〜七月七日浪漫〜 第9話

粋に抜いた浴衣の襟元から、染み一つない艶やかで綺麗な背中が覗く。  

俺は押さえつけても込み上げてくる欲望と戦いながら、年長者らしく、震える彼の背中をポンポンと叩いてやった。

「嫌いじゃないよ。だから、こんな事しちゃいけない」

俺の言葉に、いやいやをした涼一は、なおも身体を密着させて、

「嫌いやないて言うてくれるんやったら、せめて、このまま・・・抱いてて・・ほしい・・」

終わりの方は消え入るような小さな声で囁いた。

「あぁ、いいよ」  

酷なことを言うものだなと、苦笑しながら、涼一の言葉にそれ以上の含みがないことは俺にもよく分かっていたので、小刻みに震えている身体をしっかりと抱きしめた。

君が落ち着くまで抱いていてあげる。  

二人っきりの空間に、胸の中に閉じこめていた澱を全て流し出すかのように、押し殺した涼一の嗚咽だけが何時までも漂っていた。    

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「宗志さん」

「うん?」

「昨夜一晩考えてたんやけど。僕、宗志さんのこと、ほんまに好きになってしもたみたいなんや」

「涼・・・」

「心配せんかてええ。別に僕の恋人になって欲しいていうてるんやないから」  

翌朝、帰り支度をしている俺が驚いて顔を上げると、桜の木で出来た床柱に背中を預けていた涼一が笑いながら言った。

「相変わらずよく分からない子だな?じゃあ何のための告白なんだ?」

「すっきりしたかったんや。昨夜スキや言うたんも、もちろん嘘やない。

せやけど宗志さんに言われたことも、きっと僕が見ようとしいひんかった事実なんやて、今なら認めれる。 

それもこれもふまえた上で、僕がいま好きなんは宗志さんなんや」  

俺はボストンのジッパーを引き終えて立ち上がると、涼一の艶やかな黒髪を撫でた。

「俺も君のことが好きだと言ったら?」

「え?嘘やろ?」  

涼一は俺の発した言葉にカッと頬を染めてたじろいだ。

「ハハハ。君こそ、心配しなくてもいい。本気にしちゃいないよ」  

まだ胸が切なくはなるが、君が高見沢の呪縛から逃れる為に、俺の存在が少しでも役に立つなら、それだけで俺は本望だ。

「冗談きついな。思わずホンマかとおもてしもたわ」  

涼一は初めてあったときと同じように、花が咲くようにパッと顔を綻ばせた。    

籐子さん達に礼を述べた俺は、京都駅まで送ると言い張って聞かない涼一と共に百瀬邸を後にした。  

新幹線のホームで俺は改めて、しみじみと涼一の姿を眺めた。

黒髪に囲まれた卵形の小さな顔。誰もが美しいと思うであろう癖のないたおやかな顔立ち。華奢なようでいて、思いの外しっかりとした体躯とすらりと伸びた手足。

初めてあったときから俺を強く惹き付けた、サクランボ色の艶やかな口唇・・・・

息をはき、ゆっくりと瞼を閉じた。涼一の姿を忘れないように、しっかりと脳裏に焼き付けておくために。

「色々と有り難う」

「僕の方こそ・・・」

俺も涼一も何を言っていいかわからずに、短い別れの言葉だけを掛け合った。 

発車のベルがホーム中に鳴り響き、別れを惜しんでいた人たちが次々と新幹線に乗り込んでいく。

「じゃあ」  

ドアに足をかけて乗り込み掛けた俺の背中に、張りつめた涼一の声が掛かった。

「僕、待ってるから!」

「涼一君?」  

怪訝な思いで振り向いた俺の前で、涼一は目に一杯涙を貯めたまま微笑んでいた。

「来年の七夕さん。四条大橋の上で七時に待ってるから」

「・・・・」

「約束して欲しいなんて、図々しいこと、僕よういわへんけど・・・僕、かってに待ってるから・・・僕の心ん中、宗志さんで一杯にして待って・・・・」  

最後の言葉を掻き消すように、無機質な扉がガシャンと冷たく閉まった。  

ゆっくりと列車が動き出し、遠く離れていく俺を、涼一は肩の横に手を挙げたフォルムでホームに佇んだまま、じっと見送っていた。      

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『恋や愛なんて・・・所詮、泡沫(うたかた)の夢。幻なんかもしれへんなぁ・・・・』  

四条大橋の手前、観光客だけでなく仕事帰りのサラリーマンやOLでごった返している京極通りで、タクシーを降りた俺は、あの夜、俺の腕の中で涼一がポツリと呟いた言葉を反芻した。

『何年もの間、高見沢しか見てへんかった。騙されてるともしらんと、優しぃされて、ホンマに愛されてるて信じてたんや。

高見沢がほしかったんは僕自身やのうて、百瀬の家柄やったのに。何にも見えへんようになってしもた僕は、そんなことちぃとも気ぃつかへんかったんや。

愛してるておもたかて、みんな錯覚なんかもしれんなぁ・・・大好きやて思てたのに・・・高見沢が死ね言うたら死んでたかもしれんほど惚れてるておもてたのに。

今はこんなにも、悲しぃなるほど憎んでるやなんて・・・』  

この一年間、連絡を取ろうと思えば幾らでも取れたが、あえて俺は連絡を取ろうとはしなかった。  

俺から京都の出来事の概要を聞き出した秀太郎は、生真面目に一年も待つ馬鹿がどこにいるんだと呆れ返っていたが、頑張ってこいよと忙しいなか東京駅まで車で送ってくれた。

涼一の言った通り、一方的に秀太郎が口説いていただけで、二人の間には何も起こらなかったらしい。  

涼一からも連絡を取ろうと思えば幾らでも取れただろうが、一度も連絡は来なかった。  

彼がもし本当に、俺との再会を心から望んでくれるなら。必ずここに現れるだろう。  

ただし、彼が高見沢の幻影を振り払い、過去の辛い恋を跡形もなく精算して、俺への淡い恋心が彼の言うように泡沫の夢として消えてしまったのなら。ここにはもう現れないだろう。  

そのどちらでも、構わない。  

彼が幸せなら、それで本望なのだから。  

くそっ!・・・これこそ彼のもっとも嫌う偽善そのものじゃないか。  

俺は大嘘つきだ。彼が来てくれることを、ずっと心の奥で願い続けてきたくせに・・・  

俺は恐かったんだ。

恐くて、近づいてくる橋の上をまともに見ることが出来ないでいた。  

京阪電車の四条駅と交差する形で架かっている四条大橋。  

京極側から歩いていくと、橋の向こうに、賑やかな看板の立てられた、歌舞伎の舞台、南座が見える。  

人混みに紛れて、うつむき加減に歩きながら橋の真ん中辺りまで、俺はやっとの思いでたどり着いた。   

周りを見る勇気のない俺は、橋の欄干を両手で拳が白くなるほどきつく握りしめて、橋の下に流れる鴨川を眺めた。  

鴨川沿いの料亭には、京の夏の風物詩である床が張り出され、その下の河原には、ポツ、ポツと、黒い影と化した恋人達が間合いを開けて、腰を下ろしているのが見えた。  

フッと俺の横に人の気配がして、期待に俺の胸がドキリと高鳴ったとき、ふんわりと風に揺れて、艶やかな長い黒髪が俺の腕に触れた。

『なんだ・・・女の子か』  

ガックリと肩を落とした俺の腕に、白い指がそっと架かる。

「悪いね。人を待ってるんだ」  

京都の娘は以外と大胆なんだなと、横に顔を向けると、

「へえ?僕の他にも誰かくるん?」  

悪戯っぽい、つぶらな黒瞳が俺を見詰め返した。  

涼一がいた。  

さらりとした黒髪を随分と長く伸ばし、変わらぬ美しさで、俺の目の前で立っていた。  

人の記憶というものは、とかく、美化されがちだということを俺は経験から知っていた。 

まして、俺は紛れもなく涼一に恋をしているのだから、きっと会えなかった一年の間にどんどん心の中で神聖化してしまい、会えばギャップを感じるんじゃないかという懸念を抱いていたのに、そんな危惧は、ものの見事に裏切られた。  

こんなに綺麗だったろうか?  

艶やかな黒髪は前にもまして黒く光り、黒曜石の瞳は暖かい愛情を浮かべている。  

象牙色の肌には紅を掃いたような微かな赤みが差して、サクランボ色をした下唇には、この一年の間片時も忘れることの出来なかった、可愛らしい窪みが、ちゃんと有るべき場所に存在した。

「もう、いややなぁ。そんなにじっと見られたら恥ずかしいやんか」  

照れながら、涼一は俺の肩にコツンとおでこを載せた。

「逢いたかったんや・・・」

「----俺も、逢いたかった」  

肩に乗った小さな頭を、壊れ物を触るように優しく撫でた。  

ああ、どうか消えてしまわないでくれと願いながら。

ここでENDマークを付けても、それはそれで良いような気もするんですが・・・・〈笑〉

お話はもう少し続きます。。。次回が最終回ですがいつもより少し長めですのでよろしくお願いしますね。。。