** Sweet baby sweet 2**
「あ〜ちゃん?あ〜ちゃん!」
僕の事も秋人のことも、もちろん母さんの事も“あ〜ちゃん”と呼ぶ千波は、母さんを捜しているのか、部屋中をキョロキョロ見回して、テーブルの付いたベビーチェアーの上で、落ち着かなく動こうとする。
「ちーちゃん!ほら、美味しいよ。あ〜ん!して」
そんな千波の機嫌を取りながら、器用にスプーンを使って秋人は四角いプラスチック容器に入ったベビーフードを食べさしている。
僕の方は母さんのエプロンをつけて、いそいそと二人分の食事を作りながら、さっき沸き上がった懸念は、僕の思い過ごしだと思いこもうとしていた。
きっと、千波が寝てしまったら、
『渚。愛してるよ』
とかなんとか、言いながらギュと僕のことを抱きしめてくれるに決まってるんだ。
某ホテル印のビーフシチューの缶を開け、鍋で暖めなおしている間にサラダと籠に盛りつけたパンをテーブルに二人分綺麗に並べながら、あんな事、こんな事を一人で考えている自分が妙にエッチに思えて、両手でぎゅっ!と自分を抱きしめると、僕は一人で顔を赤らめて、ハート型の溜息を吐いた。
しばらくして秋人が少しウエーブのかかった髪をかっこよく掻き上げながら、長い足で軽々とキッチンと居間を仕切っているベビーゲートを飛び越えて入ってきた。
「う〜ん!旨そう。あれ?渚。もうワインの味見したのか?ん?」
僕の上気した顔をつぃっと持ち上げて秋人が悪戯っぽく訊く。
「ち、違うよ!シチュー暖めてたから、ちょっと火照っちゃったんだ」
間近に秋人の整った顔を拝顔して、あたふたと足掻いている僕を後目にさっさとテーブルにつくと、
「ちぃーちゃん、ミルク飲んで寝ちゃったんだけど。このまま朝まで寝るのかな?」
秋人は目の前のワインボトルに手を伸ばし、形のいい指で瓶を掴むと、手慣れた仕草でコルクを抜きながら僕に訊いた。
僕はムフフと緩みそうなほっぺを引き締めて、
「あ、うん。たぶん。さっきお風呂も入れちゃったし。いつもは朝までぐっすり寝てるみたいだよ」
鍋をかき回しながら返事をした僕は、さっき一人で考えてた、あんな事や、こんな事がまたまたぐるぐる頭の中を回って、なんだか急に胸が息苦しくなってきた。
僕は心の動揺を察しのいい秋人に悟られないために、拳が白くなるほど、流し台の縁をギリッと握りしめた。
「じゃあ食べようか?ほら、渚。ワイン少しにしとけよ」
シチューをお皿によそってテーブルについた僕に向かって、秋人はワインボトルを持ち上げた。
僕のグラスに三分の一ほど入れてやめようとする秋人に、
「今日はレストランじゃないんだから、ちゃんと入れてよね」
グラスを前に突きだした。
そんな僕に秋人は肩を竦めたものの、もう一度ボトルを持ち上げて、なみなみとワインを注いでくれた。
だって・・・・しらふなんかで居られない。
僕は意を決して、“グビッ”とワインを飲み込んでから言った。
「え〜とね・・秋人。あのね・・・今夜の部屋の事なんだけど・・ぼ・ぼく・・」
所が秋人は僕の言葉を遮るように、
「ああ。悪いな、渚。ちーちゃん起きないんなら、俺、明日の朝改めて来るわ。柏木に頼まれてるレポート仕上げなきゃならないんだ」
「・・・え?」
今、なんて言ったの・・ねえ。
「悪い!夕飯だけ食い逃げみたいでごめんな」
片手を顔の前に挙げて軽くウインクをよこす秋人に、足下が崩れそうなショックにも関わらず、赤面してしまう自分が情けない。
「べ、別に良いけどさ。どーせ千波は朝まで起きやしないんだから」
張りつめていた肩の力が抜けると、俄然腹が立ってきた。
一人憤慨してバリバリとサラダを食べる僕の前で、秋人はまるで外国映画に出てくる俳優のように優雅に食事をしていた。
「じゃあな!また明日の朝来るから。そうそう、明日動物園にでも行くか?」
玄関に立って靴を履く秋人の姿がゆらゆらと揺れて重なり、3重に見える。
「・・うん・・いく・・・・ひさしぶり・・らね。表で、レート、するの」
あれぇ〜。なんだか舌が旨く回らない。そう言えば止める秋人からボトルをもぎ取って何杯飲んだっけ?
「そりゃ渚は地獄の受験生だったからな。あ〜あ。だから言ったろう?こりゃだいぶ回ってるな」
ちゃんと立って居られずにふらふらと秋人に寄り掛った僕は、指先で優しく頬を撫でられて堪らず秋人の首にしがみついた。
「・・・あきとぉ」
ぶら下がらんばかりの僕を秋人はしっかり支えて立たそうとするのだが、酔いも手伝ってか熱い想いに、ちゃんと立っていられない。
初めて自分の方から誘うように目を閉じて次ぎに訪れるであろう秋人の接吻を待った。
「渚・・」
少しの間をおいて、秋人は驚くほど激しく口唇を重ねてきた。塞がれて息もつけない激しさに、今まで漠然としか分かっていなかった自分の切ない気持ちが痛いほど身に染みた。
心の奥深くで秋人を求めていた想いが、嵐になって僕に秋人を求めさせる。
秋人の本当の恋人になりたい。
「お願い秋人・・帰らないでよ。僕を置いていかないで」
睫毛を伏せたまま、甘い甘い吐息を吐いて、僕は秋人に囁いた。
僕の言葉と同時に、きつく僕を抱きしめていた秋人の腕から力が抜ける。
不思議に思って見上げた僕の目の前に冷ややかな秋人の瞳があった。
秋人の何の感情も浮かべない氷の眼差しを見た途端、音を立てて僕の身体からワインの酔いが嘘みたいにサッと引いていく。
「悪酔いしたな渚。お休み」
元々怖いくらい整った顔に、チラリと口元にだけとってつけたような笑みを浮かべて秋人がドアを開いて出て行った。
信じがたい気持ちのまま、壁により掛かってずるずると滑り落ちながら、僕はドアががちゃりと閉まるのを、ただ為す術もなく茫然と眺めていた。
瞬く間に瞳の奥が猛烈に熱くなって、何も見えなくなった。
秋人に嫌われちゃったんだ。
僕が変な事を考えてるのが解って、きっと僕に幻滅したんだ。秋人が僕と結ばれたいと思っていたなんて、僕の勝手な思いこみだったの?
秋人。分かんないよ。最初に愛してるって・・言ってくれたのは秋人じゃないか。
のろのろと二階に上がり、這うようにベッドに潜り込むと、僕は初めて知る恋の痛みに眠ることも出来ず、何度も寝返りを打った。
やっと遅い春がやってきて、色とりどりの花々がチラホラと咲き始めた、ほんのりと暖かい動物園は、土曜日ともあって大勢の親子連れやアベックで賑わっていた。
「ほ〜ら!ちーちゃん象さんだぞう!」
「わ〜わん!」
「違うよ。ぞうさん」
「にゃ〜にゃ?」
「ぞ・う・さ・んだってば」
秋人と千波は象の前で漫才をしている。
人気の動物は人垣が出来ていて、僕なんかには見にくいんだけど、背の高い(一八三センチだそうだが)秋人に肩車された千波は今日もまた、ご機嫌である。
僕はと言えば、秋人に嫌われたくない!と言う健気な恋心に、何もなかったかのように振る舞うのが一番だと思い、努めて明るく振る舞っていた。
こうしていれば昨夜の事はきっとお酒のせいだと思ってくれるよね?
今まであまりにも無防備に愛されていると信じ切っていただけに、ひたひたと不安がうち寄せてくる。
よくよく冷静になって考えてみれば、こんなに何もかも、三拍子どころか四拍子も五拍子も揃った秋人が、これといって、美少年でもなんでもない僕を好きになることじたい、とっても変なことなんだよな。
僕は父さんに溺愛されて育ったせいか、この眉目秀麗で頭もスタイルもいい秋人に告白されたとき、おめでたいほど舞い上がってしまったものの、まさか?とは思わなかったんだ。
今だって、秋人が僕を故意に騙していると思ってるわけじゃない。
あの時は確かに僕を誰にも渡したくないと一時的に思ったのかもしれない。
でも誰だってとってもよく自分に懐いている、子猫や子犬を他の人に取り上げられたら嫌なんじゃないか?
当時の僕はまさに秋人に口笛を吹かれれば、喜んで尻尾を振ってまとわりつく、無邪気な子犬のようじゃなかったか?
秋人のそんな感情が、僕なんかより何倍も可愛い千波に移ってしまったんだとしたら、最近の秋人の僕に対する態度にも簡単に説明が付くじゃないか。
恋人のように愛されてると信じて、その気になってた僕はなんてバカなんだろう。
同じ愛でも単にペットのように溺愛する対象でしかなかったなんて・・・
それじゃあ?千波さえ居れば、もう僕はお払い箱なのかな・・・なんて終わり方なんだろう。
新しい恋人が出来たんだと言われた方がずーっとましだったのかもしれないや。
真実を目前に突きつけられて、広い秋人の背中をじっと見詰めた僕はなんとも言いようのない無力感に襲われた。
「ちーちゃん!あそこのライオンさん見てごらん」
のんびりと寝そべっているライオンの檻の前まで来ると、千波は秋人の肩の上でライオンを見もせずに目の前にある栗色の髪を引っ張って遊びだした。
「あ、こら」
「だめだよ、千波。秋人の髪引っ張っちゃ」
「あ〜い!」
「あ、いててて!」
返事だけは素直だが、その紅葉のような小さな手にしっかりと戦利品を掴んで千波はころころと笑った。
秋人も口では怒っているものの、そんな千波が愛しくて堪らないといった笑顔で、肩から下ろした千波を、何度もぽーんと高く放りあげては抱き留めていた。
僕の複雑な心なんかお構いなしに、和やかな雰囲気の二人はお昼にする事にしたらしい。
秋人は朝のうちにコンビニで買ったサンドイッチをほおばりながら、またしても千波に甲斐甲斐しくベビーフードを食べさせている。
「ちーちゃん、ジュースも有りますよ」
秋人はまた千波にだけ、優しい笑顔を向ける。
今朝から秋人は僕と視線を合わせもしなければ、ほんとに最低限、必要なことでしか僕と口をきこうとすらしない。
僕は僕で、秋人が千波にだけ向ける笑顔があまりにも眩しくて、段々と笑顔を浮かべていることすら困難になってきていた。
一人っきりで自動販売機で買ってきた、暖かい缶コーヒーを両手で包むように持ちながら、ぽかぽかと暖かい日溜まりに敷かれたレジャーシートにごろりと寝ころんだ。
心地よい日差しにあまりにも不似合いな僕の想いを悟られないように、僕は秋人に背中を向け、込み上げてくる嗚咽を漏らさないように、缶を持ったままの手の甲をきつく噛みしめていた。
「渚?ちーちゃん寝ちゃったから、そろそろ帰ろうか?」
「・・・ん?」
寝ころんだままの僕の上から、秋人が覗き込んでいる。どうやら昨夜あんまり眠れなかったせいかウトウトしちゃったらしい。
「ごめん。ジャケット掛けてくれたんだ?」
気がつくとすっぽりと大きな秋人の上着に包まれていた。
『ああ、秋人の匂いだな』
ゆっくりと上体を起こした僕は顔を埋めるように、しばらくジャケットを抱きしめていた。
「目、まだすっきり醒めないのか?」
動こうとしない僕に、秋人は優しく訊く。
そんなに、優しい声をかけないでよ。僕はまた勘違いをしてしまう。
「大丈夫」
作り笑いを浮かべてジャケットを返す僕の指に秋人の指が触れ、僕はとっさに怯んで後ずさった。
動揺を隠すために慌てて立ち上がり、
「帰りは僕が抱いて行くから」
すやすや眠っている千波を抱き上げて、まだシートの上に座ったままの秋人から、逃げるように歩き出した。
青々と芽吹きだしたポプラ並木の木漏れ日の中、僕のやるせない想いを千波の甘いミルクの匂いが包んでくれる。