********珊瑚礁の彼方へ*********
( 12 )
「抱いていってやろうか?」
砂浜に足を取られそうな麟に、笑い掛けながら宏隆は手をさしのべた。
「う、ううん。いいよ、一人で歩ける・・・」
麟は宏隆の数歩前から振り向き加減に照れながら笑った。
昨夜の営み以来、目が合うとパッと頬を染め、宏隆の顔がまともに見れないでいる、そんな初々しい麟になおさら愛しさが増す。
手を伸ばし抱き寄せて、細い腰に腕を廻した。
まだ太陽が東の空に光の前兆しかのぞいていない深い藍色の早朝。
今から昇ってくるあの太陽を背に進めば、自分の世界に帰れるのだと宏隆は決意を新たにした。
これから待ち受けているであろう事が、ちょっとやそっとで切り抜けれるような事ではないことぐらい、宏隆にも覚悟は出来ていた。
麟を守り抜くことが想像を絶するほど大変であろうということも・・・・
親もなく、家もなく、その上戸籍すらない麟は、決してあの街で一人では生きてはゆけない。
その上、幾ら宏隆が愛していると言ったところで、麟は男の子だ。
宏隆の両親が宏隆の相手として認めてくれることはないだろう。
まして、宏隆は並の家の子供ではない、饗庭家の息子に釣り合うだけの相手と言えば、きちんとした家のお嬢様だとてなかなか務まる物ではないのだ。
もし、これが慶吾なら、麟を言い方は悪いが愛人という形で抱えることが出来るのかも知れないが、宏隆はまだまだ学生で、親のすねを囓っている身だ。
麟を連れて帰ると言うことは、宏隆自身も何不自由ない生活と饗庭家と言うバックを捨てて、麟と二人で暮らす覚悟でこの島を出なければならないのだ。
それでも、後悔したりしないと、宏隆は固い決意を心に決めていた。決して後悔したりしない。
決して、後悔などさせない・・・・・・
昨夜確かめて置いた櫂のボートに用意して置いた荷物を放り込み、椰子の木陰から100bほど離れた浜辺まで麟と二人で船を引っ張って行った。
静に打ち寄せる水辺に矛先が沈んだのを見届けてから先に麟を小さなボートに乗せて、宏隆は満身の力を込めて腰の辺りの深さまでボートを海に押し進めると、浮力でボートがフッと軽くなる。
それを機に麟の手を借りて宏隆もボートに乗り込んで、オールを手にこぎだした。
仰ぐように、振り返った島は潮の流れのおかげで瞬く間ボートが水面を滑り距離が開いていく。
群青色の闇が少しずつ茜色に染まってきてはいたが、島のみんなは、まだ、しばらく起きては来ないだろう。
入り江にポツリポツリと離れて立つ小屋が見る見る、小さな点になっていく。
目が覚めて麟と宏隆がいなくなったことに気づけば、やはり許してはくれないのだろうなと宏隆は思った。
親切にしてくれた凪や、櫂には申し訳ない気持ちが沸き上がる、あれほど麟を慕っていた子供達にも心の中で深く詫びた。
けれど、それ以上に麟は宏隆の大切な人になってしまっていたのだ。
一方、宏隆の背中越しに麟は遠ざかる島の海岸線を、哀愁を込めた瞳でしばらく眺めてから、振り切るように、ツイっと視線を外した。
「寂しいかい?」
「うん?ううん」
訊かれてコツンと宏隆の胸に凭れ、麟は小さく首を横に振った。
「大事にするから、ずっとこれからは僕が一緒だから」
昨夜から幾度となく繰り返された囁きに、寂しそうに麟は微笑んだ。
「そんな顔するなって。ほんとだよ。ずっと大事にする」
「・・うん」
無理に作った麟の笑顔は嗚咽をこらえきれずに切なく歪む。
「また泣く・・・・・・泣き虫だな、麟は」
肩を振るわせている麟の顎を持ち上げて、宏隆は愛おしみを込めて深く口唇をあわせた。
島々が遠くなり、はっきりと色目が違うラグーンの境界線に近づくと、それまで潮の流れに乗って波頭を滑るように進んでいたボートが押し戻されるような力で思うように進まない。
外海と内海が交わるために潮の流れが大きくうねるからだ。
「くっ・・・!」
宏隆の食いしばった歯の間だから息が漏れる。
「ヒロ?」
怯えたような瞳が宏隆を捉えた。
「大丈夫。何でもないよ」
「船が・・・進まないんだね?」
オールを漕ぐ腕に力を込め汗を身体に滲ませている宏隆に麟が震える声で言った。
「あ、いや、ほんとに大丈夫だよ。ちょっと、潮の流れがわかっただけさ。外海に抜けたら、また、波は凪ぐよ」
しっかり握っていないとオールを持って行かれそうな波の重さを麟に知られたくなくて、宏隆は何でもないことのようにサラリと答えた。
「うわぁ〜!」
その時、グワァッとボートが持ち上げられて、オールが宏隆の腕から強い波にもぎ取られてしまった。
まるで巻き上がる波頭そのものが、意志を持つかのように。
「しっかり掴まって、麟!」
さっきまではとても穏やかだった海が、一瞬にして、大きくうねりだした。
空は快晴、雲一つなく、風もそよとしか吹いていないのに、海面の波だけが生を受けたもののように激しく渦を巻きうねっている。
こんなのはただの波じゃない。
宏隆は本能的にそう感じ、ギリッと奥歯を噛みしめた。
「ヒロ・・・聞いて」
木の葉のように弄ばれる船のバランスを少しでもとろうと必死になっている宏隆に、麟のさっきまでの不安を滲ませた声とは打って変わった落ち着いた声が聞こえた。
「僕がいるから、海が怒ってるんだ」
機械的なほど淡々とした麟の声に、宏隆は何か良くないことが起きるのだと直感した。
「なんだって?海が怒るはずないだろう。なに、冗談言ってるんだよ」
気のせいだ。悪い事なんてなにも起きやしない・・・不安を振り払うように麟に向けた笑顔が麟の真剣な瑠璃色の瞳に出会って凍り付いた。
やめろ・・・・・・・
なんでもないと言ってくれ・・・
頼む麟。。。。。
「僕は、ここから出れないんだよ、ヒロ」
─── 涙の真実。
「で、出れないって・・・ど、どう言うことなんだ?」
胸が苦しい・・・・・
「出れないんだ、僕達はラグーンから外には・・・・・」
麟が悲しそうに微笑む。
宏隆の脳裏に凪の言葉がパッと蘇ってきた。
『櫂に境界線まで送らせよう、そこから先にわたしたちはいけないからね』
『行かない』から、ではなく、『いけない』のか?宏隆はぐるりと周囲に視線を巡らせ大きく瞠目する。
激しい波に翻弄されているのはこのボートの廻りだけ、50bも離れれば、いつもの静かな海が360度に渡り拡がっている。
海が怒っている・・・・
大切な麟を僕が連れ出そうとしているから・・・・?
なんて事、それじゃあ、出れないのを覚悟で、一夜きりと知った上で、昨夜自ら麟は僕に抱かれたというのか?
このことを承知で?ああ・・・・・麟、なんてこと・・・
「解った。島に戻ろう、麟。僕がずっと、島で麟と暮らす」
固い決心をした宏隆は揺れるボートの縁を左手でしっかりと掴み、身体を乗り出して、右手で直に海水を掻き、矛先を島に向けようとし始めた。
その手を、麟がそっと、押さえた。
「いいんだよ。ヒロ。そんなことしなくても、いいんだ」
顔を上げた宏隆に麟はオレンジ色の頭を大きく振り、きっぱりと言った。
「僕は島にも戻れないんだ」