********珊瑚礁の彼方へ*********

 

( 最終話 )

 

シマニ  モ モド レナイ・・・?  

 

「何言ってるんだよ、麟! 僕の世界にも行けず、島にも帰れないなら、いったいどうするって言うんだよ!」  

思わず語気を荒めた宏隆に、

「心配しないで、ヒロはちゃんと帰れるから、僕がちゃんとヒロの世界に送ってあげるから」

そんなことを聞いてるんじゃない!

「言ってることが矛盾してるじゃないか!
ここから出れないって言っておいて、僕を送るってどう言うことなんだよ!」

「僕が海に帰れば、ヒロはちゃんとラグーンの外に出れるんだよ。  
どのみち僕は掟を破って未成魚のまま契ってしまったから、もう島には戻れない・・・・・・・・・
この姿も保っていられないんだよ」
   

ナニヲ イッテルンダ・・・・?    

思いもしなかった麟の言葉に宏隆の頭は真っ白になった。  

もし、ここから二人で出ることが叶わなくても、安否を気遣ってくれているであろう兄達や両親には申し訳ないが、自分は死んだものとして、あの島に麟と共に残るという道だけは最終手段として残っていると宏隆は思っていたからだ。  

幾ら愛していると言っても、幾ら腕の中に抱きしめても、昨夜から宏隆の中に沸き上がり拭っても拭って拭いきれなかった不安はこのことだったのか・・・・  

麟が宏隆と一緒に行くことを拒むのではなく、始めから凪が言ったように、二人は結ばれることのない運命だということなのか・・・・

「麟・・・・・・・ヤダ・・・」  

そんなのは嫌だ・・・  嫌だよ・・・・・・

ボートの縁を掴む宏隆の拳が怒りと悲しみで白くなった。 

「ヒロ。お願い・・・・・  
最後に、最後にもう一度だけ僕を抱きしめて・・・」
 

揺れるボートの縁を掴んでいた手を放し、麟はゆっくりと細い腕を宏隆にさしのべた。
麟の向こうには荒れ狂う波が迫り、今にもその懐なに麟をさらっていきそうだ。

「いや・・・嫌だ・・・」  

小刻みに首を振り宏隆は麟の腕から顎を引いた。    

いなくなってしまう・・・  

もう一度抱いたら最後、麟は僕の前からいなくなってしまう。  

ああ、最初からすべて君は分かっていたんだね・・・・・・

涙の真実。  

今やっと、わかった。  

「ヒロ・・・  お願いだから・・・・」  

こんもりと大粒の涙を浮かべた瑠璃色の瞳が切なげに懇願する。もう一度だけ、最後にもう一度だけ宏隆の温もりが欲しいと・・・・・・・・

「い、嫌だ・・・  嫌だよ、麟!  
好きなんだ。
 
ずっと一緒に居ようって言ったじゃないか!」
 

目の奥がカッと熱くなって、麟の姿がぼんやりと虹色に霞む。

「僕もずっと一緒に・・・いたかった。本当だよ」

「一緒に居よう、麟・・・・・・・・なっ、お願いだから。 
幸せにするって、大事にするって約束しただろう?」

「僕は、幸せだよ。ヒロが僕を幸せにしてくれたんだ。ほんとだよ。ヒロに逢えて、愛して貰えてよかった・・・・・・・・・」  

麟は本当に幸せそうに柔らかく微笑んで、身体をスッと持ち上げた。

「嫌だ!  行っちゃダメだ!  麟!」  

為す術もなく同じ言葉を繰り返す宏隆に、

「さよなら、ヒロ。  
僕はヒロだけを愛してるから・・・
ずっと・・・ヒロだけだから・・・」   

麟はかすめ取るようなキスを宏隆の口唇にすると同時に、うねる波間に身体を踊らせた。    

はじけ飛ぶ飛沫。

「麟っ−−−−−−!!!!!」 

宏隆の悲痛な叫び。  

麟のいなくなったボートは横波にされわれバランスを大きく崩し、大波に激しく弾き飛ばされた。    

水面にボートごと叩き付けられた宏隆は薄れゆく意識の中で、真っ青な空に、オレンジ色の美しい鰭を持った魚がピシャリと目の前で跳ねるのを見た。      

 

☆★☆

 

小さな機体は小刻みの振動を座席にもたらして、震え気味の宏隆の声を誤魔化してくれている。

「幾らなんでも信じないよね・・・・こんな話し・・・」  

麟とのことを兄の慶吾に一部始終話し終わり、今にも泣き出しそうな程顔を歪めた宏隆は、間に一言も口を挾むことなく耳を傾けてくれていた兄に自嘲の笑みを向けた。

「いや、俺は信じるよ。たとえ、お前がみたものが幻だったとしてもきっとどこかに彼らは存在するんだろう。  
俺達には分からない不思議なことがこの世にはまだまだ、きっと沢山あるんだろうからな」
 

慶吾は宏隆の肩に腕を廻し、

「医者が言ってたよ、お前の腿の傷は遭難時に出来たものにしてはおかしいってな。救助されたときにはもう既に塞がっていただろう?」  

慶吾に言われて、宏隆はズボンの上から珊瑚で傷ついた傷跡をゆっくりと撫でた。

「麟さんが治してくれたんだろう。感謝しなけりゃあな」  

慶吾は廻した腕で宏隆をグイッと自分の傍に抱き寄せた。  

宏隆達を載せた小型飛行機はとっくに南の島を離れ青い空を本土に向かって飛んでいた。  

その下に果てしなく拡がる海のどこかにあの環礁はあるのだろうか・・・・    

あの不思議なコロニーが・・・

 

☆★☆

                             

慶吾に連れられて街に戻った宏隆だがしばらくの間だ、世界は全てが色褪せて、灰色の靄が掛かったかのように見えた。  

アスファルトの上に立ち、汚れた空気を通して見上げた空は、灰青色に濁り、そこから落ちてくる雨粒は、生命の源である水の清涼な香りとは明らかに違う、埃っぽい匂いがしていた。  

どれほど、自分の住んでいる世界が汚れているかなんて、宏隆は今までは考えたこともなかった。  

いや、極々一般的なエコロジーなどという知識はもちろん持ち合わせてはいた。だが、これと言って深く考えたことなどないのは何も宏隆だけに限ったことではないだろう。  

環境を考える以前に、むしろ無意識のままとはいえ、宏隆自身小さな自然破壊をくり返し犯してきたではないか。  

凪は言った、どこまでも飽きることなく自分たちの領域を拡げようとする愚かな人間達と・・・・・  

人間はどこまで貪欲に突き進んでいくのだろう。  

美しい自然を、あまやかな空気を、母なる海を汚し、いつか帰る大切な場所さえも無くしてしまうのだろうか・・・・    

 

秋になり、しばらくの間だ休学していた大学に戻った宏隆は、ずっと気になっていたことを調べるために、フラリと図書室へ立ち寄り奥の背の高い書架から分厚い一冊の図鑑を手に取った。  

何人かがポツポツと座って調べ物をしている大きな机の角に立ったまま宏隆は思い図鑑を机の上に置いた。  

色とりどりの南海の魚が詳しく説明されている本のページを素早く捲る指が、目的の魚を見つけてピタリと止まった。

「これだ・・・」   

思わず小さな声が漏れる・・・・  

それはあの日に目の前で跳ねた、小さなオレンジ色の魚。  

よく見ると全体がオレンジ色をしているわけではなく、瑠璃色の胴体に数本の白い線を持ち、オレンジ色の美しい鰭や尾鰭を持った魚だ。  

図鑑の名称部分には『クマノミ』と記されてある。   

宏隆はその名に何となく聞き覚えがあるような気がしたが、写真の横にある説明文をじっくりと読むために、手近にある椅子を引きしっかりと腰を下ろした。  

図鑑の説明を読み進むうちに、宏隆の目から溢れた一粒の涙が魚の写真の上にポトリと零れた。  

白くなるほどきつく握った拳で口元を押さえ、肩を振るわせた宏隆に、さっき隣に座った見知らぬ学生がハンカチを差し出し心配そうに声を掛けてきた。

「どうかしましたか?  気分でも悪いんですか?  顔色が真っ青ですよ」

「いえ、いいえ・・・何でもないんです。  ありがとう・・・」  

声を掛けられて驚いた宏隆は、不覚にもこんなところで涙を零したことに赤面し、拳でグイッと顔を擦った。

「これどうぞ、使って下さい」  

青年はハンカチを宏隆の腕に押しつけて、

「あ、これ、クマノミですよね。熱帯魚ってみな綺麗だけど、この魚は特に綺麗ですよね」  

人なつっこそうに微笑んだ青年は、宏隆の図鑑を覗き込んで言った。

「ええ・・・  そうですね。本当に・・・・・・綺麗だ・・・・」  

呟きながら、宏隆は指でそっと写真をなぞった。愛しい人を愛撫するようにそっと。    

図鑑の説明文によるとクマノミは魚に詳しい人なら誰でも知ってる程、変わった生態を持つ魚だという。  

暖かい南の海に住み、珊瑚礁のイソギンチャクと共生している、小さなオレンジ色の美しい熱帯魚。    

一つの巣に、一組の夫婦、複数の未成魚、それに数尾の幼魚が一緒に生活していたりする。  

家族のように見えても、全く血縁のない生活共同体。  

しかしなんと言っても、一番の特徴は、雄から雌に性転換する優勢先熟の雌雄同体であること。  

図鑑をパタンと閉じた宏隆はもう一度隣の青年に礼を言うと分厚い図鑑を書架に戻した。

         

あの夏からゆるりと宏隆の廻りで3年の歳月が流れていった。  

学生だった宏隆も今は、父や兄の元で働く社会人になっていた。  

宏隆は再び訪れた眼前に煌めく翠緑色の海原にもう一度問いかける。

『麟。君は美しいラグーンに住む、魚の化身だったのかい』と。  

海は黙して何も答えてはくれない、だが、目の前の果てしない海だけが、真実を知っているのだ。    

潮騒に混じって、凪の言葉が聞こえるような気がした。  

『何故、全ての生命が生まれては死んでいくのだ?全ては誰かの見た短い夢やもしれぬ』    

全てが夢ならば、目覚めずにずっと見ていたかったよ麟。  

君の夢を・・・君と見た甘い夢を・・・・  

でも、僕はまだ生きている、甘い夢のなかにいたくても、現実に戻り生きて行かなきゃならないんだ・・・・・・・・・ そしていつか、この現の世を離れるとき、再び君に巡り会いたい。

いつかきっと・・・・・・・・・ 

素足を寄せては返す波が『待っているよ』と囁きながら愛撫していく。  

宏隆はゆっくりと腰を屈めて、なま暖かい海の水を両手の掌に掬い、口づけて、再び海に戻した。      

海よ、僕の口づけをどうか麟に届けて。    

そして、伝えて・・・いつまでも愛していると。               

      〈END〉    

 

 

あとがき

「珊瑚礁の彼方へ」最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。

この作品は1話から感じておられたように普通のハッピーエンドではありません。氷川はハッピーエンド至上主義ではありませんので、これからも、必ずハッピーエンドになると言った姿勢で書いていくことはないと思います。

ただ、麟を連れて現実の世界に帰るとしても、ヒロが島に残るとしても、きっとそれは辛い選択に違いないと思うのです・・・・・

必ずハッピーエンドにしてくださいね。と言ってくださった、皆さま・・・・本当にごめんなさい。

確かにどんな作品でも必ずハッピーエンドにすることは可能です。でも、氷川はすべてのお話を丸く収めたいとは思わないので、それをすると氷川の書きたい物を書くという趣旨からはずれてしまうのです(^^;)

なんだか、言い訳のようなあとがきですが、こんなわがままな書き手ですがこれからも宜しくお願いします。

氷川雪乃