龍神の泉 七

 

病院に着くと黙ったまま俺達を置いて黒鬼は帰っていった。  

環の様子が一段落すると、父さんと母さんは待合室に出てきて何度も慎と蓮に礼を言った。

高橋先生も環の入院の手続きが済むと俺達の所に来て少し青ざめた顔色の蓮を診察室に連れていってしまった。

 

「ごめん。慎」  

二人きりになった俺は改めて慎に頭を下げた。

「頭上げろよ。蓮が望んでしたことなんだから、これで良かったんだ」  

そう言いながらも慎は物思いに耽るように人差し指をかみしめている。  

本当にそうなんだろうか・・確かに蓮のおかげで環は危ないところを助かったんだけど・・・

これから先も何か困ったことがある度に蓮は自分の命を削っていくしかないって事なのか・・・

「一か八かやってみるんだな」  

俺の心を見透かしたように慎が言った。

「なにを?」

「俺は、帰るから今夜、蓮を頼む」

「慎!無理だよ。慎も言ったじゃないか蓮はそう言うことを考えないって!」  

慎の言おうとすることがその事を指すのだと解った俺はひどく狼狽えてしまった。  

俺自身キスから先のことを考えない訳じゃない。

今日だって、ただ単に部屋に誘ってくれた蓮を強く意識してしまったのもそのせいなのだから。

でも、無理強いだけはしたくないんだ。やっとこの腕の中に蓮を捕まえることが出来たんだから。

「伊達や酔狂でこんな事を言ってるわけじゃない」  

俺から視線を逸らしたまま慎は続ける。

「でも、今日みたいな事が或度に俺は・・・お前にとって環ちゃんがかけがえのない存在だって事はよく分かって居るつもりだ。それにこの間の誘拐事件の子供もその子の親にとっては何者にも変えられないだろう。

だけど、俺には何にも関係ない。どんなに自分勝手だとか、傲慢だと言われても俺にとって蓮以上に大切なものなんてないんだ。ほかの人たちを助けるために何故蓮だけが命を縮めなきゃならないんだ?」

「慎・・お前・・・?」  

震える手で慎は俺の腕を掴む。

「勇貴!俺、俺。自分でも変だって解ってるよ。でもずっと本気だった。早く強くなって俺が一人で蓮を守れるようになったら二人でここから出ていこうと思ってた。  

此処にいたら蓮の力を借りようとする奴が後を絶たないから、俺達のことを誰も知らないところへ蓮を連れて逃げようって思ってたんだ。

それにもし、俺が抱くことによって蓮の力が消えるのならそれすら厭わないつもりだった。  

去年の夏が来るまではその事に何の疑いも持たなかったんだ。でも、蓮は誰かを待ち始めた。俺の知らない誰かに日に日に想いを募らせていく蓮を見ているうちに俺じゃだめなんだと気が付いたんだ。

悔しいし、正直な気持ちを言うと俺はお前に激しい嫉妬を感じてる。だけどその反面お前で良かったと思っている俺もいるんだ」  

一気に話し終わると慎は全身の力を抜くように大きく息を吐いた。

「慎?」

「今までずっと、こんなこと誰にも言えなかったんだ。おかげで何かすっきりしたな。お前、俺のこと嫌いになった?」

「馬鹿だな、嫌いになるわけないだろ」  

慎がこんなにも蓮のことを愛しているなんて、そう思うと胸に熱いものがこみ上げてくる。

力一杯慎を抱きしめて心の中で呟いた。

『慎。ごめんな。俺、蓮のこと大切にするから』  

 

 

「このやろう!」  

切ない思いに浸っていた俺は突然罵声を浴びせられたかと思うと、襟首を後ろから引っ張られた。

びっくりして後ろを振り向くと見たこともない男が立っていた。

「事故ったって聞いてたけど、こんな所に居たのかよ」  

俺の横からやけにつっけんどうに慎が言った。

「それはねぇだろ。俺は毎日お前がいつ来てくれるのかと首を長くして待ってるのによ」 

松葉杖を器用につきながら慎の隣にどっかりと腰を下ろした。

「あんたの見舞いになんか来るわけ無いだろ!」  

慎はかなり機嫌が悪そうだ。

「お姫さんが慎も来てるって教えてくれたからあわててきてみたら、こんな野郎といちゃつきやがってよ」  

吐き捨てるように言うと、鋭い眼光で俺を睨み付けた。

「勇貴に、手出したら承知しないからな!」

「本気で惚れてるんじゃないだろうな」  

二人の間に火花が散る。

「俺が誰に惚れようが、あんたに関係ないだろ」  

捨てぜりふを吐くと、おもむろに立ち上がって俺の前迄きた慎は蓮の様子を見に行くと言って廊下の向こうへ行ってしまった。

「お前、慎の何?」  

男が憮然とした態度で俺に訊く。

「何って・・・友達かな」

「ふ〜ん。惚れてるのか?」

「何故です?」

「俺が惚れてるからだ」  

僅かに顔を赤らめて怒ったように言う様がガキ大将のようでなんだか憎めない。

クスリと苦笑を漏らし首を横に振る。

「俺と慎はただの友達ですよ」

「そうか」  

ホッとしたのか大きく伸びをすると、胸ポケットからタバコを取り出して火をつけた。

「自分でも、やっかいな奴に惚れちまったと思ってるんだけどな。まあ、こればっかりはしょうがねえや」  

紫煙を吐きながらしみじみという。  

確かにこの人の言うとおりだよな、相手を決めてから好きになるんじゃないから、気が付いたときにはもう取り除くことが出来ないほど恋する人への思いが胸一杯に広がっている。

「そうですね。惚れちまったものはしょうがない・・・」  

たとえそれが男であろうと、不思議な力を持っていたとしても。

「お前、名前は?」

「志賀勇貴です。あなたは?」

「俺はタカシ」  

タカシって確か・・・

「麻生崇ってんだ。駅前で喫茶店やってるから今度来いよ」

「え?そんなに若いのにお店持ってるんだ?」

「お袋と二人でやってんだけどよ、俺が真面目に働きだしたら、店の奥でパッチワーク教室なんか初めやがってよ。いつの間にか俺にまかせっきり。

店のことも気になるから早くこんな所出たいんだけどな」

「いつ頃でれるんです?」

「後、2週間ぐらいかなぁ」  

もう一度深く吸ってから灰皿にたばこを押しつけた。

「じゃあその頃慎を連れて行きますよ。お店の名前はなんて言うんです」

「お袋が少女趣味でよ・・・『妖精の森』なんて名前付けやがって・・」  

照れ笑いを浮かべながら俺に顔を向けると確かめるように訊いた。

「本当にあいつ連れて来てくれるのか?」

「俺は嘘なんか付かないけど、この間、慎の奴駅前で崇さんの知り合いの人たちに絡まれたからな」

「なんだって?」

「俺はちょっと離れてたから、そいつらが慎に何を言ったかよくは解らないけど前にも何かあったんでしょう?」  

突っ張って居るものの、とても慎の言ったようなことをする人には見えない。まだあったばかりのこの人に俺は好感すら抱いているのだから。

「一年半ぐらい前になるかな、その頃連んででた仲間の一人が慎達と同じ中学でよ。そりゃもう毎日毎日あいつらの話を聞かされてた。 

そいつは蓮にぞっこんで、もう何も手に付かないって感じだった。

俺もあの双子の噂は聞いてたしチラッと顔も見たことあったけど、所詮顔の綺麗な小僧にすぎねぇじゃねえかって思ってた。女に不自由してねえのに何を好きこのんで野郎に惚れるんだろうってな。  

ところがある日、いつもしっかり護衛が付いてるはずなのに、あいつが一人で歩いてたんだ。蓮にトチ狂ってた奴がこんなチャンスは二度と無いから後を付けようって言い出したんだ。そのとき一緒にいた俺達もまるでゲームの乗りで後を付けた。  

人気のない所まで来るとあいつがおもむろに振り返って、『お前ら、俺にいったい何のようだ』っていいやがった。いいわけに聞こえるかもしれねぇけどちょっとしたおふざけのつもりだったんだ。俺達はお人形さんが怖がって泣き出したら、ちゃんと家まで送っててやろうと思ってたんだ。

ところが元々喧嘩ぱやい奴ばっかり集まってるところで、あの綺麗な顔で恐がりもせずに何のようだと言われたら引っ込みが付かなくなっちまった」

「大人しいはずの蓮を狙ってたんじゃなかったのか?」

「あのころの俺にはアイツらの見分けなんかつきゃしなかったさ。今よりもっとそっくりだっんだからな。

もっとも、今ならどんなに似てても簡単に見分けが付くけどな。その頃は二人ともただの双子のお人形さんだと思ってたんだ。綺麗で大人しくて、みんなに大切にされてるお人形さんだってな。  

ところがアイツと来たら、まるで手追いの獣みたいだった。

絶対に敵いっこないのに目ばっかりぎらぎらさして、ぼろぼろになりながらも壮絶なくらい綺麗だった。  

あの日以来絶対にあの双子に手は出すなってアイツらにも言ってあるんだがな」  

すぅ〜と切れ長の目を細めて崇さんは遠くを見つめる。きっとその時の慎の姿を思い出して居るんだろうな。  

俺の目にも浮かぶ、崇さん達のしたことを許せる訳じゃないけど、野生の獣のように気高く、猛々しいほどに美しかっただろう慎の姿が。蓮を想う気持ちとは違うけれど慎の友人であることがとっても誇らしい。

「そう、それならいいんだ。きっと慎を連れていきますよ」  

俺が蓮にしか惹かれないのと同じように、この人もきっと慎にしか惹かれないんだな。

たとえどんなに見た目が似ていても。  

俺に笑いかける崇さんに、ずっと前からの知り合いのような親近感を覚えた。

 

「志賀さん!」  

向こうの方から軽やかに手を振りながら蓮が慎と並んでこっちにやってきた。

「蓮もう帰れるのか?」  

走り寄ってしっかりと背中に手を回した。

「ご免なさい心配かけて。高橋先生がどうしても点滴を一本してから帰りなさいって言うもんだから」  

めくり上げた左腕に血止めのシールが貼られている。痛々しそうなその腕を優しくさすりながら、少し赤みの戻った顔を覗き込んだ。

「さむくないか?」

「大丈夫」

「なんだ、勇貴はお姫さんの恋人か。心配して損したぜ」  

俺達を眺めていた崇さんが口を挟む。

「一体、何を心配してたんです?」  

毛を逆立てた猫のようにピリピリしている慎とは対照的に、かなりうち解けた様子の蓮が微笑み掛けながら訊いた。

「俺の恋敵が現れたのかと思ってな」

「俺のことをそんな風に言うなっていつも言ってるだろう!気持ち悪いな!」  

かみつく慎に、ひょいっと肩を竦めてみせた崇さんはにやりと笑って言った。

「まあ、そう照れるなって」

「な!・・・」  

慎の頭の先から湯気が出そうだ。  

俺と蓮は、怒って茹で蛸のようになっている慎がおかしくて顔を見合わせて笑った。

「お前らまで!覚えてろよ!あ〜もう、晩飯食いっぱぐれて腹減った!俺は帰るからな」  

待合いの椅子をボンと蹴ると夜間用の出入り口の方へ歩いていこうとする。

「あ、待って慎!」  

俺達を気にしながらも慎に付いていこうとする蓮に背中を向けたまま慎は言った。

「俺は一人で帰る」

「慎?ごめん、笑ったから怒ってるの?」  

戸惑った様子で蓮が尋ねる。

「今夜は冷える。俺はバイクだから今日は勇貴ん家に泊めてもらえ」

「僕の身体ならもう大丈夫だよ。それに志賀さんにだって迷惑かけるし」  

そうだよねと俺の方に無邪気に笑いかける蓮に、俺はどう返事をしていいのか解らずに視線を逸らした。背中を向けたままの慎の気持ちが痛いほど分かるから・・・

「慎、一緒に家に帰ろう?」  

蓮が慎の背中に触れた途端、蓮ははじき飛ばされた。

「蓮のこと頼んだぞ」  

咄嗟に蓮を抱き留めた俺にポツリと言うと足早に行ってしまった。

「アイツも変わったな」

崇さんが松葉杖をつきながら俺達の方へ歩いてきた。

「アイツが自分からお姫さんの手を離す日が来るなんてな」

「崇さん?」

「俺は知ってたよ、アイツの心にいるのがだれなのかぐらい。その事で長い間苦しんでたことも。こればっかりはどうしようもねぇ。善いも悪いも惚れちまったもんはな」  

じゃ!またなと手を挙げてエレベーターホールに消えていった。  

初めて慎に拒絶された蓮はよっぽどショックなのだろう。崇さんの行ってしまったことにも気が付かない様子で慎の出ていった方向を茫然と見つめている。

「蓮。帰ろうか?」  

蓮は俺の掛けた声にゆっくりと振り向いた。

「僕。自分の家に帰る」  

ぼんやりとしたままの蓮は、抱えていた俺の胸に手を突いて身体を引き離そうと身を藻掻いた。

「何言ってるんだ?こんな夜中にどうやって帰るんだよ!」  

離さまいと、蓮を抱く腕に力を込めた。

「歩いて帰る。帰って謝るんだ」  

まるで見捨てられた子犬のような悲しげな瞳を俺に向けた。

「謝るって、誰に?」

「慎に・・・謝る」

「なにを?」

「たぶん・・・志賀さんとのこと・・・さっき触れたとき慎は僕の・・・僕のこと・・」 

細かく蓮の身体が震えだした途端大粒の涙がぽろぽろと零れだした。

「蓮?」  

さっき慎に触れたときに何かを感じたんだろうか?

「僕のこと・・・憎んでた」  

消えてしまうほど小さな声で呟くとそのまま顔を覆ってしまった。  

震える、か細い肩をやるせない思いで撫でてやりながら蓮の髪に強く頬を押しつけた。  

俺の知らない蓮。

どれほどの長い時間を慎と供に過ごしたことだろう。

それも普通の兄弟とは遙かに違う。幼い頃からその不思議な力と類い希な美しさのために多くの人から好奇の目で見られ、二人で寄り添うことでそのつらさを乗り越えてきたのだろう。

慎にとって蓮がかけがえのない存在であると同時に蓮にとっても慎は何者にも変えられない存在なのだから。

「蓮。今、慎の所に帰るって言うのは、俺より慎を選んだって言うことになるんだよ。それでも蓮が帰るなら俺がちゃんと送っていってあげるから」  

むごい選択をさせているのを承知で蓮に優しく話しかけた。もちろんそれは俺にとっても大きな賭なのだけれど。

「どちらか一人を選べと言うの?」  

涙で潤んだ瞳が大きく揺らめいた。

「慎と蓮は別々の人間なんだ。決して同じじゃない。俺が蓮だけを求めるように、慎にもこれから先、慎だけを愛してくれる誰かが現れるんだ。

蓮が俺のことを好きだと思ってくれてるなら、蓮と慎が兄弟であることに変わりは無いけど今までみたいに同じ道を歩いては行けないんだ」

「僕は・・・」

「もし蓮が慎とは一心同体だと本気で思っているんなら・・・俺が慎にキスしても平気なんだな」

「志賀さん!」  

それでもかまわないと言われるんじゃないかと冷や冷やしていた俺に、蓮は怒ったような顔をした。

「な?やっぱり嫌だろう?慎は蓮のことを憎んでなんかいないよ。ほんの少し俺に嫉妬してるんだって言ってたから」

「嫉妬してる?」

「そうか・・・たとえば蓮は真琴のことを嫌いじゃない、いや、むしろ好きなのに俺が真琴と一緒にいるのを見ると嫌な気持ちになると言ってただろう。さっきの慎がそうだったんだ」  

ほんの少しの嘘を混ぜて俺は蓮を安心させようとした。蓮を失わないために。

「慎は僕のことを嫌ってない?本当に?」  

涙に煙っていた瞳が急に光を取り戻す。

「ああ、そうだよ。ただこれからは少しずつ別々の道を歩くんだ」  

そうだよ蓮これからは俺と一緒に歩いていこう。いつまでもずっと・・・    

 

 

「ほら、早く食べないと冷めちゃうから。早く出ておいで」  

さきにシャワーを使えといくら言っても後でいいと言い張った蓮が浴室を使っている間に、スパゲッティを作った俺はなかなか出てこない蓮に声を掛けた。

「わあ!おいしそう!志賀さんお料理作れるんだ?」  

ぶかぶかのパジャマの袖と裾を折り返して、まだ滴の残る髪をタオルで拭きながらキッチンに入ってきた蓮を見た途端、俺は全身に鳥肌が立った。

残酷な蓮はそんな俺の気持ちも知らず、石鹸の香りを漂わせながら俺の側をすり抜けるとさっさとダイニングテーブルについた。

「なにしてるの?」  

突っ立ったままの俺を不審そうに見上げている。

「嫌、何でもない」  

パジャマ姿の蓮に欲情したなんて口が裂けても言えやしない。  

平静さを装ってあわてて椅子に座った。

「もうこんな時間なんだね。なんだかとっても長かったよね?今日は」  

そう言われて時計に目をやると十二時二十分になっていた。確かに今日、ああ、もう昨日になるんだな。一日でいろんな事があったっけ。泉のところで蓮にキスしたのが何日も前のことみたいだ。

「今日は本当に有り難う。環が助かったのは蓮のおかげだよ」   

微笑んで首を振ると『いただきますと』小さな声で言いながら、両手をきちんと合わした蓮はスパゲティを食べ始めた。

蓮が何かを食べるところを見たのは考えてみると今が初めてだったような気がする。

蓮の紅い唇が嫌になるほど官能的に動く。

俺はフォークを持ったまま、食べるのも忘れて目の前の紅い唇だけを見詰めていた。

「志賀さん!」

「え?」

「やだなぁ冷めちゃうって言ってたの志賀さんなのに。全然食べて無いじゃない」  

蓮にくすくす笑われて、ボーとしていた俺は火を噴きそうなほど真っ赤になって、一気にスパゲッティを口の中に掻き込んだ。  

 

こんな真夜中にパジャマ姿で二人きりという状況にも関わらず、さっきからどきまぎしているのはやっぱり俺一人らしい。

蓮は洗い物をしながら確か何かのドラマの主題歌を口ずさんでいる。 俺も確かに知っている曲なのにいったい何だったのか思い出せもしない。  

全く何の予備知識もなさそうな無防備な蓮を相手に何をどうしろと慎は言ったんだ?俺自身これと言った経験が或訳じゃないって言うのに・・・  

確かにそんな気持ちがないのかと聞かれれば無いって言うのは嘘になるだろう。今だって抱きしめたくてうずうずしてるんだから。 

でも・・それから先は・・・・・・

「終わりましたよ」  

振り返った蓮がにこやかに俺の側迄やって来た。

「ああ。もう寝ないとな」  

決心の付かないまま立ち上がって蓮の手を取った。

「僕はあそこで結構ですから。毛布かなにか貸して貰えませんか?」  

俺の握った手からするりと手を離した蓮がソファの方に行きかける。

「だめだよ!そんな所じゃ」

「でも・・」  

戸惑っている蓮の手首を今度はきつく握りしめて、黙ったまま二階の俺の部屋に連れていった。  

 

 

「俺が恐いか?蓮」  

自分でもどうしていいのか解らない俺は部屋に入るなり蓮ごとベッドに倒れ込んだ。  

俺にのし掛かられて身動きのとれない蓮は怯えているのかじっとしたまま身体を堅くしている。

「俺が何をしようとしてるか解るか?」  

掠れた声よりも、大きな音で自分の激しい胸の鼓動が聞こえる。

「うん」  

思いの外しっかりとした声で蓮が応えた。

「解ってるよ。僕。でも、嫌なんだ」

「え?」  

頭から冷水をかけられた用に、さっと血の気が引いた。

何も知らないのなら時間をかけて解らそうと思ってた。

でもまさか拒絶されるなんて思いもしなかったんだ。

慎とさえ離れる覚悟で俺に付いてきてくれたはずなのに。

「嫌なのか?俺が?」

「違う!誤解しないで」  

嫌だと言ったはずなのに、蓮は俺の背中に腕を廻して抱きしめた。

「蓮、離してくれ・・・じゃないと俺・・・・・」

「嫌だ。志賀さんまた僕の話を聞かずにどこかに行ってしまう」  

ふれあうほど側に蓮の真剣な瞳があった。

「僕も知ってる。愛の営みが神子の力をなくしてしまうと言う言い伝えを。

確かに何処の神社の巫女も本来は汚れ無き乙女じゃないといけない。もちろん僕は乙女じゃないけれど。 

今の志賀さんは僕の力をなくすために僕を抱こうとしているんでしょう?」

「それだけじゃない!」

「それもあるって事だよね?僕はそんなのは嫌なんだ」

「確かに何も知らない蓮を抱いてしまうことに抵抗があるにはあったし、神子の力がなくなればいいと思っているのも事実だけど決してそれだけじゃない」

「嘘じゃないのはこうして触れていればちゃんと分かる。でもあなたがそれと同じぐらい迷っているのも分かるんだ」  

そっと煙る睫毛を伏せて俺の胸に頬を寄せた。

「蓮は知らないと思ってた。俺も慎も」  

片手で蓮を抱きながらごろりと横に身体をずらした。

「怒らないって、約束してくれる?」

「うん?」  

俺の胸に強く身体を押しつけてきた蓮がくぐもった声で話しだした。

「黒沢さんが教えてくれたんだ。そう言う言い伝えもあるって事。  

何年か前に関西の方で大きな地震があったでしょう?」

「ああ」

「あのとき何日も前から僕には分かってた。途轍もなく大きな災害になるって事が。

それなのに僕に出来たことと言ったら、村出身の人たちに警告を出すことだけだったんだ。分かってたのに何も出来なかった。僕に助けることが出来たのは十人にも満たなかったんだ」  

自嘲気味に話し続ける蓮の髪を優しく撫でた。

「連日のニュースで惨事を見るたびにどんなに悔しかったか。あの時ほど自分の力が疎ましく思えたことは無かった。慎は何度も僕のせいじゃないんだと慰めてくれたけどなかなか立ち直ることが出来なかったんだ。

僕が何日もふさぎ込んでいたら、黒沢さんがある日、思い詰めた顔で僕の部屋に来て『蓮がそんなに辛い思いをするのなら俺が抱いてやる』って言ったんだ」  

蓮の髪を撫でていた俺の手が凍り付いたように止まる。

「まだ中学生だった僕には黒沢さんの言ってるのが何のことかさっぱり分からなかった。

僕が分からないって言うとさっきの言い伝えの話をしてくれたんだ。

僕は半分やけになってたし、黒沢さんは僕をどんなことがあってもずっと大切にしてくれると言った。

だからその時、僕はそれでも良いと思ったんだ」

「蓮・・・」  

いったい何の話をしてる?黒鬼に抱かれたって言うのか?

俺の腕の中にいるのは一体誰なんだ?

「そんな顔をしないで、お願いだから」  

凍り付いたままの俺に蓮は懇願した。

「黒鬼に迎えに来て貰えよ」  

どこか遠いところで俺の声がした。

「一体何がしたいんだ蓮は。僕は何も知りませんて純情そうな顔をして、慎すら知らないところでそうやっていつも男を手玉に取ってるって言うのか!」  

いつの間にか大きな声で叫んでいた。

「僕を信じて!結局なにも無かったんだ!大切にしてくれると分かっていてもそれは本当の愛じゃない。

身を任せても良いと思った途端、そんな自分が恐ろしくなって僕は逃げ出したんだ。

間違ってるんだ!僕の力を無くすために愛し合うなんて!」

「本当に?何もなかった?」  

蓮の言葉を信じたい。たとえ、俺の知らない昔のことだと言われても誰かが蓮に触れたなんて俺には我慢できない。

「僕は嘘なんて付かない。

ただ、あなたに嫌な思いをさせるのを承知の上で、こんな話をしたのも僕の気持ちを分かって欲しかったからなんだ。もちろん僕は黒沢さんのことが好きだけど、あなたに対する気持ちとは違う」  

蓮の方から躊躇いがちにそっと唇が触れてきた。

「いつか、僕の力のことなんか関係なく。志賀さんがためらうことなく僕を愛してくれるなら、僕は・・・きっと逃げ出したりしない」 

僅かな明かりの中でも分かるほど赤くなりながら蓮は囁いた。  

今日の所は、子供のように抱き合って眠ろう。腕の中で安らかに眠りにつく蓮がこんなにも愛しいのだから。      

 

 

 

夕暮れの中にぎやかな祭囃子が聞こえてきた。

蓮の村の龍神祭は今年から村人以外の参加も認められたと有ってかなりの賑わいを見せている。

都会育ちの俺にはとんと縁がないけど、村の青年団による屋台なんかも出ていてかなり本格的なお祭りだ。  

村って言うのは過疎化が進んで年寄りばかりだってよく聞くけど、此処には子供や若い人もかなりいる。

確かにちょっと遠いけど都心まで通えなくはない。現に黒鬼なんかは、ここから東京の大学までほとんど毎日通っているらしい。

 

「志、勇貴さん!」  

俺の姿を見つけて蓮が手を振りながら走ってきた。たぶん神子の衣装なのだろう、横にいた慎とお揃えの白い薄衣(うすぎぬ)に瑠璃色の袴をはいている。

僅かに目元と唇に紅を差しているようだ。

「綺麗だよ」  

すぐ側まで来た蓮に小さな声で耳元に囁くと、蓮はパッと顔を赤らめて俯いてしまった。

「遅かったな、勇貴」  

蓮の後ろから慎が声を掛けてきた。  

何もしなかった俺を僅かに責めたものの、慎は俺達の気持ちを分かってくれて今では暖かい目を向けてくれている。

「ごめん。環が行くって聞かないもんだから説得するのに時間掛かっちゃって」

「やっぱり、まだ無理だった?」  

あれから、連日のように環を見舞ってくれる蓮に、元々綺麗なものには目のない環は完全に心酔している。

「うん。もうだいぶ良いんだけど、山の空気は日が落ちるとスコンと冷え込むだろう?あれがあんまり良くないらしいんだ。

皮肉なもんだよな、空気の悪い都会からわざわざここに来たって言うのに」

「その環ちゃんのおかげで蓮に逢えたくせに」 

相変わらずからかう慎の横から話題を変えるために蓮が屋台の並んでる方を指さした。

「清水君と池山君もさっき来て屋台の方に居ますよ。勇貴さんも何か食べて下さいね」

「蓮は一緒に行けないのか?」

「ご免なさい、後少しで出番だから。出番が終わったら一緒に居れますから」  

そう言って蓮が見上げた舞台の上では小さな子供達が武道の型を披露して盛んに拍手を貰っている。

「ほら、行った行った!今は蓮は俺のもんだからな。舞台が済むまで大人しく引っ込んでろ!」  

蓮を後ろから抱きかかえて、慎はシッ!シッ!と犬でも追い払うみたいに俺に言う。

「今だけだからな!」  

じゃれ合っている美しい双子にウインクをして俺は屋台の方へ足を向けた。

 

「おう。志賀!」  

焼き鳥を手に持った紘一が手を挙げた。

「あれ?真琴は?」

「あそこ」  

紘一が首を振った所を見ると、小さな子に混じって必死に金魚すくいをしている真琴が居た。

「全く、ガキだよな」  

紘一はそう言いながらも目を細めて真琴を見つめている。

「そこが、真琴の可愛いところさ」

「まあな」  

きゃあきゃあ言いながら金魚すくいをしている真琴を見ながら紘一と話している俺の肩を後ろから誰かが掴んだ。

「志賀。ちょっといいか?」

「黒沢さん」  

着物にやはり袴を履いた黒鬼は、頷いた俺を少し離れたところに連れ出した。

「何です?話って」  

男なら誰もがそうなりたいと思う典型のような黒鬼を見るたびに俺の中でちくりと痛みが走る。本当のことを言うとなぜ蓮が黒鬼ではなく俺なんかを選んだのか未だに恐くて聞けずにいるのだから。

「俺が、東京の大学に通っているのは知っているか?」

「ええ」

「実は前々から共同研究をしているアメリカの大学に来ないかと言われてたんだ」

「そうなんですか」  

でもそれが俺と何の関係が有るんだ?

「俺は、蓮を愛している」  

恐いほど真剣な瞳が俺を捉えた。

「ええ。知っています」  

俺も真剣に黒鬼の瞳を見返した。  

フッと黒鬼のきつい瞳に何かがよぎるように揺らめいた。

「蓮のことを頼んだぞ。大切にしてやってくれ」  

俺の両肩を強く掴んで言葉を続ける。

「祭りが終わったら、俺はアメリカに発つことにした。長老が言ったようにもう古い風習に縛られるのはやめた。

蓮を連れてこの村を出ることを夢見たこともあったが、それももう叶わぬ夢だな」

「黒沢さん・・・」  

逞しい後ろ姿がやけに悲しい。

黒鬼も俺なんかよりずっと長い間蓮を想ってきただろうに。

恋愛ほど酷いものはない。

俺と蓮が惹かれ合えば惹かれ合うほど、他の人を遠くへはじき飛ばしてしまう。  

 

 

「志賀君何やってんのさ。早く行かないと蓮君達の出番始まっちゃうよ」  

真琴が俺の手を引っ張って舞台の方へ連れていく。

祭りのメインである【郷守の双子】の舞とあって、さっきと比べものにならないほどの人集りだ。

舞台の後ろの両端に青鬼と赤鬼が横笛を携えて立っている。そして舞台の後ろの中央に鼓を抱えた黒鬼が鎮座していた。   

既に闇に包まれ始めた舞台は篝火で照らされていて、黒鬼の鼓が響き渡るとざわめいていた人々が一瞬にして静まり返った。  

幻想的な雰囲気の中で妙なる笛の音色と供に慎と蓮の舞が始まった。

優美に舞を舞い始めた双子のあまりの美しさに周りからため息が漏れる。

『今年で終わりだな』

昨日ポツリと言った慎の言葉を思い出す。

『来年にはもう俺が変わっちまってるだろうからな。今でも真横に並ぶとかなり蓮とは感じが違うだろう?

今年で終わりって事はこの先は永遠にないって事になるんだな』

何百年もの間続いてきた伝統の終わりを惜しみながらも、晴れ晴れとした顔で慎は俺にそう言ったんだ。    

 

蓮を神子の運命(さだめ)から果たしてこの俺が解き放ってやれるものなのかどうか今の俺には解らないけれど、どんな運命だろうと一緒に歩いていけると俺は信じている。  

俺がこの舞を見るのはこれが最初で最後なんだなと思うとなんだか目頭が熱くなってきた。  

心の中に刻み込むように、篝火の中でえも言えぬほど煌びやかに舞う二人の姿を、しっかりと瞼に焼き付けた。                

                                    〈終わり〉