*********珊瑚礁の彼方へ*********

 

( 2 )

 

「大丈夫か?」  

慶吾は宏隆の背に腕を添え、島を離れる飛行機の座席にゆっくりと座らせ、隣の席に腰を下ろした。  

あれから一旦は会社に戻っていた慶吾だが、弟を迎えに昨夜戻ってきていた。  

饗庭家の兄弟は父の右腕として働いている長男の慶吾と末っこの宏隆との間に次男の秀治がいるのだが、秀治はニューヨークに在住しているために、先日とんぼ返りで見舞いに来ただけだった。  

傲慢でワンマンな経営者タイプの慶吾とは対照的な繊細で芸術家気質の次男の秀治は、どちらかというとキツイ性格の兄たちとは違い、優しい気質の宏隆を溺愛していたので慶吾にくれぐれも宏隆を頼むと言い残してニューヨークに戻っていった。  

「ありがとう、兄さん。
悪かったね、仕事忙しいんでしょう?」 

「バカにするな、俺が2、3日抜けたからってへまをするようなブレーンを持っちゃいないさ」  

端正な顔に笑顔を浮かべ、7つも年下の弟の頬を慶吾はピッシッと指で弾いた。

「イテ。
 でもそうだね、兄さんには忠実な白澤さんが付いてるからね」

「そうだな、あいつに任せておけば、心配はいらんだろう」  

慶吾は今時の青年にしては珍しいくらい、忠実に上司に献身してくれる秘書の真面目な顔を思い浮かべて苦笑った。

「ところでな・・・」  

本題に触れようと、慶吾が口を開いた。

「何?」  

パッと見上げた宏隆の黒い瞳がいつの間にか大人びていることに慶吾はハッとなる。  

瞳だけではない、ふっくらとした少年の頬が今回のことで少し肉が削げ落ちて、どちらかというと年齢より少年ぽい顔立ちだった弟の顔が、精悍さを纏い、随分と男らしくなっていることに気がついたのだ。 

『恋をしたのかも知れないな・・・・』  

遭難していたのだから、そんなことはあり得ない筈なのに、慶吾の脳裏にそんな想いが走った。  

ひとしきり、大人びた弟の顔を眺めた後、慶吾はゆっくりと口を開いた。

「麟って言うのは、一体誰のことなんだ?」  

宏隆の恋の相手なのだなと、慶吾はどこかで感じていた。  

真剣な慶吾の眼差しに、宏隆はしばらく唇を噛みしめたあと、ふっ〜と長い息を吐いた。

「僕にも分からない・・・・」  

言葉を切った宏隆を慶吾は眼差しで話の続きを促した。

「僕は・・・・・みんなが言うように、夢を見たのかな・・・  
よく分からないよ・・・  
ただ、僕にとって、もしあの出来事が現実じゃなかったとしても、麟は僕の・・・
大切な人なんだ」  

悲しそうに宏隆は笑った。

「俺に話せるか?」  

辛そうな宏隆を覗き混むように慶吾が訊くと、宏隆は信じなくても構わないからねと、 念を押したあと、ポツリポツリと話し始めた。        

 

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「どう?助かりそうかい?麟」

「ハイ。凪(なぎ)さま。
怪我の方も思ったより傷は浅いですし、だいぶ顔の色も戻ってきましたから」

「そうか、しかし、また、やっかいなことをしてくれたものだねぇ」

「で、でも、まだ息があったんですよ、凪さま」

「そうかい?わたしにはお前が無理矢理蘇生させたように見えたがな・・・」  

女らしいハスキーな声が、からかうようなニュアンスで言った。

「ち、違います!」

「で?おまえ、このものをどうするつもりなんだい?」

「どうするって・・・凪さま・・元気になるまで、ここで面倒を看てはいけませんか?  
このまま帰しても、彼は自力でラグーンの外へ出ることはできません。結局はまた、潮に翻弄されて、浜に打ち上げられてしまいます」  

少年が訴えるような眼差しで哀願する。

「あまり、感心はしないねぇ。  
放っておけば息を引き取ったものを、わざわざ生き返らすことは無かっただろうに」  

諦めにも似た響きが溜息に混じる。

「で、でも・・・」

「お前は本当にしかたない子だねぇ。
優しいのもほどほどになさい。
優しさは弱さの裏返し、今のままじゃいつまで経っても、大人になれないよ。麟」  

大柄な女は愛しそうに目を細め、少年の艶やかな頬をぺちぺちと叩き、『仕方ないね』ともう一度溜息混じりに呟いた。      

 

聞き覚えのない声をした二人の会話がぼんやりと覚醒し始めた宏隆の耳に入り、うっすらと開かれた瞼の先に、見知らぬ簡素な麻の着物を着た15、6の少年と、白い肌が僅かに透ける薄衣を纏い、豊満な体の線も露わな、如何にも色香が匂い立つような大柄な女がいた。  

質素な小屋はガラス戸の填っていない明かり取りから眩しい光が降り注ぎ、これと言った室内装飾品のない、ガランとした室内を照らし出していた。  

宏隆は重くてとても自由には動かせない体を横たえたまま、焦点の定まらない目であちらこちらを辿りながら、側に立つ2つの人影に向かって話しかけた。

「・・・・こ・こぉ・・」   

所が、一生懸命声を出そうとしているのだろうが、話しかけたのはつもりだけで、重い身体同様、まともに話そうとしても、口唇すらもまともに動かない始末で、あげくに潮でしゃがれてしまった喉からは、掠れた声しかでてこなかった。

「あっ! 気がついた? よかった・・・・」  

微かな声と身じろぎにパッと振り向いた小柄な少年が、嬉しそうに顔を綻ばせて、宏隆の枕元に膝までの着物の裾を翻してサッと跪いた。

「・・・・ここは?」  

間近に寄った少年の白い顔に向かって宏隆は、もう一度、同じ言葉を注意深くゆっくりと呟いた。  

今度はさっきよりもほんの少しまともに言えたようだ。

「え?  なぁに?」  

少年は聞き取りやすいように首を捻り宏隆の口元に耳を寄せて言葉を聞き取ろうとしてくれた。

「ここは、いったいどこ?」  

乾ききった口唇を舌先で少し湿らせてから、宏隆は、ちょっとでも気を抜くと、再び深い眠りに強い力で引き戻されそうになりながらも根気強く繰り返した。

「大丈夫だよ。ここは凪さまのコロニーだから、心配しないでゆっくり休んでていいんだよ」  

少年は安心させるために宏隆の髪を優しく梳きながら、大丈夫だからね、と微笑んだ。

「・・・・・・ナ、ギ、さま?」  

宏隆の覚醒しきらない重い頭は言われたことが理解できずに廻りきらない口調でオウムみたいに少年の言葉を繰り返した。  

宏隆の問いに、少し離れたところにいた女が、

「わたしが凪。 おまえは?ラグーンの向こうから漂流してきたんだね?名はなんと申す?」   

揃えた両膝にちょこんと手を載せて宏隆を覗き込んでいた少年を、ゆったりと後ろから抱きかかえるように膝をつき、少年の肩に顎を載せて凪は宏隆を見下ろした。

『女神みたいだな・・・・』  

波打つ長い髪がキラキラ光って、凪は宏隆が今まで見たどの女性よりも美しかった。  

父の仕事柄、綺麗な女性は見慣れていた。  

結婚していない兄たちがパーティーに同伴するのも大抵有名なモデルや女優達で美人というのは同じ様な化粧を施したああ言う人工的なものだと思っていたからだ。  

しかし、凪の美しさはけた外れだった、女神のように美しいと言っても決して過言ではなく、その横にいる少年も、凪から漂う色香こそはさすがにないが、美しさという意味では大差はないほど整った容姿をしていた。  

凪が女神なら、麟と呼ばれた少年は差詰め天使と言ったところだろうか・・・・

「僕は・・宏隆。  

饗庭宏隆・・・」  

僅かに身じろぎをしようとした宏隆の身体は思いの外重くけだるくて、自分の名前を言っただけで胸が不規則に上下し、荒く息切れがした。

「アイバ・ヒロタカ?
それが全部であなたの名前なの?変わった名前だね?    
ね?凪さま」

「ふふ。そのもの達は皆、長い名前を持っているのだよ」

「へぇ?」  

麟と呼ばれた少年は愛くるしい目を大きく開き、僕の顔を不思議そうにしげしげと覗き込んだ。  

宏隆は力の籠もらない腕をゆっくりと持ち上げて、麟の細い巻き毛に指先を伸ばした。

『この子もなんだか、天使みたいだ・・・この人達は言葉は通じるけど、日本人じゃないのかな?
それとも、ここは・・・・』  

再び霞が掛かり始めた意識の中で、麟の瞳は、なんだか懐かしい深い海の底を思わせる不思議な瑠璃色をしているんだなと思った宏隆は、そのまま澄んだ瑠璃色の瞳の中に吸い込まれるように、再び意識を手放してしまった。