**あなたの声が聴きたくてC**
向かいあってるテーブル席。
はにかむような笑顔が、啓士に向けられていて、視線が交わった瞬間、彼が小さく手を挙げた。
急いで、汚れ物を奥に置きに帰り、小走りに彼のテーブルに啓士は向かった。
「こ、こんにちわ」
弾む胸で、小さく息が上がる。
「もう、注文は済んでるよ」
低い声に遮られて、彼に連れがいることに啓士は今頃気が付いた。
がっちりとした30前後の渋い二枚目。
「あ、あの」
迫力に、旨く言えずに立ち止まった啓士の前で、彼が手に持っていたペンで卓上に置かれたレポート用紙のようなものに大きな字で何かをさらさらと書いた。
『この人は、僕の知り合いなんだ』
「知り合い?珍しいな、未知」
男は意外そうに彼に聞き返した。
『あれから、ずっとここで働いてたの?』
今度は、啓士に向かって、メモを見せた。
「え・・?え?どう言うこと?しゃべれないの?」
啓士は助けを求めるように年かさの男に視線を振った。
「なんだ?知り合いなんだろう?」
「ただの顔見知りなんです。話したことなかったから」
予想もしなかった突然の出来事に戸惑っている啓士に、
「未知は口唇の動きを読むから、ちゃんと未知の方に向いてさえいれば普通に話しても通じるよ。ほら、応えてやれよ」
男は大様な動作で、未知の書いたメモを人差し指で、とんとんと突っついた。
「未知さんっていうお名前なんですね。あれからずっとここで働いています」
忘れたくても忘れることの出来なかった未知の顔をじっと見ながら、ゆっくりと言った。
『僕の名前は、朝霞未知と言います。君は?なんて言う名前?』
「あ、僕は松島啓士。えっと啓士はこうです」
未知のメモの端に小さく啓士と書いた。
未知達のテーブルに注文の品が届いたのを機に啓士は席を離れた。
あの日、未知さんは僕を無視した訳じゃなかったんだ・・・
不思議にも幸せな想いが啓士の胸に沸き上がってくる。
未知が聾唖者だったというショックよりも、故意に無視されたんじゃなかったことが啓士には嬉しかったのだ。
「綺麗な人なのに、可哀想ね。耳が不自由なんでしょ?」
いつの間にか啓士の横に来た文香が、鹿川と名乗った男と連れだって店を出ていく未知の後ろ姿に向かって小声で言った。
「え・・?ああ、未知さん?」
「未知?未知って・・・・もしかして、あの人、朝霞未知?そうか、どおりでどこかでみたことあるなぁって、さっきから思ってたのよ」
「文ちゃん、未知さん知ってるの?」
驚いて聞き返した啓士に、
「啓士君には関係なさそうな世界だもんね。あの人、わりと有名な絵本作家なのよ。姪っ子が彼のファンだから田舎に帰るときはいつも買って帰るの。
【紀伊国屋】にもちゃんと朝霞未知のコーナーがあるぐらいだから、わりとどころか、業界じゃあ、かなりメジャーかもね。
作家なんかには珍しいくらい綺麗な人じゃない?だから、裏表紙にプロフィールとかと一緒に大きく顔写真なんかが載ってるんだけど、聞こえないなんて知らなかったな。
だってね、音の描写なんかも凄くリアルなのよ。風の音とか雨の音とか・・・そういえば、他の作家さんの作品より音をテーマにした作品が多いかも。
きっと生まれつきの障害なんかじゃなくて、事故かなんかで大きくなってから聞こえなくなったのね」
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「聾唖者ってのはね、長い間誤解されてたんだ。100年ぐらい前までは、知的障害だと勘違いされるケースもよくあったらしい。
生まれつき聞こえないから、しゃべれないんだよ。
だけど今は、たとえ生まれたときから一切音が聞こえなくても、声帯に何らかの奇形がなければ訓練次第で話せるようになる。
まして、松島が今言ったみたいに後天的に、それも随分成長してから聞こえなくなったんなら、俺達と遜色なく話せるはずだぜ。
強いて言えば声のボリューム調節を訓練するぐらいかな」
ざわつく学食の中で、水っぽいカレーライスをほおばりながら小宮が啓士に言った。
啓士の通う大学には福祉学科があり、顔の広い同郷の前田から啓士はおやつのカレーライスと引き替えにこの小宮を紹介して貰ったのだ。
たかだか、350円の大学生協のカレーでも年中腹を空かしている彼らには何よりのご馳走なのだ。
「じゃあ、生まれつきでなくて話せないって言うのは、言葉が出ないんじゃなくて、声も出ないって事になるわけ?」
啓士が口を挟む前に、横合いから前田が小宮に訊いた。
「色んなケースがあるからな・・・でも、松島の話を統合すると、考えられるのはこうだな。まず、その絵本作家。名前は・・・」
「朝霞未知」
「そうそう、その未知ちゃんは、たぶん10才ぐらいまでは健常者だったんだろう。じゃないと、微妙な音の記憶まで残らないだろうしな。
それで、事故かあるいは高熱を伴う病気で、内耳と声帯の両方をやられちまった。ってとこだとおもうよ。
俺も詳しくは知らないが、声帯を潰されちまったら、掠れたような音しか出なくなるみたいだな」
小宮は言い終わると、着色料で真っ赤になっている、福神漬けをスプーンで口に運びぽりぽりと美味しそうに噛んだ。
「美人なわけ?その未知ちゃんは?」
苦学生の啓士がカレーまで奢る裏を知りたい前田は、好奇心一杯に尋ねた。
啓士はヒョイと肩を竦めて見せると、
「美形だよ。男の人だけどね。じゃあ、色々教えてくれて有り難う、小宮」
皿を持って立ち去り掛けた啓士に、小宮が思いだしたとばかりに両手をぱちんと合わせて、
「松島!そういえばこんな話しもあるぜ。健常者が突然聾唖者になって、今までみたいに話そうとしたときに、ほれ、やっぱ、慣れるまで旨く話せないんだとさ。
そんなときに子供って残酷だろう?笑われたり、からかわれたりしたら、声帯なんかになんの異常もないのに、精神的にストップが掛かって話せなくなることがあるんだと」
どんな声なんだろう・・・・確信はないけれど、何となく未知の声そのものは失われていないような気が啓士にはしていた。
家路に向かう啓士の傍らをつむじ風が音を立てて駆け抜けていく。
凍える指先でコートの衿を立てながら、啓士は冷たく吹きすさぶ、冬将軍の行進を聴いていた。
当たり前のように聞き流していた自然の音にも、色んなバリエーションがあることに改めて啓士は驚愕した。
雨や風。
そして静かに降る雪にすら、きっと独特の音が存在しているのだ。
昨日買った未知の絵本の中にはそんな自然が醸し出す音が氾濫していた。
柔らかな色使いの中に、優しい描写の中に未知の悲痛な叫びが聞こえるような気がしたのだ。
聴きたい。
音が聴きたい。
もう一度だけ、本当の音が聴きたい。
未知が泣いているような気がして、誰も居ない部屋に戻った啓士は未知の著書をしっかりと胸に抱いた。