唇までの距離ディスタンス 〈四話〉
「もう!渚が遅いから食堂一杯になっちゃったじゃないの!」
「えぇ〜!もしかしてまたドラキュラ城の横で食べる気?」
「贅沢言うんじゃないわよ!こんな時間じゃほかにゆっくり出来るとこなんかないじゃないの!」
4時間目が体育だったので片づけと着替えに手間取った僕は、先に購買でパンを調達してきた優梨子にまたもやがみがみと怒られながら、ガランとして人気のない渡り廊下を通った先にある古びた旧校舎脇の庭へと嫌々ながら引きずられていた。
大正時代の建物で今は資料置き場と化しているこの校舎はレトロな煉瓦造りで、中世の城のように春から秋に掛けてはびっしりと蔦の葉に覆われて、夕方になるとコウモリまで飛び交い、生徒達からドラキュラ城なんて呼ばれている。
肝っ玉の小さい僕は、蔦の絡まるおどろおどろしいその校舎に昼間でもあまり近づきたくは無いんだけど、優梨子に言わすと蔦を這わすのは冷房装置のなかった昔の人の知恵で気持ち悪いと思う方が可笑しいのだそうだ。
現実主義の優梨子に掛かると、夏の盛りに生い茂った蔦の葉が壁や屋根を覆い尽くすと室内の温度がかなり下がるから昔の人はわざと蔦を絡ましたのよと僕の懸念など笑い飛ばしてしまう。
そんなこと言われても気持ち悪いものは気持ち悪いのだからしょうがないじゃないか。
「渚のせいでこんな事になったんだから、つべこべ言わずにさっさと来なさいよね!
あたしは朝からカレーライスを食べようって決めてたのに渚のおかげでカレーパンに化けちゃったじゃないの<」
毎日こうやって昼ご飯時には必ずと言っていいほど優梨子に叱られる。これじゃあガールフレンドと言うより煩い小姑だよ。
全く・・・どうしてこんな事になったちゃたんだろう?
誰か僕に数ヶ月前までの静かな学園生活を返してよ。
「仕方ないだろ。僕は体育委員なんだから、授業が終わった後も色々片づけがあるんだもん」
「へ〜え。色々とねぇ?じゃあどうして同じ体育委員の吉田君はとっくに戻ってきてるのかなぁ?」
ちゃんとネタは上がってるんだからと言わんばかりに片眉を上げて優梨子は僕を振り返った。
「そ、それは・・・ 」
痛いところをズバリと指摘されて、僕はギクリと立ち止まった。
片づけに手間取ったのも本当だけど、こんなにまで遅くなったほんとの理由は実はほかにある。
体育館の用具入れに授業で使った高跳びの道具を吉田と一緒に運び込み行ったとき、がらんとした体育館の隅で一人黙々とバスケットのゴールにシュートをしている山崎先輩の姿に見とれてしまったからだった。
上着を脱ぎ、肘までシャツを捲りあげた先輩はリズミカルにボールを足下で数回ドリブルさせてから見事にシュートを決める。
幾らじゃまだてするデフェンスがいないといっても、投げる球全てが見事にゴールの網をくぐり抜けて先輩の元へと戻ってくる。
吉田が呆れ顔で先に行くぞと声を掛けた後も、僕はしばらくその均整の取れたフォームから目が離せずに立ちつくしたままだった。
何本も立て続けにシュートを決める山崎先輩がやっと一息ついたときに、僕は小走りに側に駆け寄り、いつもの気安い調子で明るく声を掛けたんだ。
「先輩凄いですね。これだったらバスケでもインハイねらえますよきっと」
ウエーブの掛かった乱れた前髪を揺らして振り返った先輩が僕を見た途端、あまりにも普段とかけ離れた冷たい視線に僕の笑顔が凍り付いた。
なに・・・?
山崎先輩は無言のまま真一文字に口を結びボールを体育館の隅にあるボール籠に戻しに行った。
手を伸ばせば届く距離まで戻ってきた先輩は無造作に床に投げ出してあった花紺のブレザーを拾うと、完璧に僕を無視してスタスタと体育館から出ていってしまったんだ。
「渚?食べないの?」
「あ、うん」
ドラキュラ城からほんの少し離れた芝生の上に優梨子と向かい合う形で座った僕は何度目かの溜息の後、優梨子が買ってきてくれた焼きそばロールにかぶりついた。
かなりソース味の濃い調理パンなのに、何故かなんの味もしやしない。砂を噛む思いで僕は次々と飲み込んでいった。
「渚?どうしたのよ。溜息ばっかり付いちゃって?」
優梨子に肩を揺すられて、ハッと我に返ると、どうやら僕は先輩の冷たい態度を思い出しながら、ブリックパックのコーヒー牛乳に差し込んであるストローの端を無意識のうちに何度もキリキリと噛みしめていたらしい。
いつもとかなり様子の違う僕を優梨子は心配そうに覗き込んでストローを取り上げた。
「だめだよ。こんなの囓っちゃ。あたし本気で怒ってるわけじゃないんだから。
ね?機嫌直して」
「あ、うん」
そのまま顔を寄せた優梨子が、そっと僕に唇を重ねてくる。
何度目のキスだろう・・・
優しく甘やかな、触れるだけのキス。
こんなものなのかな・・・いつもと同じとまどいを僕は感じる。
優梨子の肩に手を置いたまま、僕はどうしても拭えない違和感に視線を泳がせた。
ドン!!!
「なぎさ?」
僕に突き放されて傷ついたように悲しげな表情をした優梨子を気遣う余裕もなく、僕は慌てて手のひらでゴシゴシと唇を拭っていた。
僕の意識の中に無情にももう優梨子の存在は無く、蔦の絡まる煉瓦造りの壁にスラリとした姿態を預けたまま腕を組んで、睨み付けるように僕を見ている、ポートレートのような山崎先輩の姿から目が離せずにいたからだ。
本物のドラキュラ伯爵みたいだ・・・・
いつもは柔らかい物腰と優しい微笑みに誤魔化されて気が付かなかったけれど、山崎先輩の美貌がこんなにも魔性を感じさせるものだったなんて・・・。
日本人離れした秀でた白皙の額に通った鼻筋。
柔らかくウエーブの掛かった焦げ茶の髪に長い手足。
何より震えが走るほど冷たく鋭い琥珀色の綺麗な瞳。
「なんなの?渚。何を見てるのよ」
僕の視線の先を辿るようにゆっくりと振り向いた優梨子は一瞬身体を強張らせた後、素早く立ち上がり、スカートに付いた草を払おうともせずに新校舎へと走り去ってしまった。
「山崎・・先輩?」
金縛りが溶けて・・・・・・立ち上がった僕は小さな声で先輩の名前を呟いた。
途端、優梨子とのキスシーンを見られてしまったことを思い出し、カァーと頭に血が昇りドキドキと胸が激しく打ち始める。
蔦の絡まる赤煉瓦の壁に映る影を黒いマントのようにゆらりと揺らし、僕の側迄きた先輩が今まで聞いたこと無いような低い声音で呟いた。
「水谷。キスって奴はこうするんだ」
「・・・・」
つむじ風に巻き取られるように僕は先輩の広い胸に抱きすくめられていた。
熱く激しい口づけが僕の唇を奪う。
僕に廻された逞しい腕の強さ、有無を言わせずに貪られる息もつけない狂おしい口づけに膝ががくがくと震えて、か細い女の子が縋り付くみたいに山崎先輩のブレザーの肩口を拳が白くなるほど握りしめた。
く・・崩れちゃうよ・・・
「いつまで、抱きついてるんだ」
唐突に唇を離すと、背筋がゾッとするほど冷たい声で彼は言う。
「せ・・ん・ぱい?」
もぎ離された両手が宙を掻き、へなへなと膝が崩れ僕は地面にしゃがみ込んでしまった。
「お前って以外と下手なんだな。もっと上手かと思ってたよ」
ブレザーの襟を整えながら、蔑みの微笑を今さっき激しく僕をさらっていった口元に浮かべて、山崎先輩は吐き捨てるように言った。
去っていく先輩の後ろ姿をペッタリと座り込んだまま呆然と見送る僕には一体今の出来事が何なのか全然解らない。
唇に甘いしびれと、胸に激しい痛みを抱えたまま、自分のものだと思えないほどポッテリと火照った唇を指でなぞる・・・
夢じゃないよね・・・これって現実?
目を閉じてこんな事は全て悪い夢だと思いたい。
こんな事が本当に現実だとしたら僕の貧相な頭で考えつく先輩の急激な変貌の原因なんてたかが知れている・・・・・・・
彼は怒っているのだ。
あの優しい人が僕を傷つけ、蔑むほど、僕のしでかした何かに対して酷く怒っているのだ。
だけど僕がいったい何をしたというんだろう・・・?
それとも山崎先輩も多くの男子生徒の例に漏れず優梨子のことが好きなんだろうか?
その考えが浮かんだ途端なんだか凄く嫌な思いが腹の奥底から陽炎のようにゆらゆらと沸き上がってきた。
優梨子と先輩の楽しそうなツーショットを頭に描くとやけに様になって、僕は頭の中から二人の姿を閉め出すために大きく頭を振った。
僕は一体どっちに妬いてんだ?!
「ちぇ!なんなんだよ<」
おもむろに立ち上がり足下の小石を腹立ち紛れに蹴り上げたら、ついさっき先輩の凭れていた壁に当たってコツンと跳ね返り、新緑の蔦の葉が一枚はらりと落ちた。
かさかさとそよ風に鳴る蔦の葉の音に紛れて、僕のあてどのないジェラシーをあざ笑う魑魅魍魎(ちみもうりょう)の声が、誰もいるはずのないドラキュラ城の中からひたひたと聞こえてくるような気がして、僕は背筋をゾクッと振るわせた。
何故か優梨ちゃん贔屓のお客様が多いので、かわいそ〜って声が聞こえてきそうですが・・・・・・雪乃のせいじゃないのよ〜みんな秋人が悪いんだから〈責任転嫁/笑〉