣を羽織りながら、児玉の傍にやってきた。少し離れたところではほかの学生がデータをPCに打ち込んだり、使い終わった器具の洗浄をしたり、各自自分の仕事をてきぱきとこなしていた。
「先生、そんなとこに、バンドエイド貼ってたら、却って目立ちます。すっごくエッチいですよ」
ほかの学生に聞こえないように児玉はちょっとつま先立って背伸びをすると、小さな声で忠告した。
「ふん。南が付けたキスマークに俺がバンドエイドなんか貼るとおもうか?」
不機嫌そうに応えた澪は、データを打ち出した用紙に目を通しながら、首筋を左手で2.3度撫でた。
「わ!また悪さしたんですか?知りませんよ〜南里さんに見つかって、怒られても」
「なにがだ?」
「だって、それ、他の人が付けたんでしょう?キスマークってしばらく消えないじゃないですか」
「誰がキスマークだなんて言った?」
「?」
かみ合わない会話のまま、翌日も、そのまた翌日も澪の手や顔にバンドエイドが増えていき、澪自信も不機嫌さを通り越して、珍しくどんよりと落ち込んでいった。
「先生、まだ帰らないんですか?みんな帰っちゃいましたよ」
GWも半ばを過ぎた頃、研究室の奥にあるソファーにごろりと横なったまま動かない澪に児玉は声を掛けた。
「先に帰ってくれ、俺はまだここにいるから」
「先生ぇ、ホントにどうしちゃたんです?顔色悪いですよ・・・・・目の下にクマまで作っちゃって・・・・」
児玉は憧れの君である澪の様子があまりにも暗いのが気になって仕方がない。
「ああ、ちょっとな、夜、眠れないんだ・・・」
「なんかあったんですか?」
「いや・・・・・なんでもない。それより、もう良いから帰れ」
「でも・・・・」
「さっさと行けよ。ぐずぐずしてると、襲っちまうぞ」
ニヤリと笑って、ひらひらと手を振る澪だが、いつもの冗談にすら、普段の艶は全く感じられない。
「先生、ちゃんと、帰って休んでくださいね・・・・・」
普段は自信家で、尊大とも取れる態度の澪のあまりにもな消沈ぶりに、児玉はそれ以上なにもいえず。お先にとだけ声を掛けて、研究室をあとにした。
誰もいなくなった部屋の中で、澪は疲れた様子で溜息をつくと、額に落ちてる前髪を緩慢な仕草で掻き上げた。
現れた栗色の髪の生え際のあたりに、また新しい絆創膏が一枚貼られていた。
★★★
逢いたい・・・・
逢いたい・・・・
逢いたい・・・・
どこにいるの?
どこにいるの?
どこ・・・・・・・・
雅之は必死になって探していた。
広い胸を。優しい声を。暖かい腕を・・・・・・・・・・
もう時間がない。早く探さないと・・・・・・
もう一度だけ逢いたい
逢いたい
逢いたい
ント・・・・
ケント・・・・・・・・・
「ケント!!!!」
叫びながら雅之は飛び起きた。
はぁ・・はぁ・・・と大きく動悸を打つ胸に手を置いて、気持ちを落ち着けようとしていると、
「またか・・・・ケント・・・・ケント、いい加減にしてくれ」
ベッドの端から澪がうす茶色の瞳を細めて、じっとこっちを見ていた。
初めはちょっとしたことだと澪は思っていた。
一晩や二晩、気の乗らないこともあるだろうと。連休は九日間もあるのだからと軽く考えていた。だか、雅之が自分を拒むだけでなく全く見ていないことに気がついた。いつも心がここにはなくて、どこか遠くを彷徨っている。
それに・・・・・・眠りにつくと、名前を呼ぶ。
叫んで起きるときは、雅之も自覚しているが、実際はもっと頻繁に、甘えた声で名を呼ぶのだ。時には澪の胸に身体を擦りつけるようにして『ケント・・』と・・・・・・そのたびに胸がちりちりと焼け焦げた。
「・・・・・・・・・し、しらないんだ、ホントに僕」
柔らかな笑顔の青年の顔は今や、モンタージュ写真が完璧に作れるほど雅之の脳裏に焼き付いている。だか、全くその青年に雅之は覚えがないのだ。
夢の中では、焦がれるほど彼を捜している自分がいた。
この気持ちがなんなのかは分からない。
でも、彼に逢いたくて、抱きしめられたくて・・・・・どうしても夢の中で彼を捜してしまう。
いや、雅之には分かっていた。
ここから出ないから、出れないから夢の中で探すのだ。街に出ればきっと、雅之は彼を捜そうとするだろう。澪には口が裂けても言えないが、TVに映る人影の中にじっと目を凝らし彼を捜している自分に何度か気づき、雅之自身が愕然としているのだから・・・・・・・でも、本当に知らないのだ、彼が誰なのか、なぜ彼の夢を見て彼の名を呼ぶのか・・・・
なぜ、こんなにも彼が恋しいのか・・・・・・・・
「しらなくないだろう。お前毎晩、そいつの名前ばっかり、呼んでるじゃないか・・・」
淡々とした口調でそれだけ言うと、澪はくるりと背中を雅之に向けた。
何度問いつめても雅之は『ケント』など知らないと言い張る。その言葉を信じようともした。雅之がそう言うのなら、自分を愛していると言ってくれるのなら、疑ってはいけないと・・・・・・しかし、ものには限度というものがある。「いい加減にしてくれ・・・・」
いくら、一生懸命掬っても零れてなくなって行ってしまう手のひらの水のように、わけもわからないまま、雅之の心が自分の手のひらからこぼれ落ちていく。
100年の恋も冷めるときは一瞬だ。想いは誰にも止めることは出来ない。
寄せる想いも、離れる心も・・・・・・そんなことは言われなくとも分かっている、それでも澪は足掻いていた。
失いたくない・・・・・・南だけは・・・・絶対に誰にも渡さない。
失いたくない・・・・・澪に嫌われたくはない。澪がいなければ生きていられない・・・・
雅之もまた、心の中で呪文のように繰り返す。
だが、この数日、澪になんど求められても応えることが出来ないばかりか、ほかの男の名前を呼んで目が覚める。そんなことを繰り返してきた。
いつものように、他愛ない話をして、笑いあって、暖かい胸に包まれたい。そう思うのに雅之の心も体も、澪が傍に来ると、澪を拒否してしまうのだ。そんな自分を雅之はどうして良いのかわからなかった。
なにより、澪を深く傷つけていることがどうしようもないほど辛かった。
どうして、こんなことになったんだろう・・・・澪以外の誰かを恋しいと思うなんて。それも見知らぬ青年をだ。
雅之は込み上げてる熱いモノを止めることが出来ないでいた。
また、澪の方も、おなじベッドで違う男の名前を求めるように何度も呼ぶ雅之にすっかり落ち込んでいた。
もともと、棚ぼた的に手に入れた恋人なのだ。
欲しくて欲しくて堪らなかったあの頃。
雅之はまだなにも知らくて、信じられないほど初だった。
半ば強引に関係を持ってしまった澪の恋人に雅之がなったのは、自分に惚れているからではなく、身体を委ねたのだからと言った、古風な雅之の貞操観念に起因するところが大きいのではないかと、この10年間思い続けていただけに、澪の落ち込みはますます増すばかりだ。南にとって、もしかしたらこれが初恋なのかもしれない・・・・・
ケント・・・・・・・・だいたい、そいつは誰なんだ?
名前からしてガイジンか?
お前・・・ガイジンが好きだったのか?
違う・・ガイジンだろうが日本人だろうが、そんなことはどーでも良いんだ!!
「渡さないから・・・・・」
雅之に背を向けたまま、澪は言った。
「お前がいくらその男が好きだって言おうが、毎晩そいつの名前を叫ぼうが、俺はお前を渡さないからな」
「違う・・・違うよ。澪・・・・・僕、ホントに知らないんだ!ねぇ、澪、僕を・・・」
信じてと言いかけて雅之は口をつぐんだ。
この4日間の自分の行動の何を持って信じてなどと言えるだろう。優しく抱き寄せてくれる澪を拒絶し、あまつさえ何度も傷まで付けて、夜な夜なほかの男の名前を夢で呼ぶのだ。
裏切っているのかと疑われても仕方ない状況を作ってしまってるのは誰でもない、自分自身なのだから・・・・・・
「う・・・ぅ・・・」
雅之は嗚咽を堪えるためにキュッと膝の上にある布団を握りしめた。その拳の上になま暖かい涙がポタリ・ポタリと雫になって落ちる。
横に澪がいるのに、こうやって一人で泣くなんてことは初めてだった。いつだって、優しい腕が抱きしめてくれた。広い胸が涙を受け止めてくれたのに。今はすぐ傍にいるのに雅之には澪がとても遠く感じられた。
「お前は、恋をしたことがないから分からないんだろう・・・・・・
惚れちまったら、お前みたいに一途なタイプは、ほかの奴に触れられるのなんか我慢できなくなるんだよ。
たとえそれが何百回身体を重ねてきた相手でもな」広い背中の向こうから、乾いた笑いが聞こえてくる。
「俺に触られたら、虫ずが走るほどいやなんだろ?だけど、そいつにお前をやる気なんか俺にはないからな・・・・・
10年間楽しかったよなんて、綺麗に身を引いてなんてやらない。
俺に触られるのが嫌なら、触らないで置いてやる。
だけど、ほかの誰にもお前を触れさせたりなんかしない!」むくっと起きあがって振り向いた澪はいつも付けているサファイアのピアスよりも冷たく光る氷のような美貌で宣言した。
「閉じこめてやる。ここから一生出さない。お前は俺のものだ。誰にもやらない!」
次回を待て♪