光の中で微笑んで 第八章
「あら?遙ちゃん」
重いドアを押しマゼンダに入った僕を、相変わらず粋に和服を着たママが驚いた顔で出迎えた。
今日のママはススキの柄を施した光沢のあるグレーの絽の着物に黒い帯を締めている。
帯には三日月の形をしたゴージャスなダイヤの帯留めを留めていた。
「清治さんが来てるって聞いたんだけど」
薄暗い店内はボックスで仕切られているので入り口からでは誰が何処にいるのかよく分からない。
「ええ。この間の席にいるわ。お呼びしましょうか?」
「いいよ。僕が行くから」
「みゆき」
ママが僕のためにホステスを呼ぶ。
「一人で行けるから」
ママを制するように手を挙げて、僕は奥の席へと向かう。
僕の姿にまだ気づかない清治さんは3人のホステスとボックス席に座り、可奈子と名乗ったあの日のホステスは清治さんにべったりとしなだれかかっていた。
タバコを吸いながら、小さく嬌声をあげる可奈子さんの広く開いた胸元に当たり前のように手を差し込んでいる清治さんを目にした途端、くっと喉元に何かが込み上げてきて、ここも僕の来る場所ではないと改めて悟った。
何処に僕の居場所はあるのだろう・・・
「遙ちゃん?」
くるりと踵を返し、足早に店から出ようとした僕の腕をママが強く掴んだ。
「何してるの?みゆき。早く清治さん呼んできてちょうだい」
「もう、いいんだ。呼んでこなくても。離してよ、ママ」
「駄目よ。後でわたしが清治さんに怒られてしまうでしょ」
「来なかったことにしてくれればいいじゃないか!」
押し問答している内に、ホステスに呼ばれた清治さんが怒ったような顔をして僕の所へやって来た。
「座れ」
引きずられるようにボックス席に連れてこられた僕は清治さんの横に押しつけられるように座らされた。
ついさっき可奈子さんが座っていたあの場所だ。
ホステスは既に所払いをされて3人ともボックス席にはいなかった。
「飲むか?」
「・・・・・・・ごめんなさい。折角楽しんでたのに邪魔しちゃって・・・」
俯いて膝の上で両手をしっかりと握りしめた。
「そうか?楽しんでたように遙かには見えたのか?」
低く笑いながら、薄い水割りを作って清治さんは僕の前に置いた。
僕は置かれたばかりのグラスを奪うように手に取り、一気に煽る。
朝から飴玉を一個食べただけの空っぽの胃は僅かばかりのアルコールにも過敏に反応し、瞬時にかっと燃え上がった。
尋常でない僕を一瞥し、
「何があった?」
空になったグラスに新たにヘネシーと水を注ぎながら清治さんは淡々と訊く。
「なんにもないよ。あと2、3杯飲んだら帰るから。酔いたいんだ。なにも考えたくない・・・・・」
差しだされた2杯目のグラスも同じように喉へと流し込んだ。
流石に立て続けに2杯も飲むと頬までカッーとして、少しくらくらしてくる。
「もう一杯・・ちょ、ちょうだい」
早くも、ろれつが回りにくい。
「無茶したら歩けなくなるぞ」
「ハハ。歩けなくなったら、清治さんが介抱してよ」
三杯目もごくごくと飲み込んで、ホ〜っと息を付いた。
「ねぇ。少し凭れてもいい?」
返事も聞かずに、僕は清治さんの広い肩に身体を預けた。
急速に回ってきた酔いが今日一日張りつめていた神経を緩め、僕を開放的な気分にする。
甘えたい。優しい人に。
「学校もバイトもない日だってのに、なにがあったんだ?」
身体を預けた僕の顔を覗き込んで、優しく髪を撫でてくれる。
僕は急にホッとして、清治さんの広い胸に額を子猫みたいにぐりぐり押しつながら、
「なあ〜んにも」
甘えた声をだした。
誰かに甘えるなんて、両親を亡くしていらい初めてかも知れないな。
このまま暖かい腕に抱かれて眠りたい。
そんな僕の気持ちを見透かしたのか、清治さんはゆっくりと僕を引き剥がし、僕との間に常にはない距離を置いた。
思わぬ意外な反応に僕の心地よい酔いは一気に醒める。
縋るように見上げた清治さんの顔は初めて見る、苦虫を噛みつぶしたような難しい顔をしていた。
「ごめん。迷惑だよね。ほんと・・・」
みぞおちの辺りがゾワッと締め付けられて後は、言葉にならなかった。
そうだったね。清治さんは男娼の僕を嫌ってたんだっけ。
僕は清治さんと寝たいわけじゃないけど、あんな商売をしていた僕がこうして甘えれば、誘ってるようにしか見えないものね。
所詮この人も僕のことをそんな風にしか見てはくれないのだ。
僕はただ・・・・・・ただ・・・・ほんの少し誰かに優しくして欲しかっただけなのに・・・・・・・・
「・・・僕、帰る」
ふらふらと立ち上がった。
清治さんは沈黙を保ったまま、僕を引き止めようとはしない。
零れそうになる涙を必死で堪えて、足早に【マゼンダ】を出ようとする僕に、可奈子さんは勝ち誇ったような笑顔を向けた。
店を出てすぐ横にある誰も通らない真っ暗な路地に駆け込んだ僕は、声を押し殺して啜り泣いた。
結局は今更どうしたって僕は変われないじゃないか。
あれほど僕を大事にしてくれている清治さんにしたって、心の深淵では僕を蔑んでいるのだから。
ちょっとだけ・・・ほんの少し甘えたかっただけなのに・・・
「遙・・?さん」
逆光で顔はよく見えないが、ネオンの海の中に立つ小柄な姿形とダミ声で、タケシ君だと解る。
真っ暗な路地に蹲り、啜り泣いていた僕に声を掛けて、あわてふためきながら走り寄ってきた。
「どうしたんすか?なんかされた?兄貴呼んで来ましょうか?」
力強く僕を引っぱりあげて立たせると、タケシ君は僕の衣服に異常ないことを手早く確かめた。
「・・大丈夫だから」
狼狽えて涙を拭う僕に、
「兄貴【マゼンダ】にいるから、ちょっとまっててくださいよ」
言い置くなり、タケシ君は走っていってしまった。
「タケシ君!」
呆気にとられた僕はタケシ君の派手なオレンジのアロハを見送って、仕方なくその場を後にした。
清治さんに泣いてたなんて知られるのはとっても嫌だったけど、今更仕方がない。
ひとりぼっちの部屋に帰るのは気が進まなかったけど、街の中にいても所詮ひとりぼっちに変わりはなかった。
家に戻って眠ろうか・・・眠れば何も考えなくて済むかも知れない。
幼い日の僕が、僕を責めに来ない限り。
案の定、夢の中で僕は僕を苦しめた。何度も目が覚めては溜息を吐き、また何度もうつらうつらと眠り、疲れ切った状態で夜が明ける。
*********
翌朝、学校に行くと有り難いことに、洋一は僕を避けた。
僕が幾ら彼を目で追っていても、彼は一度も僕の方を見ようとはしない。
正直言って、もうそれは、寂しいと言うのを通り越して、なんだか至極有り難かった。
これ以上彼が僕に興味を示し続けたら、僕は手ひどく彼を傷つけてしまうだろう。
どうしてもそれだけは避けたかったからだ。
それに、僕はこれで心おきなく、彼を眺めていられるし、僕が見詰めていることを彼に気づかれる心配もない。
それでいいのだ。
それだけで僕の心は救われる。
彼の清浄な姿は遠くに有ればいいのだ。
決して僕の手の届かない遠くに。
そうすれば僕はイソップの狐になり、あの葡萄は酸っぱいと思って諦め、眺めることだけで満足することができるのだから。
綺麗で美味しそうな、たわわに実った葡萄。
とても、とても美味しそうだけど、あの実は酸っぱくて僕には食べられないのだと・・・
洋一も僕のことをそう思えばいい・・・・・・・・
僕のことを綺麗だと思ってくれているのだとしたら、無理に摘み取ろうとせずに、あの花には毒の棘が生えていると、だから遠くから愛でていればいいと思ってくれていればいい。
手折って間近にしげしげと眺めたら、綺麗だと思っていた花に、一杯、あぶら虫がついていることもある。
そのことに気づいてしまうより、ずっといいのだから。
コメントなしです・・・・・・・ク、クライ、暗すぎる〈笑〉