★もう一度だけ、ささやいて★

                    

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俺の声が、兄貴と同じだと気づいたのは、むろん鈴の方だった。  

声って奴はどういう物か自分が思っている俺の声と、人が聴く俺の声では、微妙に違うらしい。
時折カセットに録音された声やなんかを聞くと酷く違和感を感じるのもそのせいなんだろうな。

自分の聴いている俺の声は実際の声(カセットから聞こえてくるのが本当の声なんだろう?)より少し低いように俺には思える。  

 

あれは中一の春、中等部に入学して間もないころだっただろうか。  

何処の学校にも必ずある桜の花が散り始めたころ。

俺と並んで歩く鈴の頭上に、ヒラヒラと花びらを散らしながら、萌えだしたばかりの淡い緑の葉と散り急ぐ淡い桜色の花びらが、吸い込まれそうな蒼穹の下で絶妙なコントラストを醸し出していた。  

柔らかな春風に舞い散る花びらのスクリーンの中で、俺の他愛ない話に微笑む鈴は桜の妖精のように綺麗だった。

花ぼけ気分で、ぼーっとしていた俺の横で、鈴があれ?と呟いた。

「ねぇ、研くん風邪でもひいてるの?声掠れちゃってるよ?」  

ポワンと鈴に見とれていた俺が鈴に声のことを指摘されて思い返してみると、ここ数日なんだか喉の様子がおかしい・・・  

喉に手を当てて咳払いを一つしてみたが、のども痛くねぇし、別に体の調子が悪いわけでもないので、

「なんか、ちょっといがらっぽいだけだから、心配することねーよ」  と、その時は笑って答えた。    

それから、2、3日たった休みの日。

出かける予定もなく、居間にゴロリと寝っころがってテレビを見てると、壁際に置いてある今ではほとんど見かけることの無くなった、ダイヤル式の黒電話がけたたましくりんりんと鳴った。

「はい、東森です」  

俺が出ると、

『あ、あの鈴矢です。研くん居られますか?』 

一瞬の沈黙の後、受話器の向こうから、やけに緊張した鈴の声が返ってきた。  

いつもなら、『研くん?僕だけど』とすぐに話しかけてくるのに。

「どしたのさ?」

『あ、だから・・・・・あのぉ・・・研くんをお願いします・・』 

鈴が今にも消えそうな上擦った声を出す。

「だからって?お前なにいってんだよ?」

『ご、ごめんなさい!!!』  

泣き出しそうな声で叫ぶと、いきなり電話がガチャンと切られた。  

一方的に切られた電話に腹が立つよりも、訳のわかんない内容に、ぼーっと重い受話器をもったまま放心していた俺は『どうしたの?』と、お袋に声を掛けられてやっと我に返った。   

俺は受話器を叩き付けるように置くと、慌てて家を飛び出した。    

鈴の家は俺んちから五百メートルほど離れた所に有る。
高級住宅街の中でも一際目立つ豪邸だ。  

まあ、幼稚舎から、エスカレーター式の私学の学校に通う奴はほとんど中流階級以上の家庭に育っては居るんだろうけど。  

実際、銀行の頭取の息子とか、大企業の社長や、専務の息子なんかがごろごろ居るし、俺ん所はただの自営業だとか言われて鵜呑みにしていたら、宝石商の息子だったなんて事もある。

鈴ちのお父さんも代々続く財閥系の企業の取締役をしていて、一人っ子の鈴もいずれ跡を継がなきゃならないらしい。  

見かけと違い芯はかなりしっかりしているし、俺なんかの数倍頭もいい鈴は、きっと立派な後継者になるんだろうけど・・・  

俺んちなんかは一流企業とはいえ親父はただのサラリーマンで重役なんかに成れるわけでもなさそうだし、ほんとはあんな学校に通うような家柄じゃないんだけど。
たまたま代々この一等地に住んでいて、広い敷地を持っていたので、今は敷地の半分を駐車場として月極で近くの人に貸しているんだ。

バブル以降、都会の駐車場料金は軒並み信じられないほどの値段に跳ね上がり、よそに比べるとかなり良心的な値段で貸してはいるものの毎月それだけで親父の月給とほぼ同じぐらい入って来るらしく、ご先祖様に感謝!って事らしい。  

「あら?研二くん。いらっしゃい、お久しぶりね」  

いつ見ても、俺んちのお袋なんかが足下にも及ばないほど綺麗で上品な鈴のお母さんがにこやかにドアを開けてくれた。  

鈴の家ときたら、まずカメラのついたインターホン越しに電子ロックを開けて貰い、鉄格子で出来た大きな門を抜け、いつも綺麗に四季の花を咲かせている前庭の中に続く淡紅色の御影石で出来た小道を通って、初めて樫の木の一枚板で出来た大きなドアにたどり着けるんだ。

「鈴、いますか?」  

この家に入るたびに俺は鈴と俺の住む世界の違いを、まざまざと感じさせられる。

「お部屋にいると思うのよ。覗いてやってちょうだい。私ちょっとご用が有るから、おかまいできなくてご免なさいね」   

鈴によく似た面差しのおばさんは優雅にニッコリ微笑むと、上品な翡翠色のドレスを翻して、そのままマーブル模様の大理石で出来た廊下を奥へと戻っていった。  

俺も躊躇することなく、勝手知ったる他人の我が家である鈴の部屋に向かった。  

洋画によく出てくるような螺旋を描いて上に伸びている幅の広い階段を二階へとかけ昇り、廊下の脇に幾つも並ぶドアを通り過ぎ、一番奥にある鈴の部屋のドアをノックする。  

返事が無いので、ノブを廻して入っていくと、一人で寝るには広すぎるほどのベッドの端に腰掛けた鈴が、白い高級そうなレースの付いた枕を抱きかかえた格好で顔を埋めて肩を振るわせていた。

「鈴?泣いてんのか?」  

狼狽えた俺は唐突に声を掛けた。

これも見た目と違い、結構我慢強い鈴は滅多な事で泣いたりしないんだ。  

俺の声にはじかれるように顔を上げた鈴は 真っ赤になった目で俺を凝視している。

「鈴?どうしたんだ?」  

信じられないと言った顔をした鈴は、

「研くん・・・どうして?どうして声だけ眞一さんなの?」

「なに・・・いってんだよ?さっきはわけわかんないこと言って電話切っちまうし。
お前おっかしいんじゃねーの
?」  

ふかふかの青いペルシャ絨毯の上をつかつか歩いてベッドに近づくと、鈴の白皙の額にピタッと手を乗せてみたが、別に熱なんかないようだ。

「熱は、ねえみてーだけど・・」  

今度は俺のおでこに手を乗せてみたが、やはり変わりはない。

「研くん・・・鈴矢くんって囁いてみて」

「あん?なんだよ?」  

いきなり俺の腕を掴んで引き寄せた鈴はキスを待つような仕草で、目を瞑り心持ち顎を上にあげた。

「いいから早く」  

誘うように鈴の紅い唇が動く。  

俺はなんの事かさっぱり解らないまま、鈴の突然の行動に早鐘のように胸をドキドキさせて、

「す、鈴矢・・くん」  

間近にある紅い唇が艶めかしくて、堪えきれなくなった俺がガバッと鈴の両肩を掴んだ途端、鈴はパッと両目を開き(いいもんめ〜け!)と言わんばかりの顔をして俺を見た。 

むろん上品な鈴はそんな下品な言葉など口にこそ出さないが、俺にはまるで猫が獲物を見つけて舌なめずりしているような気がしたんだ。

「研く〜ん。これから僕のこと鈴矢くんって呼んでね」  

泣いたカラスが何とやら、うきうきと鈴は甘ったるい声で言う。

「や、やだよ<

「いいじゃない。研くんて、声変わりしたんだね。眞一さんの声とそっくりで僕さっきは眞一さんにからかわれちゃったのかと思ったんだよ。
でもこれから毎日眞一さんの声が聞けるなんて。僕、う・れ・し・い★」

両手を当ててポッと桜色に頬を染めた。

「お、俺。ヤだかんな!
鈴の事、今更鈴矢くんなんて、コッぱずかしくて言えるかよ
<」  

幾らお前が俺の気持ちに気づいてないからって、これから毎日兄貴の身代わりをしろだなんて。
それはあんまりだろう!

鈴のドンカン!馬鹿野郎ぉ〜<      

そう言って二年前に鈴の部屋を飛び出した俺が、プライドを捨てて毎日こうやって『鈴矢、愛してるよ』と言わされてるのも、ひとえに運動部の厳しい上下関係故だった。  

俺がサッカー部に入部してしばらくたった頃、主将の葉月さんに呼び出され、俺が鈴とかなり親しいとの情報のもと、校内一の美少年である鈴をマネージャーに連れてこいとのキツーイお達しが下されたんだ。  

サッカーに微塵の興味もない鈴に、断られるのを覚悟のうえで、おそる、おそる頼んで見たら、

「いいよマネージャーになっても。大事な研くんの頼みだもの。
でも、一つだけ僕のお願いも聞いてくれる?」  

ホッとして頷いた俺に、鈴はスリッと身体をすりよせて、

「練習が終わった後に毎回『鈴矢、愛してる』って僕に囁いてくれるなら、してあげる」

「うっ・・・」  

俺に断れるはずなど無いのを十分承知で、憎ったらしい程、可憐に鈴の奴は微笑みやがったんだ。