*あなたの声が聴きたくてH* 

 

「・・・だから、夕食の用意をしておくね。あんまり上手に書けなかったけど、地図、これで分かるよね」  

休憩室にちょっと来てと文香に手招きされた啓士は胸中複雑な面もちで、文香が差し出したメモの地図を凝視していた。  

完璧な失念。  

ここ十日ほどのめまぐるしい変化に啓士は無情にも文香との約束など、スコンと頭から抜けていたのだ。  

目の前に立つ可憐な文香の姿を目の当たりし、浅はかな約束をしてしまった自分に言いようのない後悔を憶えた。  

誰もが特別だと感じるクリスマスイブに文香は啓士を選び、たとえ気の迷いだとしてもその誘いに一度はyesと答えてしまったのだから。  

沸き上がる苦渋に苛まれながら、啓士は口を開いた。

「文ちゃん・・俺」

「ああ、いいの。プレゼントなんか用意しなくて良いから気にしないでね」  

啓士の言葉を遮って、嬉しそうに、楽しそうに啓士君はチキン大丈夫?なんて訊いてくる文香に、啓士は結局そのまま、曖昧に頷いてしまった。  

 

どうしよう・・・  

未知とイブの夜を過ごす約束など取り付けてはいなかったけれど、この特別な日に出来ることなら未知と一緒にいたかった。  

文香にすまないと思う以上に、女の子と、たとえ何があるわけでなくともイブを過ごすことが未知への裏切りのように思えてならなかったのだ。  

 

翌日、このまま未知に黙っている事に凄く気が咎めた啓士は、文香の部屋を訪れる前に未知のマンションへと足を向けた。  

教えて貰っている、ナンバーでマンションのエントランスロックを解除し、躊躇うような足取りで未知の部屋のドアの前までたどり着いた。  

軽く深呼吸をしてから、未知の部屋のインターホンを押すと、まもなくガチャリと音がして、笑顔を浮かべた未知が扉を開いてくれた。

未知のインターホンは訪問者の認識が容易に出来るカメラ付きで、押すと各部屋に取り付けられた紅いシグナルがチカチカと点滅し訪問を知らせる仕組みになっている。  

突然の訪問に少し驚いてはいるようだが、未知は嬉しそうに、どうぞと啓士を居間に促した。  

 

「未知さん。怒らないで聴いて欲しいんだ」 

ソファーに腰掛けた啓士は、未知の話を聞くために、ちゃんとメモの用意を済ませてから話し出した。  

眉を顰め、思い詰めた様子の啓士にどうしたのと未知は睫毛をしばたいた。  

緊張に乾いてくる口唇をそっと湿らせて、

「今日、クリスマスイブだよね?」  

啓士はぼそっと尋ねた。  

未知が優しげに、そうだねと頷く。

「俺・・・未知さんと過ごしたいんだ・・・ケーキ買って、シャンペン買って・・・でも、俺、未知さんと、そのぅ・・親しくなる前に、女の子と約束して、その娘の部屋に今から行かなくちゃならないんだ」  

言葉を慎重に選びながら話す啓士に、未知はそれでと首を傾げた。

「おれ、俺・・・一時その娘と付き合おうかって思ったこともあったけど、やっぱり未知さんが好きだから・・・だから、ちゃんと断ってくる。

こんな事未知さんに言いに来るのは変かも知れないけど・・・黙って行きたくなかったんだ」  

真摯な啓士の言葉に、未知は表情を変えずにテーブルの上にあるペンを取り上げた。

『気にしなくていい』

「え・・・?どういう意味?」  

未知の書いた文字の意味が判らない啓士に未知は微笑んだ。

『僕のことなんか、気にしないで、楽しんでくるといい。折角のデートじゃないか』  

メモから顔を上げた、いつもの天使のような笑顔に啓士の胸がぐさりと抉られた。  

なんだって・・・

「未知さん・・・冗談だろう?」  

無意識に啓士の声が震える。  

好きだと言われたわけじゃない、でも、でも・・・

「俺が女の子とイブを過ごそうが、どうしようが、未知さんにとって、どうでもいいって言うこと・・・?」  

詰め寄った啓士から顎を引いた未知は、額にかかった前髪を掻き上げてから再びペンを走らせた。

『啓士がしたいようにすればいい。

僕には啓士にどうして欲しいなんて言う権利はないから』

「俺のこと好きだから・・・だから・・・キスだって許してくれたんだろ!」

『僕に好きだという権利なんかないんだよ』 

小さく溜息を吐いた、未知はペンを置くと背もたれに深く背中を預けた。

「権利ってなんだよ!好きになるのに権利なんか関係ないじゃないか!」  

啓士の悲痛な叫びを、未知は瞼を閉じることで遮断してしまった。  

これ以上、話すことは何もないと、未知はゆっくりと首を横に振り続けた。    

 

 

「そこに座ってて、すぐにしたくすむから」 

文香の住む、小さなワンルームマンションは10畳ほどの部屋にベッドと小さな硝子テーブルのほかに小さな小物やぬいぐるみがそこここに飾られていて、ほんのりと甘い化粧品の匂いがした。  

啓士は文香に勧められた場所に腰を下ろし、さっきの未知との不可解なやりとりに心を悩ませていた。  

文香の部屋に行けばいいと言いながら、啓士の強引な抱擁や口づけを未知は拒もうとはしなかった。  

それどころか、あまりにもタイミング良く、未知の担当者が原稿を取りに現れさえしなければ、それ以上の関係に進んでいたかも知れない。  

今にも甘くとろけてしまいそうな未知の口唇が言葉以上に雄弁に啓士が好きだと語って いたのだから。

「あとで、必ず寄るから」

打ち合わせを始めたがっている担当者に気づかれないように、声に出さずに伝言を残し啓士は部屋を出た。  

結局、未知の返事は聴けないままに・・・・    

 

「そう・・・わかったわ」  

包み隠さず、自分の気持ちを話した啓士に文香はあっけないほど、了承の笑顔を返してくれた。

「じゃあ、シャンパンで、乾杯しましょう。

わたしの失恋と啓士君の恋の成就を願って、乾杯」  

泡が立ち上がるシャンパングラスが触れた瞬間、金色の液体が小さく波打った。

「でもねぇ・・・啓士君の相手があの朝霞未知だなんて・・・盲点だったわ」  

立て続けに、シャンペンを三杯煽ってから文香は言った。

「俺自身、驚いてるんだから、変だって思うのはよく分かるよ」  

折角作ってくれた料理を無駄にするのも申し訳なくて、フライドチキンを口に運びながら苦笑した。

「綺麗な人だものね・・・朝霞さんも啓士君の事好きなら、私の出る幕じゃないわね」  

励ましてくれたはずの文香の言葉がザラリと背筋を撫で上げた。  

未知さんの気持ちはどこにあるんだろう・・・確かに腕の中にいたはずなのに、心の琴線に触れることが出来たと思ったのは俺の思い上がりだったんだろうか・・・  

口づけを交わす以前にもまして不安が啓士を締め付けた。  

 

結局は酔っぱらった文香に、

「おい!啓士!この文香さまを振ったんだから、絶対未知さんと別れたりしたら承知ないんだから!」  

なんて、叱責にも似たエールを頂いて、啓士は文香の部屋を後にした。  

夜の帳が静に降りた町は、普段より遙に熱い熱気に包まれた恋人達のツーショットが多く、啓士は脇目も振らず、未知のマンションへと急いだ。  

コートのポケットには文香の部屋に行く前に買った、小さなプレゼントを忍ばせて。  

未知は待っていてくれるだろうか・・・

あんな事を言っていたけど、ほんの少しはヤキモキしながら待っていてくれるだろうか。

もう誰に遠慮することもない。未知がなんと言おうと決して離したりしない。

不安と同じくらい、甘い期待に胸がキュンと疼いた。  

六時間前と同じ場所に立ち、啓士はまた深く息を吸ってから、インターホンを押した。 しばらくして、内側でガチャリと音がしてからドアが静に開かれた。