硝子の扉 3

 

「静ちゃん、次ぎなかったろう? 俺とお茶でもしよう」

「え・・・?で、でも、さっきお茶したし・・」  

俺は背中に目と耳が移動しちまったみたいに全神経を背後で起こっている一大事に向けた。

「じゃあ、ケーキは?奢るよ。  

まさか、佐竹が受ける講義を横に座って聞く訳じゃあるまい?」  

からかいを滲ませた口調に、 

「いや、まさか・・・そんなことしませんよ」  

静が困惑気味に答えた。

「じゃあ、行こう。  

じゃあなぁ、佐竹。静ちゃん借りるぞ」    

 

行くな・・・静・・・  

 

「・・え・・あっと・・修?」  

躊躇うような静の言葉に俺は祈るように念じた。

行くなと・・・

「ほら、行くよ」

「あっ・・はい。じゃあ後でね・・・修」  

堪え切れずに振り返った俺の目には、乾先輩の大きな腕に肩を抱かれている静の華奢な姿が飛び込んできた。    

走り寄って、先輩の大きな図体から静をひっぺがしたい欲求に駆られたが、すんでの所で俺は踏みとどまった。    

 

さっきのは静の冗談だ。  

今だって、無理矢理誘われて、お茶を飲みに行っただけだ。  

それ以上のことなんかあるはずはない、俺の静に限って・・・そんな・・・  

男と付き合うなんて・・・

そんなことがあってたまるもんか・・・・    

 

雛壇式の講義室の隅っこに座った俺は、講義の間中、悪霊に囲まれた僧侶が必死で念仏を唱えでもするように、自分に何度も言い聞かせていた。          

 

数日後、噂は水面下でまことしやかに囁かれ、俺の耳にも届いてきた。  

大学なんて所は学部や取っている単元が違えば名前どころか顔すらも知らない奴が多いところだが、生憎、静は大勢の学生の中に埋もれ全く目立つ行動を取ることがなくても、スポットライトを当てたように浮き立って見えるらしく、大抵の学生が名前は朧気でも顔だけは知っていると言った希有な存在だった。  

大勢の中のアイツを見たときふんわりと浮き立って見えるのは俺の惚れた欲目だとばかり思っていたのだが、どうやら他の奴から見てもやはり静はどこかしら人目を惹くところがあるらしい。  

それ故にか、静が同性である乾先輩と付き合っているらしいと言った噂が、内容こそは多少の差があるものの至る所で囁かれていた。     

噂なんて所詮噂だ・・・・    

それが証拠に静はいつも通り俺の横にいるじゃないか。    

当の本人にその噂が耳に入っているのかいないのか、俺はその事を確かめることも出来ずに噂自体を頭ごなしに否定し続けた。  

俺はきっと怖かったんだ。  

怖くて・・・堪らなかったんだ。     

 

ぼんやりと考え事をしながら肩を並べて歩きながら、いつもと変わらない様子で、にこやかに話す静の横顔に、俺は作り笑顔を浮かべて無意識に相づちを打っていたらしい。

「もう、ヤダなぁ〜、修。ちっとも僕の話聞いてない〜」   

甘く俺を睨んで、静が脇腹を肘で突いた。

「なんだよ、ちゃんと聞いてるだろ、いてえな」  

俺も笑いながら横にある小さな頭をパフッと叩いた。  

静の屈託のない笑い顔に、ホッと胸をなで下ろす。  

ほら、いつもの静じゃないか、何にも変わってなんかいない。  

いつもの俺の静だ・・・・  

俺は何度こうやってうち消しても、毎日嫌って言うほど耳に入ってくる噂でささくれた胸に、僅かばかりの安堵の溜息を吐いた。    

夕方の繁華街はごみごみしていて、他人を避けるために俺と静の距離は自然と至近する。  

込み合った場所を歩くときの常で、静が俺の肘の辺りのシャツを掴んでいた。

『よせよ、伸びちまうだろ〜』  

随分昔、初めて二人で行った遊園地で静が俺の肘を掴んだときに俺がそう言うと、

『だって、修が置いてくんだもん・・・はぐれちゃうじゃない』  

夜のパレードが始まって、半端な数じゃない雑踏の中で、今にも泣きそうな顔をした静が答えたんだ。  

あの頃はまだ、俺は俺の気持ちに気づいてはいなかったんだろうか?  

あの時、静の不安そうな顔を見て、ずっと俺が守ってやりたいと思ったのは憶えてはいるのだが・・・・  

今もあの時と同じように掴まれた肘に直接静の指が触れているわけでもないのに、そこだけが焼け付くように熱かった。  

何度目かの俺の溜息と共鳴して、静がハァと音を立てて息を吐いた。  

ゆっくりと俺のシャツから指が離れていく。  

無言のまま、振り返ると、数歩後ろにあの時と同じ顔をした静が佇んでいた。

「静?どうした」  

雑踏の中で立ち止まった俺達を取り巻く人の流れは、俺達二人を川の中州に取り残したように円を描いて足早に流れていく。

「・・・・・・置いていっていいよ」  

ざわざわとした喧騒に掻き消されそうな程小さな声で静は答えた。  

緩慢な動作で、静は俺をジッと見詰めながら、胸の内ポケットから携帯を取りだし、ゆっくりと左の耳にあてがった。  

着信音は聞こえてこなかったので、バイブ機能にでもしていたのだろう。

「はい。ええ、分かりました。  K駅のマゼランですね・・・・」  

静の大きな瞳がもう一度しっかりと俺を捕らえた。  

直感的に、この電話が例の乾先輩からだと俺にも解った。

 

黙っていても、分かり合える・・・それもまた難しいのよね。。。

言ってくれなきゃ分かんない。幾ら心の中で想っていても言わないと通じない事って多いですよね。

口数の多い男は好きじゃありませんが、思いは素直に伝えないと変な方向にドンドン捻れてメビウスの輪みたいになっちゃうのよ・・・・・