**あなたの声が聴きたくてE**
深夜のバイトから急いで戻ってきた啓士が真っ暗な部屋の中で明るい光を放つパソコンの画面に向かってから既に2時間近くが経過していた。
二時間ものあいだキーボードの上を叩く啓士の指は忙しく動き回っているのに、画面に映し出された未知へのメールはまだたったの数行書かれているだけだった。
時折、シーンと静まり返った啓士の部屋に腹の底から吐き出すような重苦しい溜息が漏れている。
「こんなこと書いたら、変な奴って思われるし・・・」
ぶつぶつと独り言を言いながら、ようやく送信ボタンを押したメールには、結局、取得したばかりの啓士のメールアドレスと未知に好意を持っているので、また会うことが出来て嬉しかったと言うような簡単な文だけしか書かれてはいなかった。
「おれ、何やってんだろう・・・」
まさか、唐突に愛しているともかけなくて、やんわりと好意を示す文面を書いたつもりではいるけれど、はたして未知が自分の思いを受け入れてくれるのだろうか。
送ってしまった、文面を二度、三度どころか何十回と読みなおして、啓士はぐったりと肩を落とした。
未知からの返信は意外なほど早くに送られてきた。
かなり陽が高くなってから目覚めた啓士が、まさか来ているはずはないと思いながらも恐る恐る繋いだPCに未知からの返事が届いていたのだ。
拳でゴシゴシと開ききっていない瞼を擦り、これって、夢じゃないよなと訝しがりながらメールを開く啓士の指先が淡い期待に小刻みに震える。
ドキドキしながら読んだ未知のメールも昨夜送った啓士のメールに負けないどころか素っ気ない程短いものだった。
『メールを有り難うございました。僕もあなたにまた会えて嬉しかったですよ。朝霞未知』
たった、二行の文字の列を、啓士は何度も目で追った。
これだけ・・・・・・?
短いながらも好きだと、好意を持っていると告白したのに・・・・
未知が店に現れて、メールアドレスを教えてくれた、たったそれだけの些細なことに、啓士は何かが変わるかも知れないと心のどこかで期待していた。
もしかしたら、僅かばかりの好意を未知も持ってくれているんじゃないかと甘い幻想を抱いていた自分に気づいた啓士は、その愚かさに虚しく笑った。
俺って、つくづくバカみたいだな・・・・・
いったい何がしたいのかすら、啓士にはわからなかった。
未知のことが好きだった。
彼のことを思うだけで、胸が熱くなり心が騒ぐ。
けれど、彼に思いの丈をうち明けて、もし未知が受け入れてくれたとして、それでどうしたいのか、啓士の思考はそこで止まってしまう。
普通の恋愛が出来るなんて思ってもいなかった、そんなことを考えること自体が未知を汚してしまうような気が啓士にはしていたからだ。
毎日顔が見れればそれで良かったのだ。
コンビニが潰れさえしなければ・・・あの日々がずっと続いてさえくれればそれで良かった。
乾いた砂にスッと染み込む清水のような清らかな微笑みで、未知が柔らかく会釈してくれさえすれば啓士は途轍もなく幸せだったのだから。
「これで良かったのかも知れないな・・・」
愚かな幻想を抱いていた己に言い含めるように、買ったばかりのPCのコンセントを力強く引き抜いて啓士はぼそっと呟いた。
「ほんと?ほんとにいいの?」
営業時間が終わり個々に帰り支度をしていた休憩室に文香の嬉々とした声が響く。
「うん。シフト変わって貰ったから、 24日の昼から25日の夕方まで空いてるんだ」
急用ができた店長に店の施錠を頼まれて最後まで残っていなければならない啓士が厨房の片づけが済むまでにと入れて貰ったファミレスの薄いコーヒーを啜りながら答えた。
二人で過ごすイヴ。
恋人として文香を選んだんだと自分に言い聞かせた啓士はカップを両手で包み、ニッコリと文香に笑い掛けた。
「じゃあ、何かご馳走作るね。
啓士君何が好き?お部屋掃除しとかなきゃ・・・
あ、あたし、もう行くね。お疲れさまでしたぁ〜」
冬休みだけの契約で入店した高校生が休憩室に置いていた雑誌を取りに入ってくると、私服に着替えを済ませていた文香は慌てて立ちあがり、まるで長居をしていると啓士の気が変わってしまうんじゃないかと危惧しているように、小走りに部屋を出ていってしまった。
啓士は文香が出ていった後、まだ幼さの残るバイトの子たちに『暮れは物騒だから気を付けるんだよ』と送り出した後も作り笑いを口元に残したまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
これでいいんだよな・・・・・・
あんなのは気の迷いだったんだ。
好きだなんて・・・ただあの人があんまり綺麗だから、俺はちょっとばかし逆上せただけ・・・・・
だいたい男の俺から好きだなんて言われて、いい迷惑だよな、未知さんも・・・・
真っ暗な闇に、ちらほらと白い雪がちらつき始めていた。
あれ・・・?
ちらつく雪の中を勝手口の方に誰かがやってくるのが見えた。
おかしいな・・・今頃誰だろう?
店に残っているのは啓士と料理担当者の二人だけなので、二人のうちのどちらかを友だちが迎えに来たのだろうと思いなおした啓士は、着替えるためにロッカールームへと向かった。
「お疲れさま。大変だね、バイトなのに施錠まで頼まれるなんて」
ロッカールームで着替えを済ませたコックの後藤さんが啓士に言った。
「そんなことないですよ。待ってる間だもちゃんと時間給貰えるんですから」
明るく答えて、啓士はコントロールパネルで夜間に不必要な電元を手際よく消していく。
後藤さんがお先にとコートの衿を立てて、見習いの近藤君と一緒に一足早く勝手口のドアを開けた。
すかさず啓士の足下にも冷い外気がサァーと流れ込んでくる。
「ひゃ!び、びっくりした〜」
ロッカールームの電気を消していた啓士に素っ頓狂な後藤さんの声が聞こえてきた。
「どうしたんです?」
ドアの方をひょこっと覗いた啓士の目に寒さに震えている未知が飛び込んできた。
「み、未知さん!」
「なんだ、松島君の友だちかい。こんな所で待たずに中で待てば良かったのに。頭が真っ白じゃないか。
じゃあな」
大きな手で小刻みに震えている未知の頭上に降り積もった雪を払いのけて、後藤は西田を促した。
「お疲れさまでした」
「え、ああ、お疲れさまでした。未知さん、こっち来て、風邪引いてしまいますよ!」
咄嗟に掴んだ未知の手が氷のように冷たい。
暖房を消したばかりの休憩室に再び火を入れて、啓士は引いた椅子に未知を座らせた。
「コーヒーでも・・・ああ、もう入れられないや。すぐに暖かいもの何か買ってきますからね。ちょっと待っててくださいよ」
踵を返して出て行きかけた啓士の手を、今度は未知が掴んだ。
「み、未知さん・・・」
未知の手はさっきと変わらず凍てついているのに、未知に掴まれた箇所が燃えるように熱い。
振り返って見詰めた未知の顔は寒さに潤んだ瞳と室内の暖かさで、凍えた頬に急激に血の気が戻ったせいかドキリとするほど艶っぽかった。
「の、飲み物・・・か、買ってきますから・・て、て・・」
未知の指先に力がこもり、モスグリーンのマフラーに包まれた首をゆっくりと横に振った。
震えの止まらない未知の指先に共鳴して、啓士の身体に甘い戦慄が駆けめぐる。
何か言いたげな未知の紅い口唇は小さな吐息を吐いただけで、やはりなんの言葉も発しはしなかった。
窓の外でしんしんと降る雪に音はなく、じっと見つめ合う二人の世界に、激しく高鳴る啓士の胸の鼓動だけが、静寂を乱すように響いていた。