唇までの距離ディスタンス 〈八話〉
無情にも朝はやってくる。
朝日が惑うことなく東の空に昇り、枕元にも幾筋かの日の光がレースのカーテン越しに射し込んで来た。
軒下ではちゅんちゅんと騒がしげに雀たちが鳴きだし、朝刊を配るバイクが住宅街を駆けていく。
今日もまた街は休むことなく、くり返し訪れる新たな一日に向かってあわただしく始動しだす。
これほど憂鬱な気分で目覚めたのも、こんなに切実に学校に行きたくないと思ったのも生まれて初めてだった。大っ嫌いな物理のテストがある日だってこんなにも気が重くはなかったんだから。
「渚、どうした?やけに食べないな?」
目の前にずらりと並べられたアメリカンスタイルの朝食を前にして食卓に腰掛けた僕は、ほとんど料理に手を付けることなくやけに苦いコーヒーだけを飲んでいた。
「昨夜、ケーキ二個も食べたからお腹空いてないんだ。ゴメンねわざわざ早起きして作ってくれたのに」
元来、健康的なモーニングパーソンである僕は夜はめっきり弱いけど、普段は朝からでもしっかり食事をとれるタイプなので、僕が身支度をしている間に父さんが腕を振るってくれていたんだ。
シルクのパジャマ姿で僕の前に座っていた父さんは、読んでいた英字新聞をコーヒーカップの脇に置いて不審顔で僕を見た。
「渚、少し顔色が悪いな。具合が悪いなら今日一日休んだらどうだ?」
「そ、そんなことないよ。僕、もう行かなきゃ」
父さんに心配掛けたくなくて、無理矢理自分を奮い立たせ、早めに出かけることにした。
大好きな父さんと居心地のいい家に居ればいるほど、山崎先輩(あの人)のいる学校に行けなくなってしまいそうだから。
でも、ぼくは玄関で靴を履いたまま、いったんドアを開けたものの最初の一歩が踏み出せず、パジャマ姿のまま玄関先に立って見送ってくれている父さんにギュッと抱きついた。
「どうした渚?やっぱり気分が悪いんじゃないのか?」
戸惑いながらも優しく髪を撫でてくれる。
あったかい・・・・・・・
「ううん。大丈夫。行ってくるね」
広い胸に頬を寄せたまま自分自身に言い聞かすように僕は言った。
「・・・・渚・・・」
何かに怯えている僕を励ますように父さんはしっかりと抱きしめかえしてくれる。
笑顔を作って弾けるように暖かい腕から離れた僕は、元気よく言ってきますと手を振った。
こんなんいじゃいけないんだ。何か有るたびに父さんの腕の中に逃げ込むなんて、これじゃまるで幼稚園児並じゃないか。
十七にもなって親離れできないんじゃどうしようもないよね。これじゃぁ父さんがいつまでたっても僕を子供扱いするのも無理ないよ・・・・・・・
苦笑とも自嘲とも付かぬ笑いが僕の頬を緩め、庭先で一人クスクスと笑いを漏らした。
笑いを浮かべたまま門を出た途端、僕の目の前にまた昨夜の幻覚が現れた。
昨日の昼と全く同じポーズで魔性の美神が斜向かいの家の白い壁に凭れてじっとこっちを凝視している。
まったく・・・・・・・僕って相当重症・・・・・・・
鞄を提げていない左手の拳でごしごしと目を強く擦った。
「こんなに、早く登校するのか?」
今度は幻聴まで聞こえてきた。
ぶんぶんと頭を横に振り、目を瞑って行き過ぎようとした僕の肘が指先できつく掴まれる。
「幾ら俺が嫌でも、無視しなくても良いだろう?」
ええ?ほっ本物?・・・
「晄さん、留守なのか?」
綺麗な形の眉を顰めて山崎先輩は僕の家に向かって顎をしゃくって見せた。
「え?か、母さんなら田舎に帰ってますけど」
「そうか、留守なのか・・・・」
ますます憮然と難しい顔になる。
僕の家は学校からバスに乗って10分ほどしか離れていない。随分近い事もあって、大会の後の打ち上げなんかによく使われたんだ。料理上手で、明るく、これまたかなり若く見える母さんを先輩達はおばさんではなく晄さんと名前で呼んでいた。
でも、いったい母さんが何だって言うんだろう???
掴まれている肘の痛さに、明らかに幻覚ではないと思い直した僕は、逆に僕を見下ろす瞳に冷たい嫌悪を浮かべている先輩の両腕をギュッと掴み返した。
「や、山崎先輩<僕解らないんです。幾ら考えても解らない。僕が何か先輩の気に障ることをしたんですか?
言って下さい。僕、悪いところが有ればちゃんと直しますから!!!」
情けなくも声が震え出す。
「・・・・・・・直りゃしない」
先輩は綺麗な顔を歪めて少し苦しげに言った。
「そ、そんなぁ・・そんなこと言わないで・・・」
「知りたいか?本当に?」
先輩の問いに強く頷く。
「別にお前は俺に何も悪い事なんてしちゃいない。むしろいつも通りにお前に接することの出来ない了見の狭い俺の方が悪いんだ。
俺が勝手にお前に幻想を抱いて、幻滅した。ただそれだけのことなんだから・・・・」
「僕が何をしたから幻滅したんですか?僕、先輩の言ってることが全然解らない・・・」
吐き捨てるような言葉や蔑むような視線が悲しくて、ポロリと涙が零れた。
僕の涙にほんの一瞬先輩の眼差しが和む。
「そんなに知りたいならついて来いよ」
先輩は僕をその場に置いてクルリと踵を返すと、さっさと歩き出した。
今頃になってやっと僕は先輩がVネックのトレーナーにカーキ色の幅の広いコットンパンツというラフな私服姿なのに気が付いた。
私服のままぼくの家の前で何をしていたんだろう?
新たな疑問がまた僕の心に浮かぶ。
フィラのハイカットのスニーカーで大股に数歩先を歩く、背が高く均整の取れた先輩の後ろ姿。真っ直ぐに伸ばされた背筋、その後ろ姿からも僕への怒りがヒシヒシと感じられる。
何がどうなってしまったのかがわからない・・・あんなにも目を掛けていてくれたのに、ほかの部員達から依怙贔屓(えこひいき)だとやっかまれる程に僕を可愛がってくれていたのに・・・。
小学生達が黄色い帽子を被り赤や黒やピンクのランドセルを背負ってにぎやかに集団登校していく通学路の端を、対照的に黙り込んだまま僕たちは少し離れて歩いていた。
10分ほど歩いただろうか、着いた先は住宅地に一際際だってそびえ立つ背の高い大きなマンションだった。
僕は一度も訪れたことは無かったけれど先輩の両親と妹さんは半年ほど前に転勤で北海道に行ってしまったとかで、郊外にある一軒家は人に貸して、受験を控えた先輩は僕の家の近くのマンションに越してきたんだとうわさ話だけは聞いていた。
入り口のドアの横に設置されているオートロックの暗証番号を素早く押した先輩はスタスタとマンションの中に入っていく。管理人室の真ん前にある2機のエレベータのまえで止まり、人差し指で上ボタンを押す。
エレベーターが下りてくるのを待っている間シンと静まり返ったエントランスホールの中でつややかに磨かれた鏡のような銀色の扉に僕と先輩の姿がぼんやりと映って見えていた。
青白いライトが照らす狭いエレベーターに乗り込んだ僕は、元々密室が苦手なこともあって、大きな先輩の圧迫感に背中を向けていても息が詰まりそうになる。
チンと音を立てて扉が開くと、貯めていた息をはぁ〜と細く長く吐いた。
うかうかしているとこの場に置いて行かれてしまいそうで、廊下に出た僕は振り向きもせず歩いていく先輩の後を急いで追う。
部屋に着いた先輩は、僕の緊張など全く知らないと言わんばかりに無造作に束になった鍵をズボンのポケットから取り出し憮然とした態度のままドアを開けていた。
「入れ、誰もいない」
ぶっきらぼうにそれまでずっと真一文字結んでいた口を開いた。
「おじゃまします・・・」
びくびくしながら僕は玄関に靴を脱いで、先輩の後に付いていった。
高校生が独りで住むには信じがたいほど広いというか高そうなフラット。
先輩の性格なのかそれとも片づけてくれる彼女(ひと)がいるのかモデルルームのように塵一つなくきちんと片づけられていて、キッチンカウンターの上にはご大層にも深紅のバラの花まで生けてある。
大きな窓のあるリビングにカウンターの向こうにあるキッチン。そのほかにもベッドルームが少なくとも二つはありそうだ・・・
この部屋はかなりの高層階らしく窓には人目を気にする為のカーテンが無く、日よけのためのロールカーテンも今は全て巻き上げられている。
広々としたリビングの大きな窓からは僕の住む町が一望に見え、ドールハウスのような小さな家が眼下に点在している。
遠くに見えるスモッグに霞んだ都心の高層ビル街。その間に挟まれた、小さな家々。一つずつ探していけば僕の家も見つけることが出来るだろうか。
この窓にたたずんだまま恋人と一緒に眺める夜景はきっとものすごく綺麗だろうななんて考えると、僕は無意識のうちに下唇をそっと指さきでなぞっていた。
「誰とのキスを思いだしているんだ?」
手首を取られて初めて唇をなぞっている自分に気づいた。
「だ、誰って・・・?」
大きく目を見開いた僕は、片手を掴まれたまま腰を先輩の左腕にすくわれて毛足の長いムートンの敷物の上にストンと尻餅を付く格好で落とされた。
「な、なにするんですか!?」
大きな体が僕の上にのし掛かり、起きあがることが出来ない。
間近に整いすぎた顔がせまり煙る瞳が僕を捉えた。
ドクンと胸が跳ね上がり、咄嗟に顔を背けた僕の唇を山崎先輩の唇が塞ぐと昨日と同じように無言のまま激しく蹂躙する。
吐息まで奪い取るように舌先が絡みつく深い口づけと、覆い被さる先輩があまりにも大きくて恐ろしくなった僕は力一杯腕を突っぱねた。
「恐い先輩。やめて<」
真っ赤に染めた首を横に強く振って、身体を捩る僕。ほんの少し息をあげただけの冷静な先輩。
「ハハン。可愛い子ぶるなよ」
取り乱すほど狼狽している僕とは対照的に冷淡に笑う。
「・・・・・先輩?」
「女の子相手じゃその気にならなくても、男、好きなんだろう?」
苦しげに眉を顰めて、再び僕の唇を貪った。
なに・・ナンテイッタノ?・・・
さっきの恐いぐらいに激しいキスが甘やかな愛撫するようなキスに変わり、快い甘いしびれに我を忘れそうになった僕の身体から力が抜けていく。
知らぬ間にシャツが捲り挙げられ、僕の浅黒い素肌に先輩の白く長い指が触れ、僕は思わぬ戦慄に身体を震わせた。
遠くからカチャカチャとベルトのバックルが外される金属音が聞こえる。
僕のベルト・・?・え・?ええ?
「やめて!やめてぇ!だめぇぇ!!」
おもむろに身体を先輩からもぎはなして僕は身を守るように自分の身体を両腕でしっかりと抱え込んだ。
こ、こんなところで、止めるなよ〜って怒られてしまいそうですね〈爆〉
おっほほ。。。でも、P数の関係上仕方ないのよご免なさい(~o~)
次回を待っててねぇ〜