**あなたの声が聴きたくてF**
「み、未知さん・・・こっちの方が暖かいから・・・」
しっかり握られた手を、啓士は暖房機器のファンが温風を吹き出す壁際へと導き、引き寄せた椅子に未知を座らせてから、空いている左手で、シフトの交代の際に使う連絡事項を書くために置いてあるメモ用紙をテーブルからつかみ取った。
手渡したタオルでしっとりと濡れた髪を拭っている未知への動揺を隠し、
「どうして、あんな所にいたんです?」
真っ直ぐ向き直った啓士がゆっくりと尋ねながら、ペンと一緒にメモ用紙を未知に渡した。
空いている左手で、未知は啓士からもぎ取るような素早さでメモを奪うと一瞬キリッとした目つきで啓士を睨んでから、サラサラとペンを滑らした。
「君こそいったい何のつもりなんだい?」
思いがけない怒りを含んだ文字が紙の上に浮かび上がる。
「え・・・?」
唐突に責められ、困惑の表情を浮かべた啓士の前に、未知の言葉は続く。
「僕をからかうのはやめて欲しい」
書き終わった未知はこれで用は済んだのだといった表情で大きく息を付くと、啓士を見詰めたままスックと立ち上がった。
「み、未知さん?なんのことです?」
メモをテーブルに置いた未知の両手首を今度は啓士が慌てて掴んだ。
「俺がいつ・・・」
いつ、あなたをからかったんだよ・・・
俺の気持ちを無視したのはあなたの方じゃないか・・・・
やり場のない憤怒で捻り上げるように掴んだ指に力が籠もり、仰け反った未知の美貌が苦痛に歪んだ。
自分の手から必死に逃れようと藻掻く未知が、堪らなく愛しいのと同時に無性に憎かった。
ここには誰もいない・・・・・・
心の奥の妖しいものが啓士に囁きかける。
同時に違う場所でけたたましく警笛が鳴る。
離さなければといけないと、このままだときっと未知を傷つけてしまうと分かっていながら、相反する葛藤に、指先に込めた力を啓士は抜けずにいた。
苦悶の表情は何故か快楽の貌と類似している。
はらりと乳白色の顔に掛かった未知の細い髪。
苦痛にきつく寄せられた柳眉。
噛みしめられた紅い口唇。
怯えを掃いた澄んだ眸。
残酷にも、苦痛と恐怖の表情を瞳に浮かべた未知を、とても綺麗だと啓士は思った。
俺はいったいこの人に何をしたいのか・・・・
啓士は真側に引き寄せた未知に見とれながら、もう一度、何度も繰り返した自問を自分に問いかけた。
ココニハ誰モイナイ・・・・
繰り返す囁きが啓士を再度煽る。
この人を、力づくでねじ伏せてしまうのは容易いだろう。
そして、そうしてその後は・・・?
高鳴る欲望のままに、この美しい人を陵辱して、その後に何が残る?
俺は助けを求めることすら出来ないこの人を思いのままにしたいのか?
違う・・・俺はそんなことがしたいはずじゃない。
・・・・・・俺は未知さんを愛しているんだ。
啓士は未知の瞳を見詰めながら、小さく『ごめん・・・』と呟いて、掴んでいた手を離し、腕の中にどこか儚さの漂う未知の華奢な身体を抱き込んだ。
それは激情に駆られた激しい抱擁ではなく、心から未知を労るような優しい抱擁だった。
「誤解がないようにゆっくり話しますから、未知さんもくどいと思うぐらい細かく書いてくださいね」
対峙する形で啓士と未知はテーブルを挟んで向かい合っていた。
啓士の問いかけに未知はゆっくりと頷き返した。
「ともかく、ちゃんと教えて貰わないと、俺には何で未知さんが怒っているのかが分からないし、俺は未知さんをからかうつもりなんて、これぽっちもありませんからね」
真剣な眼差しで啓士の口唇の動きを見詰めていた未知は、からかうと言った言葉に頬を強張らせてからペンを走らせた。
「出版社にまで電話をしてきて、大事な用があるんだと思ったからメールアドレスを教えたんだ。
それなのに一週間も経ってから、寄越したメールには君の名前とアドレスだけで、僕が何通返信を出しても、今度は梨の礫、これをからかっている言わずになんて言うんだい?」
浮かび上がってくる文字を追っていた啓士の眸が瞠目する。
「何通も・・・?俺に?」
あからさまに驚いた啓士に、呆れたように溜息を吐いた未知が、
「無視するどころか、読んでもいないんだね」
素早く走らせた後、馬鹿馬鹿しいとばかりにペンをポロンと紙の上に転がした。
「違いますよ!」
再び未知の手にペンを戻して啓士は続けた。
口頭と筆談という不自然な方法ではあっても、何度も繰り返すうちに啓士と未知の誤解が少しずつ解けていく。
未知が怒っている理由が分かってくると、啓士は不謹慎だと思いながらも込み上げてくる笑いを止めることが出来なかった。
理由が分かれば、啓士は未知が腹をたててこんな時間にここまで来てくれたことが堪らなく嬉しかったのだ。
声を殺してクスクス笑いだした啓士を拗ねたように睨んでいる未知は、初めてあったときの孤高の人のイメージが僅かに取れて、啓士には未知が遥か彼方の天上界から手の届く地上に降りてきてくれたかのような気がしていた。
「ごめん。笑ったりして」
啓士の邪気のない笑顔に釣られいつしか未知の頬にも自然な笑みが戻ってきていた。
「最初の返事があんまりつれなかったから、俺パソコンの電源抜いてたんですよ。
だいたい未知さんにメール出すためだけに買ったパソコンだから、他に使うこともないし」
照れくさそうに啓士が付け足した言葉に、未知の顔色がサッと変わる。
「あ・・い、いいんです。これからは色々使いますから心配しないで」
慌てて両手を未知に振り、
「今から帰って、未知さんのメール読んで、返事書かなきゃならないしね」
心配顔の未知に明るい笑顔を向けた。
凛と冷えた夜気の中を啓士は未知と並んで歩いていた。
時折側を通る自動車以外、他に歩く人もいない深夜。
なんの会話もなくただ黙々と横を歩く未知の口元からリズミカルにふんわり吐き出される白い蒸気さえ今の啓士には愛しかった。
時折チラリと交わる未知の瞳からは、言葉では言い尽くせない信頼のようなものが伺えて、さっき一時の激情に駆られ、馬鹿なことをしでかさずにいてよかったと、啓士は心底胸をなで下ろしていた。