**あなたの声が聴きたくてD**

 

「困りますねぇ・・・ファンの方に個人的な事はお教えする訳にはいかないんですよ」

「し、知り合いなんです。連絡が取りたいんです」  

何日か思い悩んだ末、無謀と承知で、啓士は絵本の裏に書いてある出版社の編集部に電話を掛けた。

「お知り合いなら、ご自分で連絡を取ってくださいよ」  

明らかに、胡散臭そうに相手の男が言った。

「じゃ、じゃあ、伝言をお願いします。松島、松島啓士がお会いしたいって。そう言ってくだされば、お判りになるはずですから」  

必死に頼み込む啓士に、

「ハイハイ。松島さんね、切りますよ」  

有無を言わせずに相手先の受話器ががちゃんと下ろされた。      

 

「どうしたの?元気ないじゃない。寝不足なんじゃないの?」  

小柄な文香が出勤してきた啓士の顔をつま先立って覗き込んだ。

「ちょっとね」  

あの日以来寝不足気味の啓士が見下ろす形で曖昧に笑ってみせると、 文香はホールの隅を指さしてから言った。

「一時間ぐらい前から、朝霞未知来てるわよ」

「えっ?」

「松島さんいますかって、チーフ聴かれたって言ってたけど・・・」  

文香が言い終わらないうちに、啓士は私服のままホールに駆けだして行った。    

隅の席に一人で座っていた未知は、銀縁の細い眼鏡を掛けて、なにやら絵本のラフのようなものをスケッチブックに鉛筆でサラサラと描いていた。

「未知さん・・・」   

後ろから掛けた声にはやはりなんの反応もなく、滑るように走らせていた手元が啓士の大きなシルエットで影になると、未知は初めて顔を上げた。  

透きとるような未知の美貌を、細い銀の縁取りがいっそう際だたせている。

「こんばんわ」  

今度はちゃんと前から挨拶をすると、未知が硬い表情のまま、急いでスケッチブックのしたから、この間のメモ用紙を取りだした。 

チラリと上目遣いで啓士を見遣った未知は、一呼吸置いてから、すらすらと文字を書き出した。  

柔らかく少し右上がりの癖のある文字はとても未知の醸し出す雰囲気に似合っていた。

『真栄社の編集部から連絡を貰ったのですが、あなたが電話をしたのですか?』  

書き終えてしっかりと啓士を見据えた未知にいつもの微笑みはなく、真剣な眼差しが冷たいレンズ越しに光っている。

「あ・・・ご迷惑でしたよね。俺・・考えなしで・・・」  

迷惑がられているんだと、思った瞬間、背中を冷たいものが這い、怒濤のような後悔が啓士を襲った。  

啓士がサッと青ざめている前で再びペンが紙の上を滑り出した。

『そうですか。よかった。人違いだと恥をかくところでした。僕にはあなた以外に松島さんという知り合いなどいないのですが、まさか、あなたが真栄社に連絡をくれるなどと思っていませんでしたから』  

眼鏡を外して胸ポケットに入れた未知は、さっきまでの硬い表情が溶けて、柔らかく啓士に向かって微笑んだ。

「あ・・・迷惑じゃ・・」  

狼狽え、もごもごと言葉を濁した啓士に、

『え?』  

と、未知は首を傾げた。

「迷惑かけてしまってすみませんでした。でも、俺、もう一度、あなたに逢いたかったから」  

今度は口唇の動きが分かり易いように、しっかりと未知の瞳を捉えて言った。

『僕にですか?なぜ?』  

戸惑いを瞳に宿した未知の指先が素早く紙面を滑る。

「あ・・・あの」  

不思議そうに見詰め返している未知にいくらなんでも、ここでもう一度、告白するわけにも行かず、啓士がモジモジ困っていると、生ビールのジョッキを運びながら後ろを通ったチーフが『時間だぞ』と、まだ制服にすら着替えていない啓士の背中を肘でコツンと小突いていった。

「すみません。すぐ行きます」  

振り向きざまに、謝った啓士に、

『お仕事の時間でしょう?何かご用がおありなら、時間がある時に連絡をここにください。必ず返事を書きますから』  

にこやかに微笑んだ未知は一枚の紙を細い指でぴりりと破き、メールアドレスを書いた紙を啓士の前に置くと、荷物を手に静かに立ち上がった。      

 

 

「一番安くても15万円かぁ・・・・」  

翌日学校帰りに飛び込んだ電化製品もおいているディスカウントショップのパソコンコーナーで、啓士は低く唸った。

「松島!ほれ、こっちのパソコン、プリンター付いてこの値段だってさ」  

通路を隔てたところで前田が啓士を手招きしている。

「いいんだ、プリンターなんかいらない。ともかくメールだけ出来りゃいいんだから」

「折角買うなら、プリンターも買えよ。レポート出すとき清書せずに済むんだぜ」  

呆れ顔の前田に、首を大きく振って見せ、

「いいの、また今度、金出来たら買い足すって。これ買って帰るから、手伝ってくれよな。 

すみません〜!これください」  

啓士達にはろくに挨拶もせず、金持ちそうな客の周りを彷徨いている店員を大声で呼んだ。

「いらっしゃいませ!」  

今の今まで、冷やかしだと思っていた中年の店員は急いでニコニコと笑顔を作り、揉み手をしながら通路を横切ってやって来た。

「こちらでよろしいですか?お届けは明日になりますがご在宅でしょうか?」

「今日持って帰りますから。えっとそれから、10回払いで買いたいんだけど」

「さようですか、有り難うございます。ではこちらに」  

カウンターに腰掛けて、ローンの手続きをする啓士に、

「松島ぁ〜・・・持って帰るって、おまえ担いで帰る気かよ?」

「大丈夫だって、ほんの15分程だから」

「ゲロゲロッ。昔から言うだろ、色男金と力はなかりけりってな。その俺に力仕事までさせようってんだから、晩飯、焼き肉おごれよな」  

何時の間に色男になったんだか・・・  

啓士は色男気取りの旧友に向かって苦笑を漏らした。   

確かに、高校では水泳部だった前田は部活の規律で五分刈りにしていた髪を長く伸ばして茶色に染め、随分と外見は変わってきていて、今風とでもいうのか、大学でもまあ、まあ、もててはいるようだ。

「俺、今夜シフト入ってるから無理。永年の付き合いなんだから、堅いこというなって」

「ちぇっ!」  

長く伸ばした前髪を後ろに撫で上げて諦め顔になった前田は、書類にサインをしている啓士の横にドサッと腰を下ろした。      

 

 

「ほい。繋がったぜ。プロバからちゃんとした書類が来るまで、これ消すなよ」  

細かい配線から、プロバイダーの手続きまで全てをてきぱきとこなした前田が、Eメールの画面のまま、PC前の椅子から立ち上がった。

「サンキュー。おまえ、バイトないんだろ?」 

啓士は前田に缶ビールを差しだして、空いた椅子に腰を下ろした。  

早速、アドレス帳を開き、ポケットの財布の中に丁寧に折り畳んでいた、未知のアドレスを打ち込んでいく。

「で、これって誰よ?」  

前田が興味津々に画面を覗き込んでくる。

「なんでもない」  

画面から顔を離さずに、憮然と答える啓士の頬が茜色に染まっていく。

「こんなに親切にしてやってる俺に、なんでもないってのは、ねぇんじゃないの〜」

「なんでもないって・・・それより、俺バイト行かなきゃなんないんだ。悪いな、今度またメシ奢るからさ」  

パソコンの電源を切り、さっきの紙片をもう一度畳んで啓士は財布の中のカード入れにしまい込んだ。

「アドレス打ち込んだらメモなんか必要ねえじゃん。なんでしまうわけ?」  

首を傾げながら前田は缶ビールのプルトップを派手な音を立てながら引き抜いた。

「なんでもないよ」  

再び赤くなった、啓士の後頭部を缶ビールの角で軽くコツンと叩きながら、

「なんでもないねぇ〜。ふ〜ん。  

バカ啓士。なんでもないなら、赤くなんかなんねぇの!」  

前田はカラカラと笑った。    

 

未知さんのくれたメモ。  

未知さんの書いた文字。  

これは未知さんの声。  

俺への大事なメッセージ。    

 

メールアドレスが書かれただけの、小さな紙片。  

だが、今はこれだけが啓士を未知の元へと導いてくれる、希望の光だった。  

今はまだ、ほんの僅かな風にさえ吹き消されてしまいそうな、小さな小さな希望の灯

火にすぎないけれど。