★もう一度だけ、ささやいて★
( 8 )
「まあ、純愛もいいが程々にしとけ。人間なんて所詮はエゴの固まりなんだから」
普段は机の下に隠してある俺の灰皿にたばこを押しつけて兄貴はゆっくりと立ち上がった。
緑色をしたガラスの小さな灰皿には10本近くの吸い殻が入っていて、俺が帰ってくるのを此処でずっと兄貴が待っていたことを物語っていた。
「兄貴は?兄貴はいままで誰も本気で好きになったことがないのかよ?」
スラリと伸びた長い足に視線をやったまま、ずっと長い間俺の心にあった疑問を口にした。
「ないね。寝る相手にしても嫌いじゃないという程度だな。
お前を見てるとそこまで好きになれるって事が羨ましい反面、恐くなるよ。
お前って、鈴矢くんが凄く危険な目に遭ってるとしたら、なんにも躊躇うことなく自分の身を投げ出して助けるだろう?」「そりゃ・・そうだろう・・・・・」
そんなの当たり前じゃねぇのか?
「俺にはとても信じられないね。赤の他人の為に自分を犠牲にするなんてさ。
俺は母さんやお前が溺れてたりしたら、すぐに飛び込んで助けようとするだろうけど、家族以外ならレスキュー隊が来るまで絶対何もしないね。
だいたい、家族や自分以上に大事なものなんか作ったりした日には、気が気じゃなくておちおちそいつから目が離せないじゃないか」「なんだぁ?それぇ」
まじめな顔してそんなことを言う兄貴がおかしくて俺はカラカラと笑いだした。
それって、結局好きになったら命がけで愛してしまいそうだから、好きになりそうにない相手とだけ付き合ってるってことかよ?
「そうなりそうな相手、周りにいるのかよ?」
突っ立ったままの兄貴をからかうように見上げると、兄貴はしばらく首を傾げて何か考えてから、諦めたように首を振ると、乱れた前髪を後ろに掻き上げた。
「考えると何とも憂鬱な気分になるから、なるべく考えないようにしてはいるが・・・滅茶苦茶ヤバイのが一人、いるにはいるな・・・・・・・
おいおい、研二、そんな物欲しそうな顔してもだめだ。お前には絶対教えてやらないからな。
まあ、教えてもお前の知らないあいてだけどな。
それに恋愛になる可能性なんか100%ないね」照れくさそうな、それでいてどこか切なそうな笑い顔を浮かべた兄貴は、明日女子大生とデートがあるからもう寝るぞといって、部屋に戻っていった。
家族や自分以上に大切な人・・・そんなものつくったらおちおち目も離せないか・・・・・・・・・
兄貴の言うとおりかも知れないな。
月曜日の朝いつもの待ち合わせの時間に鈴は駅前の待ち合わせ場所に現れなかった。
電車を結局二本乗り過ごして始業時間ギリギリに学校に着いた俺が鈴の教室を覗いてみると鈴の机の上に鞄が置いあった。
鞄があるって事は登校して来てはいるみたいだが、まもなく授業が始まるって言うのに教室の中に鈴はいなかった。
昼休みも鈴の姿は何処にもなくて、俺はあてど無く鈴の姿を求めて校内を歩き回った。
話したかった。
今まで言えなかった色んな事を、拒絶されるのが恐くて言えなかった思いを・・・・・・
食堂や別棟になっている図書館を探し回った後にフッと体育館の横を通り過ぎようとしたとき、体育倉庫の物影になったところに見間違えることのない鈴の姿がチラリと見えた。
慌てて走り寄った俺の足が、鈴の向こう側にいる光輝の姿を認めた途端パタッと止まった。
相変わらず甲斐甲斐しく鈴の世話を焼く光輝に鈴はニッコリと微笑み掛けている。
光輝は鈴の傍にいるだけで光栄だといわんばかりに自分の事はそっちのけで、鈴の食べるパンの袋を取り去ってやったり、缶ジュースのプルトップを開けてやったりしている。
なんの話をしてるかなんてわかりゃしないが、光輝の腕がなれなれしく鈴の背に廻されても鈴はいつものように冷たい視線でそれを払いのけようとはせずに、その腕にゆったりと身体を預けたままだった。
─── 悩んでたのは俺一人って事か・・・・・・・・
かつて感じたこともないほどの焦燥感で胸の中がじりじりと音をたてて、焼け焦げていくのが分かる。
俺は二人が気づかぬうちに、くるりと踵を返すと、誰もいないであろう昼休みの部室へと向かった。
グランドの横に長屋状態で並んでいる運動部の部室。
左から3番目のオレンジ色のドアがサッカー部の部室だ。
ドアの鍵は練習時間以外は閉められていて顧問の宮下先生が持っているのだが、裏窓の鍵が壊れているので時折3年生の俺達はタバコを吸いに来たり、さぼりに来たりしていた。
汗くさいロッカーにぐるりと囲まれたテーブルのパイプ椅子に座り込んだ俺はだらりと両腕をたらし、放心状態で天井を見上げた。
丸い電球の横を小さな黒い蜘蛛がごそごそと動いている。よく見ると部屋の隅に蜘蛛の巣が張られ、可哀想に食べられてしまった蝶の羽が一枚だけ残って糸の端に引っかかりヒラヒラと揺れていた。
もうなんの用もなさない、一枚の羽・・・・・・まるで俺みたいじゃないか。
なんてことはない、俺の後釜は光輝ってことなんだな。
鈴にしてみれば俺なんかゲームのポジションと同じ。誰かがスタメン落ちしても幾らでも変わりはいるって訳だ。
朝からずっと鈴を探し続けて、俺にとっては鈴の次ぎに大切な飯まで食わずに奔走して、やっと見つけた結果がこれかよ?
馬鹿馬鹿しくて腹の底から笑いが込み上げてくるのに、どういう訳か頬に次から次と熱いものが溢れてきて止まらない。
鈴が泣いて俺に『僕を置いていかないで』と懇願したのはたった二日前だってぇのに、あれも全て演技だったわけだ。
あの女の子達は泣くのも全てゲームの内だと兄貴は言ったけど、滅多に見せねぇ鈴の涙も所詮その子達と同じように俺を旨く牛耳るための武器にすぎないのかもしれねぇな。
鈴には誰かが必要なんだ。
儚げで危うい美貌を持つ鈴に常に寄り添って、不埒な行いをしようとする、よからぬ輩から守ってやる下僕のような存在が。
俺はきっとその役にピッタリの存在だったんだろう。
鈴に何かがあれば我が身を投げ出して守るほど鈴を想い、それでいて臆病者の俺は鈴に嫌われることを恐れて指一本出すことが出来ねぇんだから。
鈴の恋人になることが無理なら、せめてかけがえのない親友で居たいと思い続けて来たって言うのに。
鈴にとって俺は親友ですらなく、幾らでもスペアのきくただの護衛でしかなかったなんて。
兄貴の言うとおり、まじで純愛なんて割に合わねぇよ。
そんなもんにしがみついてる奴は現実の観れないただのバカだ。
鈴だけをただひたすら十年以上も見詰めてきた俺は、結局ただの悲しいピエロってわけだ。
しばらく後、俺と鈴との関係が壊れてしまったことは、傍目にも一目瞭然だったらしく、時折心配顔の友人や先輩に呼び出されてはどうしたんだと訊かれたりした。鈴の側には今やピッタリと光輝が寄り添い、当の鈴は俺と話すどころか目を合わそうとすらしない。
どうしても伝えなければならない部関係の伝達事項はメモに書いて俺に手渡すこともあった。
鈴の俺に対する態度は冷たくすらない。
強いて言えば、俺はどこにもいない空気のようなもの。鈴のにとって、取るに足らない、何処にでも転がってる物質に過ぎないような態度だった。
そう言う態度を鈴がとるのは、あの日の俺の言葉や態度に腹を立てているからなのか、それとも俺など鈴にとって本当にもう口を利くほどの価値も無い存在だと思っているのか、それすら今の俺には分かりゃしない。
ただ、俺の方も鈴に無視されている方が光輝と寄り添う姿を目の当たりにすることも少ないのでかえって有り難かった。
「研二!」
「あれ?葉月先輩。何してんすかこんなとこで?」
部活が終わりみんなと一緒に飯を食いに行くこともしなくなった俺が中等部の正門を出たところで前主将に声を掛けられた。
葉月先輩は単に美形好みと言うだけでなく本人もかなりの美貌の持ち主なんだ。
高等部2年、17歳の彼は俺より10センチ以上も背が高く。もう完璧に大人の雰囲気がする。
そのくせ男臭い感じは皆無で、鈴が永遠の美少年なら差詰めこの人は永遠の美青年てとこだろうか?
短くスタイリッシュに流した黒髪とさわやかな目元がとても印象的な人なんだ。
伊本のようにさわやかすぎて堅い印象でもないし、浅野のように整いすぎた顔で冷たい訳でもなく松浦のように雰囲気が優男と言うのとも違い、文句無くカッコイイんだな。
「可愛い後輩でもナンパして飯でも食いに行こうかと思ってね」
葉月さんは柔らかく目元を和ませた。
「俺、どうっすか?」
親指を胸に突き立ててアピールする。
「ま、たまには逆ナンもいいかもな。なに食いに行く?」
俺の頭に大きな手を載せた先輩が笑いながら訊いた。
「ラーメン以外なら何でも」
「そうか。じゃあピザでも食いに行くか?」
「いいすね」
学校のすぐ近くに住む友人の家の駐車場に置いてある先輩のバイクの後ろに乗っかって、俺達はバイキング形式のピザ屋に行くことにした。