光の中で微笑んで 第五章
幾日も経たないうちに、清治さんは僕のために深夜も営業をしている喫茶店を紹介してくれた。
仕事は五時から十一時まで、店は深夜の三時頃まで営業しているのだが、学校に支障をきたさないように清治さんが話を付けて置いてくれたんだ。
時給は千三百円、土日は休みで一月ちゃんと勤めれば十五万前後になる。
僕の住む繁華街からは二ブロックほど離れている代わりに、ビジネス街に近く、僕の勤める時間帯は酔っぱらいが来ることも少なく客筋もかなり良い。
『シンドローム』と言う名のこの店は四十過ぎの優しい愛妻家のマスターと、しっかり者のママのほかに、自称フリーターの戸田さんが九時からラスト迄勤める。
僕が店に出るのと入れ替わりに帰るのはマスターの姪で美佐ちゃんという十九歳の女の子だ。
此処の温厚そうなマスターはもと香山組の組員だったらしいけど、素人のママと結婚する為に足を洗ったんだと清治さんが教えてくれた。恐妻家だから絶対に僕に手を出す事もないと冗談めかしながらも太鼓判まで押してくれたんだから。
『シンドローム』で働き始めると、驚いたことにに清治さんは三日に開けず僕の様子を見に来るようになった。
やくざが出入りしてると評判になっちゃいけねぇからなと必ず一人でふらっと10時半頃現れる。
清治さんの素人離れしたカッコイ風貌に、戸田さんなんかは僕が何度違うと言っても、僕をスカウトに来ている業界系の人だと信じ切っている始末だ。
「遙ちゃん、すげーキレーだから絶対ゲーノージンいけるって!」
芸能界に憧れて今もデビューを夢見ている戸田さんは手際よく山になった洗い物を片づけながら隣でグラスを磨いている僕の顔を覗き込んでは嬉しそうに話しかけてくれる。
友達とバンドを組んでいるという彼は土曜日の夜にはライブハウスに出演もしているから一度おいでよねと、今まであまり人付き合いのなかった僕を知らない戸田さんは当たり前のように誘ってくれたりもする。
気さくでアットホームな『シンドローム』は、僕にとって、初めて心から安らげる場所のような気がし始めていた。
「やだなぁ戸田さんたら、そんなこと言って、僕が本気に取ったらどうするんです?」
キュキュと小気味よい音を立てて、グラスを磨き上げながら、軽く受け流しても、
「顔なんだよなぁ最後に物言うのはさ。大した曲作れなくても、ビジュアル系のバンドにはファンが結構つくんだぜ。
曲だって、歌だって俺達の方が絶対旨いのにさぁ。
ねぇ?遙ちゃんってなんか楽器とか出来ないの?遙ちゃんがギターとかベースに入ってくれたら俺達即デビュー出来るよ。うん」
真顔になって熱心に僕を口説き始める。
「残念でした。僕はねぇ、おたまじゃくしもまともに読めないぐらい音楽には疎いんだから」
声を立てて笑いながら軽く舌を出したそんな僕を、カウンターの隅から清治さんが優しげに目を細めながら見詰め、マスターと二言三言言葉を交わしながらゆっくりと紫煙を燻らせていた。
「遙ちゃん。洗い物終わったらあがって良いよ」
「は〜い」
マスターの声と同時に清治さんが立ち上がるとコーヒー代をカウンターに置いて、一足先に店の外に出る。
僕は一区切り付いたところで、店のロゴの入ったエプロンをはずし、マスターと戸田さんにお休みなさいと挨拶をすると、店の斜め前で待つ清治さんの所へと小走りに駆け寄る。
「帰るか」
「うん」
いつもの短い言葉を交わす。
汗一つかかず、ぴしっとスーツを着こなし独特のオーラを醸し出している大人の清治さんと、何処にでも売っている安物のTシャツにリーバイスの色あせたブルージーンズを履いた一六歳の僕のツーショットは、周りの人からはどんな風に見えるのだろうか?
僕に酔客が絡まないように道の端側を歩かせ、宝物のように大事そうに僕の肩に腕を廻して、清治さんは僕を伯母のマンションまで送り届けてくれる。
「旨く行ってるみてえだな。良い顔してお前笑ってるよ」
「うん。なんだかずっと前から居てるみたいに居心地が良いんだ」
「お前には薄暗い店よりも、ああいうまっとうな店の方がよく似合う。俺は一生裏街道を生きて行くしかないが、お前は元々まともな子なんだ。
ちゃんと足洗って、俺達と縁を切れ。遙」
僕の肩に廻された清治さんの指に力が籠もる。
「清治さん?」
力の強さに驚いて上げた僕の顔を、じっと清治さんは見詰めている。
吸い寄せられそうな、漆黒の瞳。
やけに真剣な表情が、精悍な顔をなおさら綺麗に見せていた。
「明日も学校あんだろ。ぼーっとしてないで、さっさと寝ろ」
見とれて、動けなくなっていた僕からサッと目をそらし、くるりと踵を返した清治さんは瞬くネオンの海に紛れ込んでいった。
一月が過ぎた頃、僕は『シンドローム』でデートの待ち合わせをよくする美人OLと、いつの間にか親しく話すようになっていた。
初めの頃はテーブル席に座って恋人が来るのを待っていた彼女も、いまではカウンターに座って、僕や9時前にやってくる戸田さんと他愛ない話をしながら、ワーカホリック気味の彼氏をいつも長い間待ち続けている。
「里香子さん。コーヒーのおかわりサービスしてあげる」
とっくに冷たくなったコーヒーカップをソーサーごと下げ、新しいコーヒーをカウンターの上に置いた。
今日の待ち合わせもいつもと同じ7時半だと聞いてはいるのだが、彼が時間通りに来た試しはなく、壁に掛けられた振り子時計の針もとっくに9時を過ぎていた。
「あ、ごめんね。遙ちゃん。ちゃんと伝票つけといてね」
肩を落とし明らかに消沈気味の里香子さんが、作り笑顔を僕に向けた。
「大丈夫。いま、マスター倉庫だし。僕も戸田さんも美人には弱いんだ。
ね。戸田さん」
窓際のテーブル席を片づけている戸田さんに同意を求めた。
「もちっすよ。まあ、おれぁ美人に限らず遙ちゃんにもすんごく弱いけど」
戸田さんは銀色のお盆に空になったグラスを幾つも載せたまま、カウンター席にいる僕と里香子さんに向かって不器用なウィンクを投げた。
「いつにもまして遅いね、彼。電話してみたら?」
「ううん。いいのよ。電話してすぐに来れるくらいならとっくに来てるだろうから」
微笑みを諦め顔に浮かべ、新しく蒸気が薫るコーヒーカップに、美しく手入れの行き届いた指先で白いフレッシュを注いだ。
里香子さんは、どちらかといえばキリッとした顔立ちの美人なのだが優しい性格が顔に出ているのか、整ったシャープな顔立ちが実際よりかなり柔らかみを帯びて見える。
きっと優しい両親に愛されて育ったんだろうな・・そんな羨望を感じさせるほど上品で綺麗な人。
僕は女性の長い髪がうっとうしくてあまり好きじゃないけど、この人の艶やかな長い黒髪は、ふんわりと花の香りがしてとっても綺麗だ。
「お腹空いたでしょう?サンドイッチか何か作ろうか?」
「ううん。大丈夫。あの人もお腹空かして来るだろうから、それまで待つわ。
うふふ、相変わらず優しいのね。
遙ちゃんがあと5年早く生まれてたら、あんな仕事バカの朴念仁からすぐ乗り換えちゃうんだけどな」
里香子さんの笑い声と同時にカランカランとベルを鳴らし、店の扉が大きく開いた。
肩で息をしながら背の高いハンサムな青年が小走りに入ってくる。
「ごめん!里香子<」
カウンターの真横まで来ると、実直そうな好青年はすまなさそうに頭を深々と下げた。
「ごめんは聞き飽きたわ。たった今、貴方の変わりに遙ちゃんを口説いてた所なんだから邪魔しないでちょうだい」
ツンと逸らした顎とは正反対の甘えるような響きが彼を責める口調に混じる。
「え?じょ、冗談だろう?」
彼女の幼い手管にコロリと騙される、生真面目な青年は可笑しくなるほど狼狽えて、僕に助けを求めた。
「冗談に決まってるでしょう。里香子さん加藤さんに待たされて、お腹空いてるからよけいに怒ってるんですよ。
早く何か食べさしてあげないと益々機嫌悪くなっちゃいますよ」
戸田さんが奥の席から訊いてきたオーダーのコーヒーを二つ作りながら僕は彼を安心させてあげる。
まだ怒ったふりをしたままの里香子さんは、必死になって機嫌を取る彼と店を出る瞬間、僕に可愛らしく肩を竦めて見せた。
男と女の駆け引きなんて嫌と言うほど見尽くしてきた僕にさえ、里香子さんの甘える仕草はとても可愛らしく、好ましく思えた。
たとえ手練手管を使ってもそこに相手を心から想う気持ちがあるのとないのとではこれほどに違うものなんだなと痛感させられる。
僕だって何とも思ってやしない何人もの相手に、幾らでも媚びをうり、しなを作って見せたけれど、そこにほんの少しも愛情なんて有りはしなかったんだから。
僕の生活が大きく変わっても、学校での日々はほとんど何も変わらずに淡々と日常のカリキュラムをこなし、過ぎていく。
来週半ばからの学期末試験に向けて、授業のスピードが勢いを増し加速していた。試験が終われば試験休みに入り、終業式があるだけでそのまま長い夏休みに入るからだ。
この所勉強時間の足らない僕にとっては、 授業スピードの加速は頭の痛くなる問題だった。寝る時間をかなり削っても予習どころか、復習すらままならなかったからだ。
今までのように、単に孤高の人を気取るどころではなく、短い休み時間どころかお昼休みもたった一人で教室に残り、パンを囓りながら辞書を引いたり、調べ物をしたりして過ごした。
そんなある日の昼休み、洋一が僕の机に缶コーヒーを一本、スッと置いた。
冷たく冷えた缶コーヒーの周りには一杯涼しげな水滴が付いている。
「なに?」
僕は辞書を引いていた手を止めて、茫然とコーヒーを見詰めて訊いた。
「今日は凄く暑いね」
前の席の背もたれに肘を置いて、跨るように腰を下ろした洋一は、自分の手に持っているもう一本の缶コーヒーのプルトップを引き上げて微笑んだ。
「買ってきて欲しいと頼んだ覚えは無いんだけど」
自分でも嫌気がさすほど抑揚のない声で僕は洋一に言った。
「コーヒーは嫌い?」
いつも僕を切なくさせる、洋一の澄んだ瞳が僕を捉える。
思わず視線を逸らし、黙ったままポケットの小銭入れから120円を取り出して、机の上の缶コーヒーの横にチャリンと置いた。
「鴻田くん。お金はいらないよ。僕が勝手に買ってきたんだから」
明らかに戸惑っている洋一の声。
「君に奢って貰う理由がないもの。お金が受け取れないなら、コーヒーはほかの誰かにあげるといい」
声が微かに震える。凄く嫌な奴。僕だってこんな僕は大嫌いだ。
洋一は黙って唇を噛み、小銭をズボンのポケットにしまい込むと、僕の側から無言のまま離れていった。
ほかのクラスメイトとはまだ何とか普通に接することが出来たけれど、洋一が側に来ると僕の身体は強張って、話し方までぎこちなくなってしまう。
その事に、薄々彼も気づき始めていたから、わざわざ、缶コーヒー持参で僕の所に来たのだろう。
誰とでも、友好的な、優等生の彼だもの。クラスで唯一彼にうち解けない僕をほってはおけないのだろう。
彼には僕が彼を嫌ってるようにしかきっと映っていないはずだから。
面と向かえばまともに話すことすら難しいというのに、無意識のうちに僕は彼の姿を狂おしいほど探し続けている。
キリキリとこんなにも胸が痛むというのに・・・・・・・・
恋は不思議なもの・・・・・・・素直になれないのも恋でしょうか・・・・