唇までの距離ディスタンス 〈三話〉

 

「渚。柏木部長が呼んでるよ」  

2軍の世話を引き受けてくれている花沢先輩が僕の所まで来てプールサイドの一番端にしゃがむ。

花沢さんはこれまた男にしておくのはもったいないほど美しい人なのだ。

なんとフルネームは花沢薫。まるで万葉の姫君の如く、濡れ羽色の髪にアーモンド型の大きく僅かに緑がかった黒い瞳。紅をさしたかのような赤い唇。  

小さな頃、気管支が弱くてご両親の薦めで水泳を始めたらしいのだが、たおやかな外見と華奢な身体に似合わず『僕って負けず嫌いなんだよ』と微笑む先輩も常に全国大会に出場する最強メンバーの一人なんだ。  

プールの中でたったままの僕を、花沢先輩は濡れたTシャツがぴったりと細身の身体にまとわりついた状態でつるりとした膝を抱えるようにして覗き込んだので、思わず僕は先輩の可憐さに赤面してしまった。

「なんだい?赤い顔して。部長に怒られるようなことでもしたの?」  

くすくすと鈴をならすような声で笑う。

「す、すぐ行きます」  

あたふたと返事を返して、プールの縁を掴むと腕の力だけで水からよじ登った。  

山崎先輩といい花沢先輩といい、どうしてこんなに綺麗な人が水泳部だけにいるんだか・・・・  

白いゴム製のスイムキャップをもぎ取って髪を横に振り、シャワールームの横にある八畳ほどの控え室に向かいながら首を傾げた。  

僕なんかが部長直々に呼ばれる理由は一つしか思いつかない。

この三ヶ月の間部長には挨拶しかしたことないし、僕の顔は校内で会っても部員だと解ってくれているようだけど、 まともに名前を呼ばれたことすらないので僕の名前を覚えていてくれているのかどうかさえ定かじゃないんだから。  

言いようのない暗雲が僕の胸に広がる。柏木には黙っててやるよといってくれたのに・・・

部長に怒られることよりも憧れの人と交わした約束をほんの数十分で反故にされた事の方が僕には何倍も悲しかった。  

控え室のドアの前に立って2回大きく深呼吸を済ませ、

「水谷です!失礼します!」  

元気よく声を掛けてからドアを内側に開けた。   

開け放った部屋の奥からコーヒーの美味しそうな匂いがふわっと漂い、プール独特のツンとした消毒液の匂いが染みついた僕の鼻孔をくすぐる。  

白いパイル地のローブを水着の上から羽織り長い素足を組んだ山崎先輩と、ローマ字で『KOURYOU』と校名の書かれたTシャツを被った柏木部長は、プラスチックで出来た白い椅子に座って、冷えた身体を暖めるために一年生が当番制で業務用の大型コーヒーメーカーをセットし、常に飲める状態にドリップされているコーヒーを紙コップに入れて飲んでいた。

「おおきたか。まあ、そこに座れ」  

柏木先輩は大仰に手招きすると自分の前に有る椅子を指さした。

「コーヒーにミルクと砂糖入れるかい?」  

その横から椅子の肘掛けに肘を置き、優雅に頬杖を付いた山崎先輩がニッコリと僕に訊く。

「ハ、ハイ。あ、えと・・も、申し訳有りませんでした<」  

引き込まれるような優しい笑顔につられて、つい、にこやかに返事を返してしまった僕は、慌てて柏木部長に向き直り深々とお辞儀をしたまま大きな声で謝った。

「あん?なんだ?」  

柏木先輩はびっくした熊みたいな顔で僕を見返した。

山崎先輩は足が長いせいか椅子に座るとそれほど大きく感じないが、全体的に大柄な柏木部長は椅子に座っていても立っている僕と目線はあまり変わらない。

「違うよ。水谷」  

椅子からスッと腰を浮かした山崎先輩は、頭を下げたまま固まっている僕の顎の下に軽く曲げた人差し指をあてがい、先輩の視線まで持ち上げると僕の瞳を捉えた。

「で、でも・・・」

「バカだな・・あれは二人だけの秘密だろ?」

「あ・・」  

麗しいお顔に至近距離で見つめられ、憧れの君から意味深な言葉を掛けられて、純情〜な僕の頬はたちまちパッと朱に染まる。

「なんだ?おい、秋人。一年坊主を誘惑しちゃいかんぞ。真っ赤かじゃないか!」  

ガハハと笑う部長に、

「誘惑なんかしないさ。

なあ、水谷。覚悟しておけよ。その気になったら俺はかなり強引に口説くタイプだからな」  

けろりと宣う。  

二人にからかわれているのはいくらおっとりものの僕でも解るのだけど、わざわざ僕をからかう為だけに呼ばれた訳じゃないだろう。 

にわかに呼び出された用件が解らなくなった僕は、困り果てて僕の前で冗談を言い合っている二人の顔を交互に眺めた。

「ところで、用件だがな。水谷、お前一軍に来る気有るか?」

「え?」  

僕はさっきからエメラルドグリーンのビキニを付けただけの貧弱な姿で、逞しい二人の前に突っ立ったまま、バカになったみたいに「ハイ」「え」「でも」しか言っていない気がする。  

先輩達はとりあえず僕を椅子に座らせて、コーヒーを手渡すと再び話し始めた。

「俺も前からお前が気にはなっていたんだ。

確かにお前はフォームもなっちゃねえし、その年まで我流で泳いできたんだから、そうすぐに直るって保証もないがな。

ただ、お前はほかの奴と水に対する何かが違う。そうそう秋人なんか、初めて・・・」

「柏木!」  

突然山崎先輩がガタンと音を鳴らして立ち上がるなり大声を出した。  

ヒェ〜<恐い!

普段静かな人だけに僕は驚いて咄嗟に顎を後ろに引いた。  

しかし、別に動じるわけでもない柏木先輩は僕を見たまま続けて、

「お前の泳いでる所を初めて見て言ったんだ」

「柏木!貴様!」  

山崎先輩は柏木先輩につかみかからんばかりに睨み付けた。

元が綺麗なだけに睨み付けると壮絶なほど恐ろしい。  

僕がもしこんな風に睨み付けられたらきっと縮上がっちゃうんだろうな。

「お〜恐。これは二人の秘密にしといてやるよ。な。アキト」  

柏木先輩は完全無欠の山崎先輩の弱みでも握ったみたいにうれしそーに山崎先輩を見た。 

小心者の僕はといえば、突然の先輩の豹変ぶりにさっきからバクバク心臓を打ち鳴らし、あの沈着冷静な山崎先輩でもこんな風に感情的になるのかと、憮然とした山崎先輩の整った顔をバカみたいに口を開けて眺めていたのだ。

「ともかく水谷はどうしたい?お前がその気なら毎日30分ずつでも時間を作って山崎が指導してくれるそうだ。

今までに比べると何倍も練習量が増えるし、さっき行ったようにお前が大会に出れるほどものになるかどうかは俺にはまだわからんから無理にとは言わないがな。一軍に来るか来ないかはお前次第だ、どうする?」  

突然真顔になって本題に戻った柏木部長に真面目に訊かれた。

「お、お願いします」  

山崎先輩が直々に指導してくれるという言葉にろくろく考えもせずに舞い上がってしまった僕は、はじかれたように椅子から飛び上がり即座に返事を返した。  

 

あれから半年、幾らなんでも、山崎先輩達のように国体やインハイに出れるエリート組とまではいけないけれど、ほかの部員がやきもちを妬くほど熱心に、それこそ自分の練習時間を割いてまで僕を見てくれた山崎先輩のおかげで、最初はかなり不審顔だった先輩達もが驚くほど僕のタイムは急速に伸び、ちょくちょく都大会ぐらいにはエントリーされるようになっていた。    

 

                *  *  *  *  *  *  *  *

 

「このタイムなら、次の大会はかなりいい線までいけるかも知れないな」

「僕、頑張ります!」   

大好きな先輩の言葉がなによりも嬉しくて、ガッツポーズを弾む胸の前に作った。

「よしよし、いい子だ」 

目元を優しげに和ませた先輩は、長い腕を伸ばして僕の手首を握ると力強く水の中から引き上げてくれる。  

プールサイドにあがった僕をいつものように用意して置いた大判のバスタオルで抱き込むようにして包んでくれた先輩は、今日に限って何故かしばらく黙ったまま僕を見詰めてタオル地の上から何度も僕の肩を優しく撫でた。

「疲れただろう。控え室でコーヒーでも飲んでしばらく休んでおいで」  

低い声で囁くと同時にその手を離し、ぽんぽんと撫でていた両肩を叩くと、溢れんばかりの優しい笑顔を僕に向けてから先輩は自分の練習に戻っていった。  

先輩の後ろ姿を見送る僕を羨望の眼差しで見詰めているほかの部員達がいることは百も承知だったけど、僕はみんなの憧れの的である山崎先輩のお気に入りであることに淡い優越感を抱いていた。

そう、あの日までは・・・・僕はみんなと違うんだと、僕だけは彼にとって特別な後輩なんだと何時しか信じ込んでしまっていたんだ。

たった数日後に、優しかった先輩が、あんなにも変わってしまうなんて僕には思いもよらなかったんだから。

 

優しくてカッコイイ、センパイに単純に憧れている渚なんですけど・・・・・

秋人ったら、そろそろ、いい性格の片鱗が見えて隠れしてますねぇ〜次回辺りからそろそろ本編と言ったところでしょうか・・・・・