*********珊瑚礁の彼方へ*********

 

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三年前の8月27日、彼は奇跡の生還を果たした。    

救助隊たちもほとんど生還の望みを捨て諦めかけていた頃に行方不明になっていた彼が漁船に救助されたのだ。  

彼の名前は饗庭宏隆、日本どころか世界中にその名を馳せている饗庭物産グループの会長を祖父に持ち、何不自由のない生活を送っている、いわゆるブルジョア育ちのリッチな大学生だった。  

その年、彼は当初、この南の島に来る予定はなかった。ニューヨークに住む兄の元で、夏休みを過ごしていたからだ。  

所が早めに帰国し夏休みも終わりに近づいたころ、かねてから誘われていた友人の別荘があるこの南の島に彼はひょっこりと遊びに来ることにした。   

何故急に来る気になったのか、今となっては彼自身にもこれと言った理由など思い浮かばない。  

あまりにも機械化された都会過ぎる程の摩天楼から全く違う場所に行きたくなったのかも知れないが、本当にただ漠然と、もうじき休みが終わるなという、お盆も明けた後に彼は友人の誘いを思い出したのだ。

偶然が重なったのか、それとも運命に導かれての出会いだったのか、ともかく、友人の別荘についた翌日、宏隆は先に来ていた友人と共に友人が操るヨットでセーリングに出かけたのだ。  

その日の空は雲一つなく晴れ渡り、波もない静かな海だった。  

都会育ちの彼らは海の怖さ、自然の移り気の激しさを甘く見ていたのだろう、気象情報を調べることもせず、今目の前にある静かな海だけを観て出航してしまった。  

ほんの少し南西の空が暗いことに気づくことなく、すぐ側まで低気圧がうなり声をあげながら北上していることにだれ一人気づくものはいなかったのだ。  

突然の嵐に見舞われ、小さなヨットが転覆するのは本当にあっと言う間の出来事だった。  

宏隆は手元にあった数個の救命胴衣を友人達に投げて、皆に行き渡ったのを見届けたが、自分が装着するより先に、真っ暗な海に投げ込まれてしまった。  

宏隆が憶えているのは、なま暖かい水温の感触と激しい波。  

容赦なく鼻孔や口腔へ進入してくる塩辛い海水。  

そして記憶が途切れる寸前に見たのは、目の前に唸りながら迫ってきた恐ろしいほどの津波だった。      

荒くれた、波の下にある深海へ、宏隆はブクブクと気泡に包まれながら沈んでいく。  

あれほど激しい嵐に飲み込まれたのに、深い海の中は不思議なほど静で、穏やかだった。    

ブクブク・・・・     

ゴボゴボ・・・・・・・    

意識を失った宏隆の鼻や口から森閑とした海の底に僅かに残された空気が音を立てて吐き出されていく。  

その気泡に魅せられたのか、小さな魚たちが宏隆の廻りに群れた。  

青く小さな瑠璃雀。  

黄色いチョウチョウ魚。  

そして一匹の鮮やかなオレンジ色の鰭を持つクマノミが宏隆の傍へと寄ってきた。    

ゆっくりと沈んでいた宏隆の身体が、海底の潮の流れに巻き込まれたのか、滑るように西の方へと運ばれはじめた。  

宏隆の向かう方向には色鮮やかな珊瑚礁の海が運命を携えて待ち受けていたのだが・・・  

意識を無くし、生死の縁で混沌としている宏隆に知る術はなかった・・・・      

 

しかし宏隆の友人達にとってはこの事故は不幸中の幸いだったのだろう、ヨットが転覆した直後に大型タンカーが異常に気づき、救命胴着を付けていた友人達は波間に浮かんでいるところを大事に至ることなく救出されたからだ。  

結局救出されなかったのは宏隆ただ一人だけだった。  

他の友人達がすぐに救出されたにも関わらず、あっと言う間に波にも飲み込まれた宏隆は、遭難後3日以上もたって発見されることはなかった。  

知らせを聴き都心から慌てて駆けつけて来た家族さえも5日目の朝を迎えた頃には言葉にこそする事はなかったが内心絶望だなと悲観しはじめていた。  

茫然自失の両親に変わり、宏隆の兄である気丈な慶吾だけが、捜索を打ち切ろうとする海上保安庁と掛け合い、必要なら自費で捜索すると言い張り、捜索を続けさせていた。    

 

そして、遭難から五日目の日の暮れ掛けた頃、朗報が入ったのだ。  

病院のベッドの中で宏隆は医者や家族に囲まれ意識を取り戻した。

「ひ、宏隆?」

「宏隆、気がついたのか?」

「ああ、神様・・・  ここは病院よ。よかったわ・・・・」  

宏隆の母の蓉子は疲労の残る顔をハンカチで覆い嗚咽を漏らすと、その場に崩れるようにしゃがみ込んでしまった。  

目の前に拡がる何の飾り気もない真っ白い壁に開かれたばかりの瞼を二、三度しばたたかせたあと、鼻につく消毒液の匂いに宏隆は顔を顰めた。

「気分はどうだ?」  

母の背中を労るように撫でながら、覗き込む父親の涙に濡れた顔に、宏隆は無事に戻ってこれたことを確信した。

『無事に・・・戻って来れた・・?』  

ハッと我に返った宏隆は視線を辺りに彷徨わせ、身体の奥深くから沸き上がってくる堪らない寂寥感に襲われた。

「り・・麟は・・どこ?」  

答えは分かっていた。  

ココニ リンハ イナイ  

それでも訊かずにはいられなかった。

「お父さん! 麟は?麟はどこ?」   

おもむろに、父のスーツのそでに手を伸ばし、宏隆は縋り付くようにくり返し問いかけた。

「り・・ん?」  

饗庭氏は聞き返した後したり顔で、

「ヨットに乗っていた友人なら皆無事だ。 安心しろ」  

大丈夫だからなと、疲れ切った顔に無理矢理笑顔を載せて微笑んだ。

「ヨット・・・?  違うよ!  ヨットじゃない!」  

父の腕に縋りながら宏隆は上体を起こした。  

壁際に腕を組みもたれ掛かっている、慶吾に縋るような視線を馳せた。

「に、兄さん!」

「宏隆?」  

宏隆を落ち着かせようと慶吾は足早にベッドに近づいた。

「ぼ、ボート・・・そうだ!僕達はボートに乗ってたんだ!ねぇ、兄さん!お願いだよ!麟を、麟を探して、探してよ!」  

この年の離れた兄がいつも不可能を可能にしてくれることを宏隆は良く知っていた。  

しかし僅かに残る理性が、今回ばかりはどれほど慶吾に頼んでも宏隆に無駄だと囁いていたが、宏隆はその声に無理矢理耳を塞いだ。  

パニックを起こし、錯乱状態の宏隆を慶吾はギュッと抱きしめて落ち着かす。

「わかった、探してやる。 だから、少し落ち着け、宏隆」  

両親も医者も皆一様に、お互いに目配せし、宏隆を興奮させぬようにと鎮静剤を腕に一本打った。   

クスリが効いて眠ってしまうまで、結局は何度宏隆が麟を探してくれと叫んでも、彼の見たものは漂流中の意識の混濁が見せた夢幻に過ぎないと、宏隆の話に辛抱強く耳を貸してくれる慶吾以外、誰もまともには取り合ってはくれなかった。  

事実、翌朝、嵐に遭い友人の操っていたヨットから、荒くれる波間に投げ出された宏隆が行方不明になっていたのは、たった5日間に過ぎなかったことを慶吾から知らされて、宏隆自身が誰よりも驚愕としたのだ。    

時計もカレンダーもなかったけれど、珊瑚礁に囲まれたラグーンの中、毎日太陽は昇り日は沈んでいた。  

たった5日の筈がない・・・  

不思議な麟の島で、少なくとも半月は過ごしていたのだから。