龍神の泉 5 

 

「お兄ちゃん電話だよ」   

蓮への恋煩いのためかここのところ寝不足気味の俺が心地よい眠りをむさぼっている第四土曜日の朝に、ノックもせずに環がコードレスホンの子機を持って俺の部屋にずかずかと入ってきた。

「うう〜ん。。。今、居ないって言ってくれよ」  

もごもごと返事をして布団を頭からかぶった。

「居ますって言っちゃったよぉ」  

環は空いている片手で布団をおもむろに剥ごうとする。

「だれだよ」  

うっせえなぁ〜。折角、気持ちよく寝てたのに・・・

「郷守って言うひ・・」

さ・と・も・り・・・?!?!

「も、もしもし!」  

環が言い終わらないうちに子機をもぎ取ると叫んだ。

「朝っぱらから、でけ〜声」  

冷静に考えれば蓮のはずは無いのに、慎と分かった途端子機を握った指の力が抜ける。

「なんだ・・・慎かぁ」

「なんだはないだろ」  

気を悪くするでもなく続けて言う。

「お前、今日暇?」

「コレと言って予定は無いけど」

「ふ〜ん。じゃあ後で迎えに行くから」

ガチャ。

「え?」  

何処に行くのかそれに何時に迎えに来るのか訊く前に電話はすでに切れていた。

相変わらず訳のわかんない奴・・・・・

パジャマのまま電話を戻しにリビングに降りていくと既に時計は十一時近くをさしていた。

 

「勇ちゃん、お昼まで待つ?」  

食卓テーブルの上でアイロンがけをしながら母さんが訊く。

「友達が迎えに来るって電話だったから、パンでも囓っとくよ」  

冷蔵庫の中の牛乳とロールパンを出して食べ始めると、ソファーで新聞を読んでいた父さんが顔を上げた。

「高校の友達か?」

「あ、うん」

「環もお昼から新しい学校の友達と野苺摘みに行くんだよ」  

父さんの横でテレビを見ていた環が口を挟む。

「野苺?そう言えば確か学校から駅に行く道の脇に沢山生ってたな」

「この町生まれの蓉子ちゃんね、とっても草とか花に詳しいんだよ」

「あなたたち都会っ子には珍しい物ばかりでしょう」

「あ〜!お母さんだってちょっとパンくず上げるだけで綺麗な小鳥が来るって喜んでるくせに」  

女三人寄ると姦しいって言うけど俺ん家は二人だけで十分姦しい。

母さんと環が楽しそうに話しているとけたたましいバイクの音が家の側で止まり、チャイムが鳴った。

「お兄ちゃん、さっきの電話の人」  

インターホンに出た環が振り返って俺に言う。

「もう来たのかよ?入って待って貰ってくれ」 

パジャマのままだった俺は急いで二階に駆け上がって適当に服を着ると、洗面所で顔を洗い髪を整えたものの包帯の巻かれた左手がうまく使えずに結構時間がかかってしまった。  

リビングでは母さんの入れた紅茶のカップを手に優雅に腰掛けて、すっかりくつろいでいる慎がいた。  

女性陣相手に、にこやかに話しかけている慎に二人ともうっとりと見とれているし、父さんはどこかに消えてしまっている。

 

「勇貴。ご馳走になってるよ」  

俺が側に行くと軽く優雅にカップを挙げてみせる。

「お前、ちゃんと来る時間言ってから電話切れよな」

「あら、勇ちゃんの起きるのが遅すぎるのよ」

「そうよ。折角迎えに来てくれてるのに」

なんで俺が怒られんだよ。

「俺が悪いんですよ。ちゃんと言わなかったから」

味方に付けた二人に極上の笑みを浮かべるとしなやかに立ち上がった。

「本当に突然すみませんでした」  

慎は二人に礼儀正しく頭を下げると、歯の浮くようなセリフをさらりと言ってのけた。

「でも勇貴が羨ましいですよ、こんなに綺麗で明るいお母さんや妹さんが居て。俺の家なんか男ばかりでむさ苦しくて」

あまりの調子の良さに、お前は二重人格者か!と怒鳴ってやりたくなるがまた二人に攻められそうなので家を出てからに言うことにした。  

ところが、俺に何か言われる前に玄関のドアを出た慎はピカピカのバイクの止めてある所に行って濃紺をしたフルフェイスのヘルメットを被ると、もう一つ積んであった緋色のメットを俺に投げてよこした。

「バイクの免許持ってるのか?」  

こいつにはいつも驚かされる。

「俺たち足が無いと滅茶苦茶不便だからな」

「でも年が・・・」

「俺4月3日生まれなんだ。だから春休みに毎日往復1時間半かけて教習所に通ったんだぜ」  

話ながらバイクに跨りエンジンをかけた。

「早く乗れよ」

「あ、ああ」  

先輩のバイクの後ろに何度か乗ったことはあるが、まさか慎の後ろに乗るなんて。  

俺より遙かに細い身体の何処に捕まればいいのか悩んでいるうちに、両手をぐいっと前に引っ張られた。

「しっかり捕まってろ」  

走り出す瞬間、上半身が後ろの方へ引き寄せられそうになるので仕方なく慎にしがみついた。  

住宅街を抜けてほとんど一車線しかない道をバイクは山の方へ上っていく。

初めはとっても懐疑的だった俺も思ってた以上に軽々と大きなバイクを走らす慎の運転に安心して、流れるようにすぎていく周りの緑と風の心地よさを楽しんでいた。  

そのうちに見覚えのある朱塗りの鳥居が見えてきた。

「慎!お前ん家に行くなんていわなかったじゃないか!」

ヘルメットを脱ぎながら慎を睨み付けた。

「言ったら来なかっただろ」  

両手でヘルメットを取って軽く髪を振る。

「当たり前だ」

ここには蓮がいる。

「行こうぜ。爺ちゃんがまってる」  

爺ちゃんて?前に言ってた双子の爺ちゃんか?

またもや訊けもしないうちに慎は先に行ってしまった。  

鳥居を越えると何かあるのか大勢の人が集まっていて、本殿の前には大きな木を組んで舞台のような物を作っている最中だった。奥の方に青柳さんの姿や同じ組の奴も見える。

「なんだ志賀!祭りなら来週だぞ」  

後ろから声を掛けられて、驚いたように振り向くとランニング姿で汗を拭いている赤羽先輩が立っていた。

「お祭りがあるんですか?」

「そうか、お前は今年来たばっかりだったな」

「ええ」

「小さな村祭りだからそんなに大したこともないんだが、ちょっとした演武や昔からの伝統的な舞があってな」

「ああ、ここには武道の道場があるから・・」 

立派な道場とランニングしか着けていない筋骨縷々とした赤鬼の上半身をしげしげと見てしまった。

「俺たちの演武なんかより、篝火の中での郷守の双子の舞はそりゃ美しいぞ。お前も来られたら見に来るといい」  

赤鬼は俺の肩をぽんと一つ叩いて作業に戻っていった。  

大勢の人たちから離れて慎の歩いていった母屋ほうへ進んで行くと少しだけ泉の端が光るのが見えた。   

 

ドッシリとした風格を漂わせる母屋の玄関先で開かれた格子戸の中に入ろうかどうしようか迷っていると、泉の方からボーダー柄のサマーセーターとベージュのコットンパンツ姿の蓮が現れた。

「こんにちは志賀さん。お爺さんに呼ばれたのでしょう?こちらです」  

俺が居ることに驚く様子もなく家の中に招き入れる。

「俺が来ること慎から訊いてたの?」

「いいえ」  

きょとんと俺を見て、不意に目をそらすと、

「ご免なさい。気味が悪いですよね。ここの人は僕になれていますから、つい・・・」

「そんなこといってないだろ!」  

蓮を見るとどうしても感情的になってしまう俺はつい、きつい口調になる。  

そのまま黙り込んでしまった蓮はそれでもちゃんと慎とお爺さんの居る部屋まで俺を連れていった。

以外と近代的な応接間に通された俺は慎の横にいる老人があの日、家の側の土手で泉の話をしてくれたお爺さんだと気が付いた。

「ほ〜う。やっぱりお前さんか」  

目を細めて俺を見ると老人はあの日の蓮と同じ事を言った。

「なんだ。爺ちゃんまで勇貴に逢ったことあるのかよ」  

つまらなさそうに言う慎の後ろに立っていた蓮は小さな声で祖父に話しかけた。

「お爺さん。僕は部屋に戻っていていいでしょうか?」

「そうじゃな。少し志賀君とやらと話がしたいでな。あとで慎を呼びにやるまで部屋で待っておいで」   

労るようにそう言われた蓮は素直に頷くと部屋から出ていった。

「まずは、お座り。さて、何から話したものかの」  

真っ白な顎髭を撫でながら一枚の写真を着物の袂から出した。

「慎から訊いたと思うが、儂も昔は【郷守の双子】と呼ばれておっての。これが儂の弟の櫂じゃ」  

セピア色に色づいた白黒写真には、まさに去年の夏俺が初めて蓮を見たあの場所に座っている、同じような白い着物姿の少年が写っていた。  

慎と蓮のようにそっくりでは無いにしても、よく似た面立ちの線の細い美しい少年が写真の中から微笑み掛けている。

「これがいくつの時の櫂の写真だと思うかね」

「え?え〜と、今の俺たちと同じくらいだと思います」

「弐拾五の時じゃ。この年の秋に櫂は逝ってしもうた」

「二十五?でもどう見ても十六、七にしか見えませんよ」  

もう一度まじまじとテーブルの上の写真に目をやった。

「美しいままじゃったよ。最期までな。清らかで汚れることなく泉の水のように透明じゃった。

それが神子の定めであり、俗世間から遮断し櫂を守るのが村のためであり儂や三鬼の努めだと信じておった。

あの夏の日まではな」

遠い日を懐かしむように老人は話を続けた。

「儂の婚儀を境に黒鬼と供に離れに移り住んでいた櫂が或晩、儂を泉に呼び出したんじゃ。

そろそろ、夏も終わり告げる頃で、水辺にはひんやりとした空気が流れ、葉陰では沢山の虫たちが競い合うように鳴き始めた頃じゃった」      

 

 

いつも影のように側について居る黒鬼の姿がないのを不振に思ったものの、何も言わず櫂の側に腰を下ろした。

『どうした?わざわざ呼び出したりして』  

嫁を娶り子供を授かったいま、昔のように二人の時間が持てなくなっていた儂は内心嬉しく思っていた。

『すみません。どうしても話しておきたいことがあって』  

真摯な眼差しを儂に向けたまま、櫂は続ける。

『兄様。どうやら、お別れが近いようです』

『何馬鹿なことを!』  

覚悟は出来ていたつもりでも身体中に戦慄が走った。  

その夏の集中豪雨で多くの被害を受けた隣村での生存者の救命に、強い力を使った櫂の体力が既に限界に近いことを儂は感じていからじゃ。

『いいえ、兄様にも、お判りでしょう?』

『だめだ、櫂。置いていかないでくれ』  

この身を二つに引き裂かれるような激しい悲壮感に苛まれて、この所、特に抱きしめると壊れてしまいそうなほど華奢になった櫂をきつく胸に抱きしめた。

『馬鹿なことを考えてはだめですよ。兄様には大切な家族が居るのだから』  

儂が櫂の後を追わないように持たされた家族という名の枷。  

櫂と供に逝く事すら許されぬ【郷守の双子】への村の掟に、この時、儂は初めて強い憤りを感じた。

『兄様。よく覚えて置いてください。  

私たちより二代後、つまり兄様の孫に次の 【郷守の双子】が生まれます。  

私にはその子たちになにもしてやることはできませんが、どうか兄様その子たちが私たちと、いいえ、いままでの【郷守の双子】たちと同じ辛い思いをしないように手を貸してやってほしいのです。  

日照りや飢饉の心配の無くなってきた今、 先祖代々必要とされてきた【千里眼】も、既に過去のもの。  

兄様、時代は流れていきます。次へ次へと、 科学が進み、遠くのことも未来のことも解る時代がやってくるのです。  

この先私のような者の力はこの村に必要なくなっていくのだから。  

こんな僅かな力を守るためだけにその子たちを縛り付けてはいけません。

自由に自らの道を歩ませてやりたい・・・』  

自分自身も本当はそうしたかったのだと言う櫂の気持ちが痛いほど伝わってきて胸が締め付けられた。

『お前を・・愛している・・・』  

何もしてやれない、他に何も言ってやれない。

胸に抱きしめたまま月光を浴びた艶やかな櫂の髪を撫でた。  

櫂は儂を見上げると寂しげな笑みを浮かべて言った。

『ええ、私もです。  

ねえ兄様、私は今まで幾度と無く思ったんですよ。どうしてふつうの子に生まれることは出来なかったんだろうって。  

決して短い命が辛いのではないのです。私はただ、普通の人のように誰かを愛し、愛されたかった。村人から神子と崇められていても決して一人の人として愛されることはない。 

大勢の人の力になれた過去の神子とは違い、ほんの少しの人の力になることしか出来なかったのに・・・・   

それから、私亡き後黒鬼に伝えてほしいのです。今の彼は耳を塞いでしまって一向に私の話を聞いてはくれない。  

彼の一途な想いを受け止めてやれなかった私を許して欲しいと、そしてこれからは私のためではなく自分自身のために生きて欲しいと伝えて下さい』  

そっと儂の腕の中から離れるとゆっくりと目を閉じて櫂は天を仰いだ。

『櫂!その身体で何を見ようと言うのだ!』

『東の都よりこの地に訪れし若者と神子は恋に落ちるでしょう。  

しかし、運命に縛られた神子はその事実を簡単に認めることが出来ないかもしれない』 

目を瞑ったまま櫂はそう言うと大きく息を吐いた。

『覚えて置いて下さい。もしもそのときが来たならば次の神子に一人の人として生きろと伝えて・・・』  

櫂の閉じられた瞼から一筋の涙がこぼれ落ちた。

『わかった。約束する』  

抱え込むように肩に腕を回し、震える声で応えた。  

ホッとした様子で儂の肩に頭を預けた櫂とその夜はずっと泉の畔で、幼い日のことや楽しかった事を話して過ごした。  

その日が二人きりで過ごせる最後の日だと二人ともよく分かっていたのだから・・・・    

 

 

「あれから既に四五年も経ってしまったが、今も櫂は儂の此処に居る」

老人は話し終わると、長い月日を語るように深く皺の刻み込まれた両手を、重ねるように胸に当てた。  

「爺ちゃんはその東の都から来た若者が勇貴だと思ってるのか?」  

それまで黙ったまま、じっと話に耳を傾けていた慎が口を挟んだ。

「それは儂にもわからん。櫂は未来は変わると言っておった。決して一つの道を真っ直ぐに歩いているのではないとな。  

櫂の見た未来は45年前の視点で見たお前たちじゃ。

その後にもし誰かが櫂の見たのとは違う曲がり道を一度でも通ったとしたら、この永い時間の間に大きく変わってしまっているじゃろうな。  

しかし、蓮の奴が去年の夏以来誰かに想いを寄せているのは確かなのだから、もしその相手がお前さんだとしたら、儂は櫂の見た若者もお前さんだという可能性は高いと思うのじゃがな」  

慎の質問に答えているはずなのに老人は俺に言い聞かすように話し続ける。

「酷なことを訊くが、これも蓮を想う愚かな老人ゆえだと許して欲しいのじゃ。  

お前さんが蓮の事を想う気持ちにどれほどの覚悟がある?」

「覚悟?」  

俺は蓮が好きだ。その気持ちに嘘や偽りはない。でも、覚悟って?

「そうじゃ。蓮は知っての通りふつうの子ではない。

それにいくら成長が止まっているとはいえ身体の構造は男に作られている。

よしんば契りを交わしたところで言い伝えのように力が消えるのかどうか誰にもわからん。  

もし今のままなら、いくら愛したところで永く連れ添うことは出来はしない。  

それでも、愛してやることがお前さんに出来るのか?一時の感情に流されず、よおく考えてごらん。お前さん自身まだ幼い、何も無理をして迄辛い恋に身を窶す必要はない。

蓮と違って十分に人並みの幸せを見つけることが出来るのじゃから」

「爺ちゃん!何勇貴が怯むようなこといってんだよ」  

硝子のテーブルがガチャンとなるほど強く慎は両手を置いた。

「お前に訊いては居ない」

「だけど、蓮はこいつのこと好きなんだぜ!」

「蓮が本当にこの若者を恋し始めているとして、その恋が実り掛けた頃に重圧に耐えきれなくなった若者が蓮の元を去ったとしたら、 蓮はきっと粉々に壊れてしまうじゃろう。蓮の恋はそう言う恋じゃ。」  

俺は二人の会話を聞きながら、じっとソファに身を任せてテーブルの上に置かれたままの櫂さんの優しくもの悲しい微笑を浮かべた美しい顔を見つめていた。  

もしも、もしも蓮が慎の言うように本当は俺のことを想ってくれているんなら、俺は蓮に櫂さんのような想いをさせたくないと強く思った。

お爺さんの言うように、悔しいけれど覚悟や責任なんて今の俺には約束できないし、すべての事から蓮を守れる力なんか俺には無いけど。

俺は蓮の側にいたい。

「俺、蓮と一緒に居たい。俺がしてやれることなんか何にもないけど。いつもあの花が咲くような笑顔で笑ってて欲しいんだ」  

写真の櫂さんから、お爺さんに視線を移して言った。  

お爺さんはにこやかに頷くと、慎に蓮を呼びにいかした。  

軽やかな身のこなしで慎が部屋を出ていくと、お爺さんは櫂さんの写真を大事そうに両手で拾い上げてぽつりと呟いた。

「永かったなぁ櫂、ようやく約束が果たせたようだ」  

写真を慈しみに満ちた目で見つめたお爺さんが、ほんの一瞬美丈夫な青年に見えたのは俺の目の錯覚だったんだろうか?

「爺ちゃん。蓮連れてきたぜ」  

お爺さんは写真を袂に仕舞いながらゆっくりと立ち上がると、ドアの側から伺うように俺を見ている蓮の側で慎に言った。

「さあ、慎。邪魔者は退散するとしようかの」

「え?」  

高く笑いながら、同時に聞き返した双子のうち慎だけを連れて行ってしまった。