*あなたの声が聴きたくてI*

 

ドアチェーン越し、僅かな隙間から、ガウンを羽織った未知の姿が見えた。

「起こしちゃった?」   

乳白色の透けるような胸元が露わに見えて、微かに漂う甘い薫りに啓士はドキマギしながら、頬に作り笑いを浮かべる。  

翳りを帯びた表情のまま、未知は横に首を振り、隙間から右手を出して、エレベーターホールの方角を指さした。

「なに?エレベーターがどうかしたの?  それよりドアを開けてくれないかな?

ここ、凄く冷えるんだ」  

啓士は笑みを浮かべながら、寒そうにキュと肩を竦めてみせた。  

仄かに灯りが漏れる暖かそうな未知の部屋とは対照的に薄暗く閑散とした広い廊下は、キンと空気が張りつめるほど冷え上がっている。  

しばらく啓士をじっと見詰めていた未知が、再びゆっくりと首を横に振った。  

と、さっきの薫りが今度ははっきりと啓士の鼻孔に届いた。   

甘い薫り・・・・  

甘い、コロンの薫り・・・・  

これは・・・確か・・

「み、ちさん?」  

馬鹿な・・・そんなこと・・・  

でも、この薫りは・・・  

コロンの名前なんか全然知らない啓士だが、この薫りには覚えがあった。  

兄のように慕っていた、お洒落にうるさい従兄弟がいつも好んで付けていたからだ。

かなり個性的な甘い薫りのする男性用のコロン。  

銘柄は確か、 『アラミス』  啓士は名前を教えてくれた従兄弟に、三銃士の剣士と同じだねと言ったことがあった。  

未知はコロンなど付けてはいない。  

何度も寄り添い、あまつさえ腕の中に幾度も抱いたのだから、啓士の憶え違いなんかではないはずだ。   

間違いなく未知は今まで、コロンなど一度も付けてはいなかった。   

 

啓士の脳裏に不意に逞しい男の姿が浮かび上がる。  

未知と一緒に店にいた30過ぎの金持ちそうな男。  

あの男がこのコロンを付けてはいなかったか?  

 

いくら、尋ねてきたところで同じ部屋に何時間いたとしても、移り香などそうそう、身体に染み込むはずなど有りはしない。

「う・・そ・・・・」  

啓士の顔からサッと一気に血の気が引いていく。    

 

素肌にまっとったガウン。  

初めて見る未知の潤んだような瞳。  

甘い移り香。  

未知が何を語らなくとも、啓士を部屋に入れてくれない理由は、自ずと明らかなのに沸き上がる疑念を、どうしても認めたくはなかった。  

違うと言って欲しかった。  

やっと腕が通るほどの隙間から手を差し込んで未知の細い腕をガウン越しにきつく掴む。

「違うよね・・・?  

俺の・・・思い過ごしだよな」   

声と同じように、情けないほど啓士の膝が小刻みに震え出した。  

しばしの沈黙が二人を包む。

 

「未知」  

その時、太くハッキリとした声が静寂を突き破った。

「なんだ?君は!」  

バスルームから出てきたところなのだろう、濡れた髪をタオルで拭きながら、男が玄関に現れた。  

咄嗟に、未知があわてて、男を押しとどめる。

「未知?ダメじゃないか、こんな時間にドアを開けたら。

君は・・・」  

子供を諭すように、未知を腕の中に包み込んでから、再び啓士に視線を戻した鹿川は、いったん扉を閉めてからチェーンを外し、啓士を招き入れた。

「たしか、松島啓士君だね。未知から色々と訊いているよ。こんな所ではなんだから、まあ、なかに入り賜え」  

不遜な笑みを浮かべて、鹿川はまるで我が家のように、啓士を奥に促した。    

未知から色々と訊いている?    

その言葉に啓士は愕然と立ちすくみ、男の腕から逃れようとしない未知を凝視した。

何もかも未知のお遊びに過ぎなかったのだろうか?  

キリッと噛みしめた奥歯に苦渋が沸き上がってくる。  

 

「未知、ブランデーを入れてくれないか?」  

ソファーに深く腰を下ろした鹿川は、

「君は?」  

未知にそう言った後、啓士に尋ねた。

「俺は何もいりません」  

啓士は、なれた手つきでデキャンターからお酒をグラスに注ぐ未知を目で追いながら低く答えた。

 

「未知はこんなだから、君みたいにのぼせ上がる男は後を絶たない」  

グラスを鹿川に渡し、キッチンに向かう未知の背中を観ながら鹿川が言った。

「まあ、程々にするんだな。君に未知は飼えないだろう」  

掌で優雅にグラスを二、三度コロがしたあと、ブランデーを口に運んだ。

「か、う・・・?飼うって何だよ!」  

鹿川の言葉に啓士が叫んだ。

「未知は私にとって、綺麗で大人しくて静かなペットだ。それでも時には甘い声を聴かせてくれるがね」

「き、貴様!」  

ガウンの襟首を捻りあげた啓士に、鹿川はたじろぎもせずに続ける。

「君には未知に今みたいな生活をさせてやることなど出来ないだろう?未知は世間なんて何も知りはしない。10歳に満たないときから私が面倒を見ているからだ。

たまたま、今は未知がお遊びで書いていた絵本が売れているみたいだが、未知はこの部屋から出て生活など出来はしないんだよ」    

 

未知の透き通った美しさはこの男に囲われていたからなのか?  

醜い世間を観ることもなく、ぬくぬくと温室の中でただ綺麗に咲き誇り愛でられるためにだけ生きてきたから?  

俺は、僅かに開いていた温室の扉から時折迷い込み、可憐な花に魅せられた数多くの蝶達と同じ・・・・  

幾ら花に魅せられても、温室のように花を美しく咲き誇らすことは出来ない。

俺は幾ら未知さんが好きでも、むやみにまわりを飛び回ることしかできない、ただのちっぽけな虫にすぎないと言うのか・・・・

 

「あんたは、未知さんを愛しているのか?」

鹿川の目を見詰め啓士は確かめるように訊いた。

「もちろんだ」

「未知さんも・・・か?」  

啓士の指から力が抜け襟首を掴んでいた掌で顔を覆った。

「未知は誰も愛しちゃいない・・・」   

お盆におつまみと啓士と自分のために入れたお茶のセットを載せて戻ってきた未知から目を逸らし、鹿川がポツリと呟いた。