唇までの距離ディスタンス 〈九話〉

   

気が付くとブレザーどころかシャツのボタンも全て外れて胸ははだけ、緩められたベルトの下からは下着の端まで覗いている。

・・・・はあぁ〜、滅茶苦茶恥ずかしい。

なんともはしたなく乱れた格好。 

きちんと衣服を着たままの毅然とした先輩の前で、僕だけがこんなにも乱れてしまったのかと思うと耐え難い羞恥に消えてしまいたい。

「震えてるのか?ふふん、今更可愛い子ぶるなよ、初めてじゃ有るまいし。十分最後まで俺を楽しませてくれ」  

上体を屈め、はらりと掛かった前髪を長い指で掻き上げて、煙る睫毛の間から射るように僕を見詰める先輩は震えが走るほど美しい。

でも悲しい事にその美しく冷たい顔からは僕への愛情なんか微塵も感じられやしない。

「僕をどうしたいんです?僕を辱めるのがそんなに楽しいんですか?」  

先輩の冷たい視線に触発されたのか、僕の声はまだ僅かに震えてはいるものの、自分でも信じられない程冷静に聞き返した。  

苦渋が口内に拡がる。

楽しかった思い出も、二人で頑張ってきた厳しい練習も総て汚されてしまった。   

先輩に憧れていたのに・・・・先輩が誰よりも大好きだったのに・・・・・・・  

声にならない声で呟くと、付き物が落ちたように僕から恥ずかしさもとまどいも消えて、言いようのない悲しみだけが残った。  

乱れた衣服を素早く整え、悲しみを堪えて毅然と頭を上げる。

「あなたは、僕に幻想を抱いて、幻滅したって言ったけど・・・僕はその言葉をそのままあなたに返します。

あなたはどれほど僕があなたに憧れていたか、どんなにあなたに目を掛けて貰えることが嬉しかったかなんてわかってやしない。

僕にとって大会での成績なんてそれほど重要なことじゃなかったんだ。

ただ僕の成績が延びるたびにあなたが本当に嬉しそうに僕を褒めてくれる事だけが僕の喜びだった。

あなたが僕をこんな風に蔑んでいたぶるほどじゃまだというのなら、もう部活にも顔を出しません。

今まで色々とご迷惑をお掛けしました」   

想い出を振り切るように立ち上がった僕はむっつりと押し黙ったままの先輩に深く一礼した。  

背を向けて後一歩で部屋から出ていこうとした時、僕を研ぎ澄まされたナイフで斬りつけるような悲痛な叫びが追いかけてきた。

「お前は!お前は俺では駄目だというんだな!?

俺がお前を抱くことが何故いたぶることになるんだ?

お前こそ男に抱かれてるくせに!!

俺の前では天使みたいになんにも知りませんて顔してかわいこぶって、その実あんな奴にべたべた甘えて喜んでるくせに!!

何故俺では駄目なんだ?

俺のどこがいけない!!お前こそ俺に教えてくれ!!」  

ビックリして振り向いた僕の肩越しにある山崎先輩の綺麗な顔が苦しそうに歪んでいる。  

男・・・に・抱かれる?

僕がぁ〜???

「は、花沢先輩と僕はそんな関係じゃ有りません!!」

「誰も薫の話なんかしてないだろう!!」  

今度はかみつくように怒鳴られた。  

本当に二日前までいたあの穏やかで優しく麗しい僕の大好きな山崎先輩と今目の前にいる冷たく横暴なこの男は同一人物なんだろうか?

「じゃ、じゃあ。誰と僕がそのぅ・・したって言うんですか?」  

ますます訳が分からない・・・

「昨日も、一昨日も一緒だったじゃないか」

「はぁあ???」

はて?誰と居たっけ?

「肩だかれて、往来でキスまでして、あげくに晄さんが留守だからって、お前・・お前・・家にまで引っ張り上げて。

俺がキスしたら嫌がって逃げるくせに!あいつにはとろけるような顔をするじゃないか!

『わたしの渚』なんて呼ばせて喜んでるじゃないか!!」  

イライラと自分の拳を口元に当て、吐き捨てるように言った。  

それって、ふてくされて拗ねてるんですか?

山崎先輩?あなたが・・・?

「俺なんか言いたくても恥ずかしくて『俺の渚』だなんて言えないのに・・・・・・・」  

僕から視線を逸らした横顔が何故かピンク色です山崎先輩。

それって・・・それって・・・もしかして?

「ぼ、僕のことが・・・もしかして・・好きなんですか!?」   

信じられない思いで聞き返す。

「お前は?・・・・・・俺が嫌いか?」  

いつも一つ違いだなんて思えない程大人のあなたが僕なんかを相手に首まで真っ赤になるなんて・・・

こんな事きっと誰も信じないんだろうな。

「き、嫌いじゃないですよ」  

嫌いじゃないけど・・・

この好きって言うのは、昨日花沢先輩が僕に言ってくれた好きとか僕が先輩に対して持っている憧れのような大好きとはたぶん違うスキだよね?

「俺が好きか?渚?」

「え?あ・・それはまあ・・・」  

信じられない突然の告白に立ちすくむ僕へと少しずつ先輩はリビングを横切って近づいてくる。

「俺は渚が好きなんだ。ずっとまえから・・・・」  

距離を保とうと後ずさりをして壁にぶち当たってしまった僕の頬を、恐る恐る先輩の大きな手が包む。

「俺から逃げないでくれ。

あんなオヤジにお前を渡したくない」  

オヤジ・・・!?

ああ〜!!!!やっと解った!!  

とっくに解ってもいいはずなのに、あまりのショックに今の今まで先輩が誰のことを言ってるのか皆目検討が付かなかったなんて・・・・・・・

はぅ〜う。。。僕はやっぱりのろまです。ああ、ご免なさい。僕ってかなり抜けてる。

「先輩・・もしかして昨夜9時頃国道沿いの本屋に居ました?」

「俺をからかってるのか?ちゃんと目が逢ったじゃないか」

眉をきつく絞り、先輩は低い声で応えた。   

何とも不思議な気分・・・ずっと張りつめていた緊張と疑問が解けてクックッと笑いが込み上げてきた。

「何が可笑しいんだ?」  

突然の笑いに、ふれ合うほど側にある先輩の身体が傷ついたように強張るのが解る。

「つまり・・やきもち妬いてるってことですか?」

「そうだ!」  

可笑しそうに笑う僕を憎々しげ見詰めて吐き捨てた。

「確かにあの人は所構わず僕にキスしたり抱きしめたりするけどそこまでですよ。

それ以上の関係なんて絶対あり得ないんだから」

「なんであり得ないんだ?」  

疑い深げに僕の顔を覗き込んでくる。

「実の父親と関係持ったりしたら、やっぱまずいでしょう?」  

幾ら重症ファザコンの僕とはいえ、とてもとてもそこまで背徳の域には行けませんよ。

「なんだって?」  

意味が判らないとばかりに苛立ちを込めて聞き返した。

「父なんですよ。僕の」

「お父さん??あれが?」

「確かに若く見えますけどね。あれでも四十路(よそじ)越えてるんです」

「ぜ、全然・・・・・に、似て無いじゃないか」

「そうなんですよ。悲しいことに何故か全く似なかったんです。それに僕がカンペキ母似なのは先輩だって知ってるじゃないですか」  

昨日からずっと険しかった顔にようやく安堵の色が伺える。

「信じていいのか?」  

長い息を吐いて呟いた声のトーンも幾分和らいだ。

「傷ついちゃうな僕。先輩に嘘付いたことなんか今まで一度だってないのに。僕が信じられませんか?」

「でも、父親が息子を抱きしめたりキスしたりするか普通?」

「海外暮らしが長くて、愛情表現がちょっと過激なんですよ。あれには僕もいい加減困ってるんです」

「じゃあ・・まだ・・お前その・・」  

先輩は急に恥ずかしそうに言葉を濁した。

「え・・・・?まだって・・・キ、キス以上の経験なんて僕に有るわけ無いじゃないですか・・もうっ!何を言わせるんです!嫌だな」  

僕も照れくさくなって冗談ぽく笑った。

「ああ、渚。もう誰にも渡さない・・・」  

低い言葉と供に息が止まるほど強く抱きしめられた。

 

なんだか、バタバタの一話ですねぇ〜

次は最終回です。

まあ、なるようになるんでしょうけど、後少しお付き合いくださいね。。。