唇までの距離ディスタンス 〈六話〉

 

僕の肩にほっそりした腕が廻されて、柔らかい声が掛かる。

「渚、おいで」  

花沢先輩が僕をプール脇の控え室に促す。

「そこにお座りよ」  

椅子に僕を座らせると、花沢先輩は壁際のコーヒーメーカーの所へ行き、僕を振り返った。

「コーヒー、渚は砂糖もミルクも入れるんだったよね?」

「は、はい」  

手渡された蒸気の上がる紙コップを、強張った指で口元に運ぶ僕を、花沢先輩は綺麗な瞳でじっと見詰めて、

「バカだな・・・唇、血が滲んじゃってるよ」 

労るように腕を伸ばし、そっと僕の額に掛かった髪を掻き上げてくれた。  

優しくされて、堪えていた悲しみが僕を襲う。  

花沢先輩はカップを両手に持ったまま俯いて肩を振るわせている僕の椅子の肘掛けに浅く腰掛けて、

「幾ら最後の大会が近いからって、秋人のあの言い方は無いよね・・・

今まであんなに渚を可愛がってたってたくせに。随分秋人らしくないことをする。

後で僕がちゃんと怒って置いて挙げるから。ね?」  

僕の頭を抱き込むように胸に押し当てて、よしよしとなでてくれる。  

ふたりっきりで美貌の花沢先輩の胸に抱かれているというのに、ドキドキするどころかなんだかやけに心地いい。

「んとに・・秋人もしかたないなぁ。

渚はいい子なのにね。

僕は渚が好きだよ」  

細い指がゆっくりと僕の髪を梳く。

「・・・・・僕も」  

父さんか母さんに抱かれているような暖かさに、邪な気持ちなど微塵もなくほんわかとした雰囲気の中で僕も言葉を返した。

僕の返事に、髪を梳く指が止まり、花沢先輩が幸せそうな悲しそうな何とも言えない表情で僕を見詰めて、ポツリと意外な言葉を零した。

「嫌いになれればよかったんだけどね・・・・無理みたい・・・」

「は、花沢せん・ぱい?」

驚いて先輩の美しい貌を至近距離で見詰め返したとき、

バタ、バタ、ドテ!

ドアのすぐ側で派手な音がした。 

転がるように遠ざかる足音に、僕と花沢先輩は何とも言い訳の出来ない状況にも関わらず、顔を見合わせて吹き出した。

「どうする?渚」  

ついさっきの愁いを帯びた声音とは180度違う涼やかな声で笑いながら、悪戯っぽく僕を見る先輩に、僕も笑いながら肩を竦めて見せた。  

案の定、プールサイドに戻ると、練習どころではなく、蜂の巣を突っついたような大騒ぎになっていた。  

バンドエイドを取りに控え室に来た一年生が、僕と花沢先輩の濃厚なラヴシーン(そんな風に見えたらしい)を目撃し、あげくに愛の告白〈?〉とその返事まで聞いてしまったんだから。

帰る頃には尾鰭まで付いて、キスしてたとか、いやもっと先までだったらしいとか、勝手な憶測が一人歩きをし始めていたんだ。    

 

帰り道を駅に向かっていつものメンバーで歩いていても今日は流石にテンションが高い。 

花沢先輩は山崎先輩とはまた違った意味でみんなの憧れの人なのだから。

「なぁ、渚。やっぱ花沢先輩のキスって甘いのかよ?

畜生<何で渚ばっかもてるんだ?」  

やたらと悔しそうに、いがぐり頭の順平が訊く。

「俺もおかしいと思ってたぜ。学園のアイドルの優梨ちゃんにあんなに惚れられてんのに、お前ちっとも嬉そうじゃないもんな」  

軟派の哲也の言葉に順平は、

「でもよー。優梨ちゃんはそりゃ可愛いけど、禁断の恋でも花沢先輩となら!て気になちゃうよ」  

今度は嬉しそうに宣う。

「ならって。お前どこまでよ」

「キ、キス」

「キスだけなら俺みたいに女の子専門で全然その気(け)のない軟派野郎でも、いんや、学校中のどんな野郎でも花沢先輩のキスを拒む奴なんかいねえだろう?」

「じゃ、じゃあ押し倒しちゃおうかな」

「ば〜か!お前なんか先輩が相手にするわけねぇだろ。

なあ、渚」  

下手に否定するのもよけいに変だろうと、一緒に帰る二人の勝手な会話を聞き流していた僕は、「さあね」と笑いながら曖昧に返事をして置いた。

「ラーメンかなんか食って帰らねぇか?」  

散々あ〜だ!こ〜だ!と騒いでいたかと思うと、突然話題がコロリと変わり、哲也が順平と僕に訊いた。  

水泳はほかのスポーツと比べてもかなり運動量が多いのでとってもおなかが空く。  

駅の高架下ある飲食店街を通って改札に向かう哲也と改札の向こう側にあるバスターミナルからバスに乗る順平と僕は、色んな食べ物屋が並んでいる此処でたいてい毎日腹ごしらえをしてから帰るのだ。

「僕は今日パス。母さんが田舎に帰ってるから、父さんと食事に行くんだ」

「ふ、ふ、ふ。ラーメンなんか食べたくないよな。薫さんの甘〜いキスの余韻なくなちゃうもんな」  

順平はニマニマと笑う。

「バカいってら」  

笑ってバイバイと手を振って二人と別れた。 

今日はやたらとキスに縁がある日だな。  

そう思った途端、さっきの騒ぎで忘れていた昼間の山崎先輩とのキスを思い出し『ポッ』と顔に火がついた。

同時にあの冷たい態度が僕の脳裏に蘇って来て、胸が締め付けられたように苦しくなる。  

家路に急ぐ人々で込み合う夕暮れのスクランブル交差点のど真ん中で、僕の足取だけが人並みに乗り切れず取り残された。    

 

 

「昨夜みたいに酔っぱらわないでよね」  

薄くスライスされた、霜降りの松阪牛を独特の形をした銅製のしゃぶしゃぶ鍋に箸で泳がせながら、僕は極上の日本酒、久保田の万両を着物姿の仲居さんに注文する渋い二枚目に忠告した。

「解ってますよ。

あ、きみ。猪口は一つでいいからね」

「は、はい。畏まりました」  

ピンクの鮫小紋を着た仲居さんは、着物の色と同じほど頬を紅潮させて、いそいそと座敷から出ていった。  

まあ、この人と居れば毎度おなじみの光景なのだけれど。  

彼は僕に柔らかい眼差しを向け、

「渚と食事に来て、お酒を頼むとグラスが二人分出てくるなんて、昨日ワインを頼むまで思いもしなかったよ」  

感慨深げに呟いた。

「そりゃ。僕だってもう高二なんだし、背だってとうに一七〇センチ越えてるんだもの」 

全くいつまでも僕の事を子供だと思ってるんだから。確かに精神年齢は実年齢よりかなり低レベルだと自覚していますけどね。  

先ほどの仲居さんが跪いて、上品に山水画の描かれた襖を引き、朱塗りのお盆に乗せた日本酒を座敷に運び込もうとしたのと同時に、彼はウットリと目元を細め、僕の頬を指先でつっつ〜と撫で上げながら、

「私の大事な渚・・」  

と囁いた。  

大袈裟なほど驚いた仲居さんは徳利ごとお盆をガタンと転がしてしまい、火を噴いたように真っ赤になりながら後始末をすると、

「も、申し訳ございません!す、すぐお持ちします<」  

あたふたと逃げ出してしまった。

「お父さん・・・・・

何処でも彼処でもそのフレーズ使わないでって、何度言ったら解るんです」 

口に運ぶと、舌の上でとろけるような上等のお肉を食べながら、上目遣いに睨み付けて少しきつく言ってやる。

「別に良いじゃないか。私は渚を愛しているんだから」  

少し拗ねた父さんは、横に脱いで置いた明るいグレーのスーツの上着の内ポケットからボックス型のタバコを取り出して一本抜き取ると、ダンヒルのライターでカチッと火を付けた。  

その拗ねた仕草がまた格好良くて様になり、我が父ながら、つい見とれてしまう。  

ご推察の通り、僕はかなり重症なファザコンなのだ。  

父さんは四一歳だが贅肉の全くないスレンダーな長身はどう見ても三五前後にしか見えないし、常にオーダーメイドのスーツを粋に着こなしているこの人からは幸か不幸か生活感という物が全く感じられない。どう見ても超エリートの独身貴族といったカンジ。

この人の最愛の妻である僕の母も決しておばさん臭くは無いけど、全然雰囲気が違う。

父が幾ら好きなものを買っていいよ言っても、動きやすいからとその辺のスーパーで買った千九百八十円のTシャツやトレーナーにストレートのブルージーンズを常に愛用し、如何にもどっしりと地に足をつけて生活してますって感じがするんだから夫婦って分かんない。  

そして残念な事に、見た目も性格も服の好み(センス?)も僕は完璧に母似なのだ。

「お父さんは少なくとも五歳は若く見えるし、とても僕と親子には見えないんだよ」

「どうして?誰がなんと言おうが渚は私の大事な息子だ。

愛しい息子に、愛を示して何が悪い。

最近はお前が嫌がるから、出来るだけハグもキスも我慢しているじゃないか」

「あ、当たり前だろう!此処は日本なんだよ」 

一年の内の大半を海外で過ごしている父さんは愛情表現もめったやたらと日本人離れしているから困ってしまう。

まあ、この人の風貌にはよく似合っているといえばいるのだけれど。

「渚だって小さいときは『パパ大好き!チュ』てしてくれたくせに・・・・」  

チラリと恨めしそうに僕を見る。  

一体何時のことを言ってるんだか。  

溜息が一つ零れた。

「ともかく、今後一切僕にハグもキスしちゃ駄目だからね。

昨夜みたいに酔っぱらってる時は特に駄目だよ!

ほんっとに人目も何もお構い無いんだから。父さんは良くても僕は恥ずかしいんだからね」   

あきらめ顔で諭した僕に、悪戯っ子みたいな笑顔を向けた父さんは、

「悪い、悪い。昨夜は晄が居なくてちょっとあれてたんだ」

臆面なく笑った。 

家の両親は不釣り合いな外見だけでなくかなり変わっていて、周りがこっ恥ずかしくなるほどの、まんねん新婚さんなのだ。

仲のいいのは良いことなのだが、かなりグローバルに仕事をしているせいで時々しか家に帰ってこれないお父さんが一月ぶりに帰宅したというのに、昨日はあろう事か田舎の婆ちゃんが階段から落ちて入院したという緊急連絡が入って、父さんの帰宅前に母さんは田舎に帰ってしまっていた。   

婆ちゃんの怪我が大したことじゃ無いのも手伝って、昨夜の誰かさんは嘗てないほどの大荒れだった。  

イタリアンレストランでしこたまワインを飲んだ父さんは、周りに誰が居ようがお構いなしに『私だけの渚』だの『愛している』と連呼するし、僕に抱きつくは、往来で突然キスはするわで大変だったんだから。  

今日は僕が学校に行ってる間に母さんから明日の昼頃帰ると電話が有ったらしく嘘のように機嫌が直ってる。  

二人でだけで貸し切るには広すぎる、緩やかにクーラーの効いたお座敷。

時折訪れる仲居さんが厨房に戻ってするであろうひそひそ話の格好の餌食になるのを承知のうえで、結局はなんだかんだと終始じゃれ合いながら、僕達は向かい合ってしゃぶしゃぶを楽しんだ。  

超のつくファザコン息子の僕は、どれほど文句を言ったとしても、ともかく父さんと居れればそれだけですんごく幸せなんだからどうしようもない。  

いい加減、父親離れしなきゃいけないって頭では解ってはいるんだけどな・・・・。

 

真澄パパ登場です〈笑〉私は結構お気に入りなんですが。リーマンものが今のところない我がサイトでは最年長の美形キャラですね〈笑〉スーツ姿の男性も素敵ですけど・・・・

薫さんも好きなんですが・・・・今ここで書くわけにはいかないか・・・コメントって難しい〈笑〉みなさんのご想像にお任せします(^-^)