唇までの距離ディスタンス 〈二話〉

 

「いいぞ!渚。好タイムだ」  

高級スイミングスクールのような開閉式ガラス張りドームの屋根を持つ全天候型のプール。  

クロールで一〇〇Mおよぎきった僕がタッチと供にザバッと水から顔を上げ肩で大きく息を付くと、ストップウォッチを片手に持った山崎先輩が上体を屈ませて眩しいほどの笑顔で褒めてくれる。  

先輩に比べたら雲泥の差程も低いタイムなのだがほんの少し記録が伸びるたびに自分のことのように喜んでくれる先輩が僕はとても好きだった。    

向陵(こうりょう)学院に入学したとき。

ううん、する以前から僕は水泳部に入ろうと思っていた。  

といっても優梨子にのろま呼ばわりされる僕は当然熱血スポーツ小年タイプじゃなかったので、中学の時にこれといった運動部に所属してたわけじゃなかったんだけど。ほかには僕が入れそうな運動部が見あたらなかったんだ。  

此処、向陵(こうりょう)学院はエスカレーターの大学を待たないものの、有名大学への高い進学率を誇る名門校なんだ。

創立以来『健全な精神は健全な肉体に宿る』をモットーに身体的な理由が無い限り、原則として1年生の間は運動部に所属することが校則で決められていた。

当然文化部に所属したいものは一年間は掛け持ちということになる。  

これといって運動をしてこなかった軟弱ものの僕だけど、事水泳に関してだけは河童並と自画自賛していた。

一人っ子の僕は毎年夏休みになるとほぼ一月の間、海辺に有る母方のおばあちゃんの家に滞在していたから泳ぎだけには自信があったんだ。  

ところが入部してみると、世間知らずの僕は現実って物を痛いほど知らされた。

私学で一年中使える温水プールを持つという恵まれた環境の向陵(こうりょう)学院水泳部は国体やインターハイに毎年出場している水泳王国だったんだ。  

幼い頃から水泳教室に通い、もちろん大会目指して入部したものと(中には水泳部にはいるために此処に入学したものまで居るらしい)僕たちみたいにとりあえず校則違反をしないために一年だけと言う軽い気持ちで入部したものは、最初からきっちり区別された。 

今いる2、3年生はむろん全員エリート組の前者である。  

僕たちは彼らから2軍と呼ばれ、ほとんど・・・?まったくかな?コーチに指導されることなく、一番端のコースをお仕着せ状態であてがわれて、ちゃぷちゃぷと自由遊泳をするだけだった。  

 

入部して3月ほどたった頃だったと思う。

六時間目の授業が自習で、やったら早く終わったある日、僕は誰もまだ来ていないシンとしたプールサイドにやって来た。  

広い鏡面のように静まり返った蒼いプール。 

僕なんかが決して泳がせて貰えることのない中央のコースを、僕は水の精霊のあまやかな誘惑に負けて泳ぎだしてしまった。(本当は上級生が来るまで、事故防止のため泳いじゃいけない規則になっているんだ)  

確かに、僕の泳ぎは我流だけど、僕は水の中にいるのがとても好きだった。僕を抱き込み包み込む水のひんやりとした滑らかな感触。 

水中でしか味わえないゆったりとした音のない異世界。  

キラキラと差し込む外の光と小さな精霊達が戯れているような水中の光の反射。  

一人っ子の僕にとって水の精霊達(海)は夏のもっとも親しい友達だったんだ。  

十分に水の感触を楽しんで、ウットリと僕は水面から顔を上げた。

所がその僕を見下ろすように制服を着たままの山崎先輩がプールサイドに立っていたんだ。

「や、山崎先輩?す、すみません!」  

飛び上がるように、プールサイドによじ登った僕は、滴を全身から滴らせながら、何度も先輩に頭を下げた。

「水谷君だったね?」

「ハ、ハイ!1年B組水谷渚です!」  

パニクった僕は何故かクラスまで直立不動で答えてしまった。

「そう?水谷はB組なんだ。それじゃ俺の教室の真下なんだ」  

スイムキャップも被らずに泳いでいた僕のポタポタと滴を落とす前髪を長い指で後ろに撫でつけながら、先輩は目を細めた。  

二年生のそれも水泳部どころか、学校中知らない人などいない、かの麗しい山崎秋人先輩が僕の名前を覚えてくれていたなんて・・・

不謹慎にも頬が緩みそうになったので慌てて僕は難しい顔をした。

「クスッ・・バカだな怖がらなくても誰もとって食いやしない。柏木には黙っててやるよ。俺が泳いでいいって言ったことにしとけばいいさ」  

僕の髪を撫でつけた指を口元に戻し、短く笑った先輩に今度は軽くウインク迄してもらっちゃった。  

ほんの数日前に行われた大会を最後に3年生は受験のために引退したので、2年の柏木先輩が現部長になっていたのだ。

「ハイ!有り難うございます」  

有頂天になって頭を深々と下げた僕の上から、

「水谷。お前もう少し手先と足先に迄神経を使って、もう一回向こうまで泳いでみろ」

「はぁ?」  

中腰のまま惚けたように山崎先輩の綺麗な顔を見上げた。

「だから・・もう一度泳いでみろと言ったんだ。ただし、

水と戯れるんじゃない。泳ぐんだ。解るな?」  

子供に話すようにゆっくりと、僕の目を見て山崎先輩は言った。

「ハ、ハイ!」  

そ、それって先輩直々コーチしてくれるって事かな?  

僕は先輩の気が変わらない内に大急ぎでスタート台に立ち、ザブンとプールに飛び込んだ。   

僕が五〇Mを泳ぎ切って先輩の方を振り返ると部員もかなりプールサイドに集まってきていて、山崎先輩は僕を見ているでなく、横に立つ柏木先輩と何か熱心に話し込んでいた。  

チェ!なあんだ・・・

僕の泳ぎを見ててくれるんじゃ無かったんだ。  

落胆した僕は後ろ髪を引かれつつ、2軍にあてがわれている一番左端のコースに重い足を引きずりながら渋々戻っていった。

 

この二人は水泳部の先輩後輩だったんですね〜・・・

結構いい性格の秋人もまだこの辺りではネコかぶってます〈笑〉何となくセンパイって響きが私は好きなんですけど、みなさんはどうかしら?

「センパイ!」って特定の人のことを呼ぶときに使うけど、特定の子を「コウハイ!」とは呼ばないですよね?なんでなのかなぁ〜??