目の前に、アイツが居た。
とっくに4月に入ったというのにまだ肌寒く、桜の花もろくに咲きそろわない、春の遅い山の裾野に建つ県立高校の入学式に、アイツは居たんだ。
さらりと流れる艶やかな黒髪、切れ長の大きな黒い瞳、小柄ながら均整の取れた凛とした姿で、俺のすぐ目の前にアイツは立って居た。
息が止まりそうなほど驚いた俺は、校長や来賓の長ったらしい挨拶なんか全然聞けずに、すっかり魅入られたようにアイツの浮き世離れした美しい姿だけを、茫然と見詰め続けていた。
そう、まるであの時から時が止まってしまったかのように・・・。
あの日、都心から二時間近くも電車に乗り継いで、俺たち家族はこの町に出来た新しい分譲住宅を見に来ていた。
長年便利な都心に住んでいた俺達家族だが、元々あまり体の丈夫でなかった小学校5年生の妹の喘息が、年を増すごとに年々酷くなってきていたので、思いきって首都高に隣接するマンションを売りに出す事にしたからだ。
このニュータウンの最寄りの駅には大きな総合病院もあり、山や川の美しい自然に恵まれた立地に、両親はかなりその気になっていた。
俺は、都会生まれの都会育ちで端からこんな辺鄙なところは気に入らないが、妹の苦しむ姿を見てるだけに、あまり我が儘も言えない。
色々な間取りや内装を熱心に話し込んでいる両親たちを置いてモデルハウスを出てきた俺は、世田谷のばあちやんのところに置いてもらえないかなぁ。なんて考えながら、のんびりと一人土手の方に歩いてみた。
都会は9月の半ばでも異様なほど蒸し暑いビル風が吹くのに、ここにはもうそこまで秋が来ていて、土手の周りには真っ赤な彼岸花が今を盛りと咲き乱れていた。
「綺麗な水だな」
街中のドブ川しか知らない俺は、きらきらと輝きながら流れる、飲めそうなほど澄んだ水に手を入れた。
「つめてぇ〜」
「冷たかろう?」
思わぬ水の冷たさに目を丸くしている俺の頭上から唐突に声がした。
照りつける日差しに目を細めながら見上げると、農家のおじさんにしてはやけに威厳のある矍鑠とした老人が俺を見下ろしていた。
その老人は俺に、この川の源泉が目の前の山にあって、そこから水が流れて来ているのだと教えてくれた。
「源泉って、水が湧き出てるんですか?」
「そうじゃ。小さな泉になっておるがの」
「歩いて行けるんですか?」
「はっはっは。この爺が行ける処じゃ。おまえさんの足なら40分ほどじゃろうて」
「そうなんですか・・・」
いまだかって、水の湧く処など見たこともない俺は、老人にぺこりと頭をさげ、モデルハウスに引き返した。
両親に少し用を思い出したので先に帰ると嘘をつき、川沿いを山に向かって歩き出した。
ところが鼻歌混じりに歩き出したものの、山道なんか歩いたことのない俺は、直に自分の考えの甘さを思い知らされることになったんだ。
「くそ〜。爺さん嘘つきやがったな!」
すでに軽〜く一時間は歩いているし、山道は奥に行くほど険しくなってきていた。
崖のような急な斜面を登り切り、肩で息をしながら四つん這いになってた俺が、額から吹き出る汗を手の甲で拭って顔を上げると、開けた視界の先に大きな集落が目に入った。
「あれ〜?こんな山ん中にも人って住んでるんだなぁ」
村を眺めながら進んでいくと、今度は朱塗りの鳥居のある立派な神社があった。
既に小さなせせらぎになっている川はどうやら神社の奥から流れて来ているらしい。
神社のそばまで行くと川の流れてくる方に看板が立ててある。
「なに〜!『私有地にて立入禁止』だって?ここまで来て帰れるもんか!」
俺は立て看板の回りをキョロキョロと見回して人影の無いのを確かめると、小走りに神社の奥へと入っていった。
ほどなく、木立の向こうにキラキラと光る泉が見えてきた。
「あ、あれだ!」
美しい鏡のように澄んだ泉に吸い寄せられるように近ずくにつれて、水面に張り出した岩の上に人影があることに気がついた。
あわてて、すぐそばの木の陰に身を隠した俺がそっと窺ってみたその人影は、タイム・スリップでもしてしまったのかと錯覚するような、白絣の着物を着た少年だった。
『綺麗だ・・・』
未だかって野郎相手に、綺麗だなんておもったことなんか一度もない俺でさえ、サラサラと風にそよぐ髪をさりげなく掻き上げながら、すこしはだけた着物の裾からのぞく白い足先を水晶のような水に浸している少年はまるで泉の精霊のように美しいと思った。
木々の梢に渡る風や、初秋の色を映す泉にあまりにも溶け込んでいる少年は俺が一言でも口を開くと、フッと消えてしまいそうな気がした。
どのくらい少年を見つめて居ただろう。なにやら神社の方から人の話し声が聞こえてきた。
『やばい!』
そう思った瞬間、少年と目が合った気がして、俺は逃げるように山を下りていった。
都会に帰ってからも、俺の頭からアイツの影が消えることはなく、引っ越しに乗り気でなかった俺が、あの町になら行ってもいいと思うようになっていた。
再びアイツに逢うために。
式典が終わると銘々が張り出された自分の教室に入ることになっていた。
『俺は1のAか・・』
一人ぼんやりとアイツのことを考えながら、こんなに離れた高校に中学の知り合いが居るはずもなく、名前の書かれた場所にどっかりと腰を降ろした。
教室の中を見回すと既に数人ずつのグループが出来ている。
いかにも都会出身だと言わんばかりの洒落た奴らと、まだ高一になったばかりだと言うのに、やけに屈強な奴らがおのおの部屋の端で集まっていた。
これといってすることもなく、窓から見える泉のある山の方を眺めていた俺の後ろで、ざわざわしていた教室が、唐突に水を打ったように静かになったのに気づいて振り返ったとき、後ろの戸口から赤バッチの三年生二人を引き連れて、アイツが入って来たんだ。
「俺の席はここだな」
アイツは軽い身のこなしで、空いていた隣の席まで来ると、俺の名札についっと目をやり、
「志賀くん?俺は郷守慎(さともりしん)。よろしく」
明るい笑顔を俺にむけて、右手をさし出した。
「こ、こちらこそ」
一瞬、固まりかけたもののアイツの好意を無にしたくなくて、しっかりと手を握った。
長い間、一人で想いつづけたせいか、にぎり返してくるアイツの力が思いのほか強かったせいか、何となくムードが違う。
そのうえ席に座るなり、キッと顔を上にあげて睨み付けた。
「まったく、いつまで一年のクラスにいんだよ!さっさと自分らのとこへ帰れよな!」
一緒にいた三年生にぶっきらぼうに言ったとおもうとバンッと鞄で机をたたいた。
何なんだ〜こいつ!
あまりにも姿形と違う横柄な態度と話しっぷりに、俺の思い描いていた理想が音をたてて崩れていく。
ところが、三年生は全然気にする様子もなく顔を見合わせて笑っている。
「それじゃ慎、帰りに迎えに来るから」
赤羽と名札に書いてある三年がアイツの髪をクシャと撫でて言う。
「いいよ!小学生じゃあるまいし、一人で帰るから!」
その手を払いのけてきつい口調で言うアイツに同じクラスの屈強グループがからかうように口を出す。
「慎さん〜。赤羽先輩たちにあんまりさからわんでくださいよ。後で俺たちがとばっちりうけるんすから」
クラスの中でクスクス笑う奴らが何人かいた。
「〜たく。しょうがねな。今日だけだぞ!」
面倒くさそうに机に頬杖をついたアイツが応えると、満足そうに二人は出ていった。
数日が過ぎる頃にはぼつぼつと友人も出来始めた俺は、色んな話をみんなから聞くことになった。
郷守慎があの山あいの村では神社の息子として敬われていること。 あの村は大昔からある落ち武者たちの村で代々武道に優れていること。
時たま、垢抜けてないと村出身の生徒の陰口をたたく都会育ちの奴らさえもアイツの美しさにはぐうの音もでない事、などなど。
アイツの行動はあの顔と反比例するように、ただの明るい元気な小僧と言った感じでみんなを振り回す。
本人に悪気はないし、俺達も恒に目の保養をさせて貰ってるのだから文句は言えないが・・・。
今日の昼休みも教室で弁当を食っている俺のウインナーを何の断りもなく指で一つ摘んで口に放り込むと、
「勇貴!昼飯喰ったらバスケしようぜ!」
と言いながら、今度は自分の唐揚げを俺の口に押し込んだ。
アイツは俺が気に入ったらしく、いつの間にか俺のことを『勇貴』と呼ぶようになっていた。
「お前!トレードはちゃんと訊いてからにしろっていつもいってるだろ!」
「いいじゃん!勇貴、唐揚げ好きだろ?」
悪びれもせずにけろりと云ってみせる。
「慎〜!お前んち鏡ないのかよ」
見た目とのギャップに懲りもせず落ち込む俺のことより、【慎】と呼び捨てにされることがうれしいらしく、アイツはニッ!と笑った。 一ヶ月が経つ頃には、長い間暖めていたあこがれは跡形もなく消え去ってしまったが、慎は俺にとって、今までにないほどの大事な友人に成りつつあった。
慎はこれまた見た目と違い、スポーツはなんでもこいで、村のヤツに訊くと神社にある道場でも最近は赤羽さんたちさえかなわないらしい。
「お前って、武道も強いんだってな?」
放課後、教室に残ってふたりで話しているときになにげなく訊いた俺に、慎はにこやかな微笑を引っ込め少し躊躇した後、真剣な表情で俺を見た。
「俺、守ってやりたい奴が居るんだ」
やけにマジな顔で答えた慎が突然男らしく見える。
「へえ・・・なんか以外だな・・」
「何だよ!」
思いもしなかった慎の返事にとまどった俺に、ちょっとムキになった慎が詰め寄った。
「いや、お前みたいに綺麗なヤツにそんな事言わせる人がいるなんてな」
本当に不思議な気がして、頭一つ下にある慎の顔をまじまじと見詰めた。
「ア、アイツは俺なんかの何倍も綺麗なんだ・・」
そう言うと、整った顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「バ、バ〜カ!そんなに照れたら俺まではずかしくなっちまうだろ!」
俺は照れている慎の頭を軽くペシンと叩いた。
「ねえ勇ちゃん、もうすぐ診察なんだけど薬待ってるとスーパー閉ちゃうのよ。お願い、悪いんだけど環のこと見に来てやってくれないかしら?」
リビングのテレビでこの間から何度もやっている誘拐事件の犯人が、ようやく自白したとか言うニュースを見ていた俺に、受話器の向こうから母さんが頼む。
「しかたねぇな」
時計を見ると、既に6時半をすぎている。 ここではスーパーも7時頃には閉まってしまうのだ。
急いで自転車に跨ると、駅前の総合病院に向かった。
病院に着くと環がちょうど診察室から出てきたところで、お袋はカルテをここで貰ってから薬局にまわるように言い置くと、あわてて行ってしまった。
お袋が行ってしまうと環は俺の服を引っ張って椅子に座らせた。
「ねえ!ねえ!環の後に見て貰ってる人、すっごく綺麗な男の人なんだよ」
俺の脳裏に慎の姿がパッと浮かぶ。
「綺麗って、俺ぐらいの年か?」
「う〜ん。そうかも知れないけど、お兄ちゃんより少し下かもしれない」
「ふ〜ん」
「サラサラの髪でね、とっても綺麗な人。環、あんな人みたの初めて・・・」
お気に入りの少女漫画を片手に環はうっとりと話す。
やっぱり慎の事みたいだな・・・アイツどこも悪そうには見えなかったけど・・・・・
「志賀さん?」
看護婦さんに呼ばれてカルテをもらうために、開いた診察室のドアの前まで来た俺の目に慎の白い背中が飛び込んで来て、俺の心臓がドクンと跳ね上がった。
ハッとして視線を逸らすと、その先に赤羽先輩といつもいる青柳先輩がカーテンの側に立って居た。
「おお、志賀じゃないか」
俺に気づいた青柳先輩はにこやかに片手をあげてこっちに歩いて来た。
「し、失礼します!いくぞ、環!」
突然声をかけられて舞い上がってしまった俺は、急いでカルテを貰うと妹の手を取り、再び声を掛けようとする青柳先輩からあたふたと逃げ出してしまった。
「いたいよ!お兄ちゃんてば!」
脇目を振らずに廊下をズンズン進む俺に、少し怒った環が文句を言った。
「あ、ごめん!」
俺はいったい、なにあわててんだ?
パッと手を離し、痛そうに手首をさすっている環と今度は並んで薬局の方へ歩いた。
薬の出来上がるのを椅子に座って待ってる間中、環は興味津々でアレコレ訊いてくる。
「ねえ、あの人たちお兄ちゃんの知り合いなの?」
「ああ。高校、一緒なんだ」
「へえ!あんな綺麗な人いたら、女の子たち霞んじゃうよね」
そういえば影が薄いな女子は・・・
「環、今までお兄ちゃんが一番カッコイイって思ってたけど、なんか・・雲の上の人みたいだね・・」
見た目とのギャップが結構大きいんだよなこれが。
苦笑がもれる。
「あの一緒にいた人はあの綺麗な人のお兄さんなの?」
「青柳先輩?いいや違う」
「ん?じゃ何で?ここ病院だよ?」
それもそうだな・・あんまり友人とは来ないよな・・・・
「ん〜!あの人は、なんて言うか・・アイツの、まあS・Pみたいなもんだからな」
「S・P?あの人そんなに凄い人なの?」
「まあな、昔からの風習かなんかよく分かんないけど、アイツは特別なんだとさ」
「ハ〜。ますます違う世界の人みたいだね」
夢見る乙女の環は溜息を一つついた。
まあ無理もないよな、環みたいに少女マンガや少女小説マニアのロマンチストどころか、現実主義の俺でさえ半年間もポーっとなってたんだから・・・・・
「あ!あの人帰るよ」
環の視線を辿っていくと出口にむかう慎と青柳先輩が見えた。
でも、俺の視線を釘ずけにしたのはふたりを迎えにきたもう一人の人物だった。
いつも慎を取り巻いてる村の奴らと同じくらい逞しい体つきだが、やけに垢抜けていて颯爽としている。
慎が俺に見せたこともない、とろけるような笑顔を向けると、ソイツは愛しげに慎の肩に腕を廻して抱き寄せた。
出ていく二人から(実際は三人なんだが・・)目が離せない俺は、初めて経験する胸の締め付けられるような痛みがなんなのか解らずに座り続けていた。