光の中で微笑んで 第六章 

 

静寂が支配する日曜日の中央図書館。

児童書が別棟にあるここには、大人の人影しか無く、朝早くから結構な人数が来館しているのに、不思議な程静かだ。  

誰に邪魔されることもなく電話すら掛かってこない森閑とした図書館の中は、肌寒いほどクーラーがよく効いていて、外のじりじりと音が聞こえるほど照りつける夏の日差しを忘れさせる。   

自習をするには最適の場所なのだ。  

大量の書籍が並び、いつでも調べることが出来る図書館に来ることが、ここ数年変わらずに続いている僕の週末の行事だった。   

専門書の単価は一冊辺り5、6千円以上する事もあるし、調べ物がしたいときはとても1冊や2冊では事足りない。

夜遅くまで働きだしたこのごろは、特に勉強時間が足らず、日曜日といえば開館から閉館までほぼ10時間近くをここで過ごしていた。  

家にいても僕には勉強以外にさしてすることなど無かった。

昔は甲木さんが時折ドライブや遊園地に連れていってくれたけれど、

今は一緒に出かける相手もいない。  

他愛ない話に付き合うことは出来ても、普通の子のように同世代の友人を作ることのできない僕には、休日など無意味なのだ。  

学期末の試験範囲にもなっている『遺伝学』についての書籍をいくつか書架から抜き取った僕は、八人ほど座ることの出来る大きなテーブルの端に重い本を抱えて座った。  

そう混んではいないので隣の椅子にノートや筆記用具の入った鞄を置き、僕は熱心に本を読み始めた。  

同じテーブルを使う人が、何人も入れ替わり、夢中になっている僕に思いの外早く時が過ぎていくのを知らせる。  

興味深い文献を髪を掻き上げながら熱心にノートに書き留めていると、不意に僕の手元が暗くなった。

「やっぱり鴻田くんだったんだね」  

その聞き慣れた弾む声にビクリとした僕が、分厚い本から恐る恐る顔を上げると、目の前に洋一が立っていた。  

茫然としたまま黙っている僕に、彼はさわやかな笑顔を向け、以前から読みたかったのだが廃刊になって手に入らない本が、ここにあると聞いたので探しに来たのだと説明してくれた。

「そう。あるといいね」  

強張った頬に無理矢理笑みを浮かべて、やっとそれだけ言うと、僕は再び植物の遺伝に関する本に視線を戻した。  

この間の事、本当は怒ってるんだろうな。  

動揺を顔に表さないように必死になって文字を目で追おうとするのだが、内容などちっとも頭に入っては来ない。

「鴻田くん。食事は?お昼ご飯まだだろう?」

「・・・・お腹空いてないから」   

腕時計を填めずに来た僕には正確な時間は解らないけれど、たぶん正午を少し過ぎているのだろう。

「僕はお腹が減ってるんだ。一緒に食べに行ってくれないか?」

「悪いけど・・僕、もう少し調べたいんだ」 

この間のコーヒーもそうだけど、何故僕みたいな嫌な奴をわざわざ食事になんか誘うの?  

決してしてはならない期待にボールペンを持つ指が小刻みに震えだしそうで、拳が白くなるほど、きつくペン軸を握りしめた。

「あとどのくらいかかる?僕はその間本を探しながら腹の虫を宥めておくよ」  

洋一は僕のノートのすぐ横に肘を突いて、俯く僕の顔をにこやかに覗き込んだ。  

目の前にいる彼から漂ってくる、さわやかなお日様の匂いが僕と彼との違いをまざまざと思い知らせ、胸を重く苛める。

「まだ、ずっとかかるから・・・悪いけど」 

胸が苦しくてなんだか息が詰まり、僕はギュッと唇を噛みしめた。

「僕がいると、迷惑なのかな?」  

すぐそばにある彼の顔から、笑みが消え真剣な面もちに変わった。  

彼の問いに肯定も否定も出来ずにいる僕を彼は寂しそうな瞳で見詰めた。

「ねぇ、僕は鴻田くんの事をもっとよく知りたいんだ。

君はなぜいつもそんなに周りから自分をガードしているんだい?

いつも僕を警戒するのは何故なんだい?

君は僕なんかちっとも信頼できないかい?

君は凄く綺麗だから誰かにひっこく付きまとわれて嫌な思いをしたことがあるのかもしれないけど。僕は君に嫌な思いなんかさせないよ。

約束する」  

真摯な瞳が僕を捉え、真っ直ぐに僕を見据えた。  

一点の曇りもない洋一の綺麗な黒瞳。

自ら汚れることもなく、他から汚されることもなかった彼の健やかな一六年の歳月をその澄み切った瞳は物語っている。  

僕を知りたいと言った。

何故洋一達からいつも隔たった場所に僕がいるのか知りたいと・・・

僕たちの間に渡ることの出来ない広い川が流れていることなど、洋一は思いもしないんだろうな。

どれほど僕が渡りたいと、洋一達の住む浄土に行きたいと切望しても、決して渡れない深く冷たい川があるのに。

無理をして渡ろうとすれば僕は藻に絡まり沈んでいってしまうだろう。

蔑みと憐憫と嫌悪という名の川の底深くに。  

洋一は今僕のことをなんて言った?

凄く綺麗だって?

あはは、この僕が?

本当のことを知ったら、きっと後悔するだろう。

僕のことを一時でもそんな風に思った自分に。  

悲しくて・・・笑ってしまう・・・・・・・・

「・・・ねぇ、あと三十分ほどで終わるから・・・その間に濱野くん、自分の探してる本を見つけてきてよ」  

幼い頃から伯母の店や、自分の顧客を魅了してきた蠱惑の眼差しを、わざと洋一に向けた僕は、口元に指先を置き、ゆるりとした笑みを作ってみせた。  

僕の態度の急激な変化に驚きながらも真っ赤になった洋一は、それでも嬉しそうに三十分だね?と念を押して、僕のそばから離れ、書籍検索のコンピューターの置いてある図書館の壁際に向かって急ぎ足で歩いていった。  

僕はといえば時折彼の様子を窺いながら、急いで持ち物をまとめ、なじみの司書である牧原さんに急用を思い出したので本を書架に戻して置いて欲しいと頼み込んで、図書館から逃げるように飛び出した。

図書館を出て、角の辻を一つ曲がったところで、無意識のうちにとめてしまっていた息を大きく吐いた。

立ち止まった僕の身体から、クーラーの効いていた図書館から蒸し暑い表に出てきたせいだけでなく、冷や汗のような不快な汗が、一斉に体中から噴き出した。  

ビルの谷間に覗く真っ青に晴れ渡った空を手をかざしながら眩しそうに仰ぎ見る。  

夏の澄んだ青い空はまるで君そのものだね。  

僕にはあまりにも眩しすぎて、直視することすら出来はしない。  

洋一を、僕の言葉を疑いもせずに破顔した洋一を、不本意にも騙してしまったことが酷く辛くて、このまま真っ直ぐ家に帰る気が起きなかった。  

照りつける日差しの中、僕は街の中をあてどなくふらふらと彷徨い歩いた。  

もう、これで洋一も二度と僕に近づくことも、僕のことを知りたいなんて思うこともないだろう。  

それはホッとすると同時に途轍もなく寂しいことだった。  

寂しいのだ堪らなく。  

一人が寂しいなどと思うことなど、とうの昔にやめていたはずなのに、どうしていまこんなにも僕は胸にぽっかりと大きな穴が開きでもしたように寂しいのだろう。

To be continued

 

ふにゃ〜、どうして逃げ出すかな君は・・・・・・・洋一君も洋一君よね、そんなにコロリとだまされてどうするのよ。清治なら「おっと、俺をだまそうなんて、甘いこと考えるんじゃぁねぇぜ」とか言いそうですよね〈時代劇っぽいか/笑〉