二、三日経ってもハンカチは俺の鞄に入ったままだった。
あれ以来、なんとか話の糸口を掴もうとしているにも関わらず、蓮は完璧に俺を避けていたからだ。
「勇貴!学食いかないか?」
でっかい弁当箱のふたを閉めるなり慎が言った。
「お前のその細い体のどこにそんなに入るんだ?」
「今日も道場で朝からちょこっと黒鬼と組み手してきたから、こんなんじゃあ全然たんないよ」
「だから、さっきもそう言って休み時間に購買でパン買って食べたんじゃなかったのか?」
横目でちらりと慎を見た。
「堅いこと言うなよ。ジュース奢ってやるからさ。な?」
俺の肩をつついた。
「大のカップの奴を奢ってくれるんなら一緒に行ってやってもいい」
慎は尊大に言う俺にぶつぶつ言いながらも、少し空いてきた食堂につくと自販機でコーラの大を買って俺に渡した。
自分の分は流石にご飯ものはやめて蕎麦にしたようだ。
箸を銜えながら、丼鉢を持って空いている席に歩いていく慎は何度見ても頭が痛くなるくらい似合わない・・・
「蓮に避けられてるみたいだな」
慎は蕎麦を豪快に啜りながらいきなり痛いところを突いてきた。
「うん。何回か話しかけようとはしたんだけどな」
俺は肩を竦めて紙コップに口をつけた。
「あいつ、お前と清水に妬いてるみたい」
聴いた途端、俺はコーラにむせた。
「ば、馬鹿なこと言うなよ」
せき込みながら慎を見ると、憎たらしいほど平然と食べ続けている。
「俺に『志賀さんは清水君と親しいの?』って訊くから俺の次に仲がいいって、言っといたから」
「な、なんでそんなこというんだよ!」
周りにいた何人かが振り向くくらい大きな声で叫んでしまった。
「まあ、そんなに興奮するなよ。清水と仲がいいのは事実だろ?」
たしかに、中学からの知り合いのいない俺が友達の名前を挙げるとしたら慎の次に紘一と真琴であることは確かだけど。
「蓮の奴『清水君、とっても可愛いものね』 なんて、言うんだぜ」
慎は蕎麦を食べる手を止めて、いたずらぽい顔で俺を見た。
「お前、また俺をからかってるだろう」
「全然。俺は嬉しいんだ。蓮がそういう感情を持つてことが」
「なにが?」
「俺この前言っただろう?蓮に恋愛感情がもてるかどうかわからないって」
「ああ」
「恋愛ほどエゴイスティックなものはないだろ?たとえそれがその人の幸せだと分かっていても、好きになった人が自分以外の誰かのものになるなんて考えられないのが恋だろ?」
「そりゃそうだけど」
「いままでの蓮の【好き】はその人の幸せだけを願う【好き】だったんだ。
もしいままでの蓮ならお前と清水の仲を邪推したりしない し、かりにしたとしても二人が好きあってるんなら喜びこそすれ勇貴を避けたりしない。
まあ、蓮自信、初めてじぶんのなかに芽ばえた醜い感情をどうしていいのかわからないって、とこだろうな」
蓮が俺に妬いてくれてる・・・?
胸一杯に甘酢っぱい想いが広がる。
「こらこら勇貴!でれでれするな恥ずかしい」
慎が活を入れて続ける。
「俺、前々から思ってたんだけど。あの言い伝えの女人云々ってやつ、あれ実際は肉体的な事じゃなくて、神子が本心から誰かを恋しいと思うこと何じゃないかって思ってるんだ。
好きになって自分だけのものにしたいって言う人間らしい傲慢な感情を持つときなのかなってね。
ついこの前までは蓮にそんな感情が芽ばえっこないかとあきらめ掛けてたんだけど、今回のことで希望が見えてきたような気がするんだ。
お前も出来るだけ蓮をヤキモキさせてやってくれよな」
俺に変なハッパを掛ける慎に思い悩んでいたことを思い切って訊いてみた。
「黒沢さんのことを、蓮はどうおもってるんだ?」
「何だ?お前まで焼き餅やいてんのか」
「茶化すなよ!」
「確かに蓮の中で今はお前より近いところにいるだろうな」
割り箸でほとんど汁だけになった丼を突っきながら、かなりきついことを慎は淡々と言う。
「好き・・なんだろうな。きっと・・・」
病院で黒鬼に見せた、とろけるような蓮の笑顔を思い出した俺は、空になったコーラの紙コップをクシャと潰した。
「まあな。俺には何ともいえないよ。この先は直接蓮に訊くんだな」
この話はここまでだと立ち上がった慎は食器を下げに行ってしまった。
慎が離れるのを待っていたかのように、真琴がちょこんと俺の隣に座った。
しばらく言い出しにくそうにもじもじしていたが思い切ったように口を開いた。
「ねえ?ちゃんと渡せた?」
「え?」
一瞬何のことか分からない俺に、周りを気にするようにそっと肩に手を置いた真琴は俺の耳元に口を寄せて小声で訊く。
「ハンカチ」
「ああ。悪かったな走って持ってきてくれたのに、実はまだなんだ」
愛想笑いを浮かべる。
「そう?でもタイミング逃しちゃだめだよ。ぼく、応援してるからね」
くりくりした目で俺を見ると真剣な顔で助言する。
「応援って真琴。相手も知らないのにか?」
不釣り合いなほど真面目な顔をした真琴の可愛さに苦笑が漏れた。
「知ってるよ、ぼく」
「じゃあ、誰だか言って見ろよ」
見当違いの返事が返ってくるとばかり思ってた俺の耳に再び口を近づけると真琴はズバリと言ってのけた。
「郷守れ・ん」
身体じゅうから火を吐きそうになった俺はそれでも理性を掻き集めて囁くように真琴に尋ねる。
「誰かに聞いたのか?」
「ううん。だって志賀君の蓮くん見る目が恋してるもん」
自信たっぷりに返事をする真琴を腕の中にぐいっと抱え込んで。
「俺たち友達だよなぁ真琴」
低い声で言う。
「わかってるよぅ。だれにもいったりしないって。ほんと、応援してるんだから」
苦しそうにしながらも腕の中でころころと笑う。
「ゆ・う・き」
頭の上から声を掛けられて真琴を抱いたまま見上げると、にやにやしながら立っている慎がいた。
「ん?」
慎が顎でしゃくった方を見るとなぜか食堂中の生徒が好奇の目を俺たちに向けている。
「・・・・!」
みんなの目が何を意味するのか気がついた俺は真琴からパッと手を離した。
「こりゃあ、明日には学校中の噂になるのは間違いなしだな」
慎の奴はそれだけ言うと口笛を吹きながら好奇の目の中に俺たちを置いてさっさと行ってしまった。
次の日、俺を待ち受けていたのは真琴と俺が付き合っているという、まことしやかな噂だった。
まったく、いくら真琴が可愛いからって男子校でもないここで、どうしてこんな噂が立つのか俺にはよく分からない。
まあ、確かに俺の好きな蓮も同性には違いないんだけど・・・
三時間目の授業のために化学の実験室に向かう廊下で慎と並んで歩いていた俺の後ろからぱたぱたと真琴がやってきた。
「ごめんね。志賀君こんな変な噂立っちゃって」
心底申し訳なさそうに俺に謝る真琴の肩を気にするなと叩いた俺は、開いたD組のドアから蓮が一人で出てくるのに気が付いた。
蓮も俺たちに気が付いたらしく、ここ数日の強張った態度が嘘のようにニッコリと笑いかけてきた。
「何処へ行くんだ?」
慎が側によって声をかける。
「司書の先生がこの本を見せてほしいって仰ってたから」
片手を挙げて難しそうな本を見せると俺の方を見た。
「志賀さんたちは化学室?」
「う、うん」
「じゃあ、途中まで一緒だね」
にこやかに今度は真琴に話しかけながら俺の前を蓮はさっさと歩き始めた。
ぼんやり、ふたりの後ろ姿を見送る俺の横で不意に慎がプッと吹き出した。
「ちょっと、効きすぎたかもな」
足を止めたまま意味ありげに俺をみる。
「先に行っててくれ」
踵を返した俺は教室にいったん戻ってから全速力で図書室に向かった。
たかだか二十分の休み時間に図書室に訪れるものは少なく、息を切らして飛び込んだ俺以外に本を探している数人の生徒の他は、司書の先生と親しそうに話している蓮だけだった。
「あら?一年生の志賀君だったわね?」
二人の方へ息を整えながら歩いていった俺に司書の先生が声をかけた。
ピクリと蓮の背中が引きつるのがわかる。
「あ、じゃあ先生これいつでもいいですから」
「有り難う、郷守君。この間の本入ったらすぐ連絡するわ」
蓮は軽く会釈すると急いで俺の脇をすり抜けようとする。
「まてよ」
蓮は俺の声が聞こえなかったようにそのままドアに向かう。
「逃げないでくれ」
追いかけた俺は蓮の肘を掴んで引き留めた。
「逃げるなんて・・・僕は用事が済んだので帰るだけだから」
長い睫毛を伏せたまま蓮が応えた。
「コレ、この間、ハンカチ汚したから・・・」
しっかり、握っていたためにちょっと皺の寄った包装紙に包まれたハンカチを差し出した。
「こんな事して貰わなくてもよかったのに・・・」
包みをじっと見つめたまま言葉に詰まっていた蓮は、思い切ったように俺の方に顔を上げると口元にだけ微笑を浮かべてハンカチを受け取った。
「有り難う、志賀さん」
そのまま、俺に背を向けて歩き出した。
「蓮!」
廊下の窓から差し込む光の中で透けるような華奢な背中に、思わず幾度となく一人で呟いた愛しい人の名前を呼んだ。
名前を呼ばれて振り向いた蓮は、なんだか悲しそうな目で俺を見た。
「ごめんなさい・・・僕あなたの友達になれないみたい・・・」
震える声でそう言うと、まばらな人影の中を走り去ってしまった。
何度も何度も、蓮の言葉が頭の中をぐるぐる回る。話のきっかけさえ掴めれば、もう一度初めから蓮との関係を修復できるんじゃないかと思っていた俺には、さっきの蓮の言葉は予想以上に冷たいものだったんだ。
カシャンと派手な音を立てて薬品の入ったフラスコが割れた。
「あ!すみません」
今は化学の実験中だったんだと物思いから現実に帰った俺が、あわてて片づけようとした途端、透明の薬品がみるみるうちに赤く染まる。
「志賀君!?」
なんで、赤くなるんだろう?と鈍ってしまった思考回路を動かしている俺の腕に、同じ班の真琴が飛びついた。
「ばか!何してんだよ」
真琴の声で振り向いた慎の声でやっと自分の手のひらが深く切れていることに気が付いた。
「志賀、早く保健室に行きなさい。清水君わるいが、付いていってやってくれ」
俺の手を持ち上げてハンカチを押し当てている真琴に化学の古谷先生がそう言うと教室のあちこちから冷やかす声が聞こえる。
「行こう、志賀君」
俺の腕をそっともった真琴はヤジなど気にせずに保健室迄付き添ってくれる。
「悪いな」
苦笑いを浮かべたものの、段々とずきずき傷が痛み出してきた。真琴が当ててくれているチェックのハンカチも既に真っ赤になっている。
「いっぱい出てるね」
ハンカチに滲んでいく俺の血の量の多さにまるで真琴がけがをしたかのように真青な顔色をしている。
保険の先生が深いけれど縫わなくても良さそうねと言いながらてきぱきと手当をしてくれている間気丈に側に立っていた真琴が、先生の『これでいいわね』の一言とともに床に崩れ込んだ。
「大丈夫か?真琴」
ベッドの脇に置かれたスチール椅子に座っていた俺は、のぞき込むようにベッドの中で目を開けた真琴に声をかける。
「ぼく・・」
しばらく状況が飲み込めなかった様子でぼんやり俺を見返していた真琴はがばっと起きあがって叫んだ。
「志賀君だいじょうぶ?」
「お前って変な奴」
思わず、ブッと吹きだした。
「ぼ、ぼく。昔から血に弱いんだ」
寝顔を見られたのが恥ずかしいのか照れくさそうにおでこを掻いた。
年の割に子供っぽいけれど、正直言って最近の女の子にはない初さと可愛さを真琴は持っている。
確かに蓮達のいるせいで真琴の影が薄いと言っても親しみやすさのせいか、上級生からの手紙なんかがちょくちょく下駄箱に入っているのを俺は知っていた。
同性の俺達がほんの少し食堂でふざけていただけでこんな噂が立つのも真琴の可愛さ故なんだろうな。
きっとそんなこともあって一番親しそうなのに紘一は、真琴との間にいつも僅かに距離を置いているのかもしれない。
「あれ?保険の先生は?」
衝立の向こうを覗くと真琴が不思議そうに訊く。
「昼飯食って来るってさ」
「え〜!もうそんな時間なの?」
「うん。お前よく寝てたからな」
「ごめんなさぁい」
真琴は癖なのか可愛くぺろっと舌を出した。
「そうだ、ハンカチもう使えそうにないからゴミ箱に捨てたんだ。後で買って返すから」
「いいよ、そんなの気にしなくて」
全く悪気のない真琴の言葉さえ今の俺にはさっきの蓮に重なる。情けなくて、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「どうかしたの?痛い?」
ベッドから降りながら、大袈裟に真っ白な包帯でぐるぐる巻きにされた俺の手に痛ましそうな目をやると心配そうに尋ねる。
「大丈夫。早くしないと昼飯食いっぱぐれるぞ」
出来るだけ明るく言うと真琴の背中を扉の方へ押した。
部屋を出ようとしている所に紘一がニヤニヤしながら俺と真琴の様子を見にやって来た。
「やけに遅いと思ったら真琴ひっくりかえったんだって?」
近くに来るなり紘一が真琴の柔らかそうな頬を小突いた。
「誰に聞いたんだよぉ」
真琴は思いっきり拗ねたように、ほっぺたをプクッと膨らませた。
「来る途中で保健室の先生に会ったからな。 先生も笑ってたぞ」
「ふ〜んだ!ほんとは違うこと考えてわざわざ来たんじゃないの?」
俺の前では見せることのない大人っぽい目つきで紘一を見ると、もう一度紘一が今度は真琴のおでこを小突いた。
「有り難うな、真琴」
真琴の紘一を見つめる目の熱さに、蓮と俺のことを応援すると言った、真琴の言葉の裏にある気持ちをくみ取った。
俺は食堂に行く二人と別れると今更教室に戻って昼飯を食う気にもならず、自然と俺の足はあの場所へ向かった。
相変わらず酔うほどの芳香を漂わしているバラの中で、あの日蓮を抱きしめた場所まで来た俺はここに居るはずもない蓮の姿を求めた。
そもそもこんなところに来たことが事態が間違いだったのかもしれないな。あの日蓮に逢いさえしなければ、こんな惨めな自分に気が付きはしなかったのに。
もともと、都会の雑踏の中で生まれ育った俺は、本来あまり感情的にもならずどちらかと言えばクールなほうだと自分でも思っていた。勉強もそこそこ出来るし、友達も少なくない。女の子にもまあまあもてるほうだった。
何となく気に入った子がいて、相手からさそわれるままにデートする事が有っても、自分のものにしたいとか、ましてその子の事を考えて何も手に着かないことなんかいままで一度もなかったんだ。
それなのに、友達にすらなれないと言われた今でさえ、こんなにも蓮が恋しいなんて・・・
目の覚めるような雲一つない五月晴れの中で、乱れ咲く沢山の花色の中から蓮の唇と同じ色の紅い花びらを一枚取って、俺はそぉっと唇に押し当てた。
「飯も食わずにどこに雲隠れしてたんだ?」
五時間目の歴史の授業中に慎が訊いてきた。
「痛み止めで眠くなったからバラ園のベンチに横になって寝てたんだ」
黒板の前では定年間近の山岡先生がそれこそ眠くなるような中国王朝の話を年表を指し示しながら延々としている。
「蓮となにかあったろう」
「べつに」
「ふ〜ん。お前の怪我のこと心配してたんだがな」
「蓮はきっと誰の怪我だって心配するさ」
嫌になるほど嫌味な言い方になる自分に気付きながらも止めることが出来ない。
「蓮に・・・・友達に成れないって言われたんだ」
歯噛みするように慎に言う。
「それで?」
「それでって・・・」
言葉に詰まった俺をあきれたように眺めると、慎はやれやれと言わんばかりに片眉をあげてみせてから、黒板の方へ意識を戻した。