********珊瑚礁の彼方へ*********

 

( 10 )

 

 

「だけど、このままじゃ嫌なんだ。このままじゃ帰れない」

「弱ったねぇ・・・だから、麟にやっかいを背負い込むなんと言ったのに・・・・・・・・・麟が仏心を出さねば、お前はとうに海の藻屑と消えていた。
我らと異種なるものが相まみえることはなかったのだからね」

凪はゆっくりと首を振り、

「お前が思っているとおり、わたしたちはお前達の言うところの人ではない。
このラグーンの中でだけ生きている。 
我らをお前達がなんと呼ぶのかはしらぬ。 妖怪、物の怪、あまり響きのいいものではないな。
我らを偶然目にした漁師は人魚と呼ぶこともある」

「人魚?」

海の中で波に戯れながら泳ぐ麟は、きっと人魚のようだろなと宏隆は思った。

「呼び方など、後でかってにつけたもの、人にしても人が勝手につけた呼び名だ。
我らはこうして何百年何千年と生きてきた。ただ、自然を壊しどこまでも居住範囲を広げようとする人間と違い、ひたすらラグーンを守り、ひっそりと生きてきただけのこと」

凪の僅かな身じろぎと共鳴するように薄衣の袂がひらりと舞う。

「あやかしや、夢ではないというんだな?」

「ふふふ。
さて、どんなものか。
お前はお前の人生そのものが夢でないと言い切れるのか?
何故、全ての生命が生まれては死んでいくのだ?
全ては誰かの見た短い夢やもしれぬ」

凪は、波打つ髪をゆらりと揺らしながら、婉然と微笑んだ。

「よしてくれ!
僕は凪さまと哲学を論じる気なんかないよ!」

「そう、カッカするな、ヒロ。
お前の質問には答えてやろう。
なぜ、わたし以外に女がいないのか、と申したな?」

宏隆がしっかり頷くと、凪がその整いすぎる美貌を間近に寄せて、宏隆の漆黒の瞳を覗き込んだ。

「我らは皆、最初は男なのだ」

「へ?ええぇ〜?!」

胡座をかいたまま驚いた僕は後ろ向けにひっくり返りそうになった。

「そ、それなら、麟は何時か・・・」

慌てて、崩れた体制を整えた宏隆は、心底驚愕しながらも、淡い希望が胸に沸き上がる。

しかし、目を輝かせた宏隆に、凪はゆっくりと首を横に振った。

「麟は女にはなれぬ。
それどころか、麟は大人にもなれぬと申したはずだ」

「ど、どういうことだよ?」

「コロニーは一人の女、つまり、わたしとわたしの伴侶からなる。
そして、次代を育てるために必ず幼子と、未成熟な青年達を守るのがわたしたちのつとめなのだ。
コロニーの中で一番強いものだけが女に成れる。
わたしにもしものことがあれば、このコロニーでは櫂がおんなになり波と睦む。
もっとも、波は麟に惚れているから、そんなことにならないうちに麟とコロニーを作りたいと焦っているのだ」

凪はクククッとのどを鳴らして、

「波がコロニーを作るためには櫂のように逞しい男が必要だ。波はこのコロニーの中でも特に強くて優秀だからもう十分、おんなになり卵を生む資格があるのだ。
だが、麟に沢山の卵を波に生ませてやる力はない。麟は大人になるには優しすぎる」

宏隆にも分かるようにと凪はゆっくりと説明してくれるのだが、宏隆の混乱しきった頭はなかなか整理がつかない。

だが、今朝観た、あの異様な光景だけは、今はなしてくれた凪の話とピッタリと繋がった・・・・・・・・

「もしかして・・・そのために、潜だけが早く成長したのか?十分に資格の出来た波の伴侶になるために?」

「潜は利発で強い子だ。直に逞しい男になるだろう」

凪はしたり顔で頷きながら応えた。

「麟は?麟はどうなる・・・・?」

ちゃんとした男にも成れず、女性化することも許されない?

凪と櫂を、睦み合う二人を、憧れの眼差しで見詰めていたのに、麟は生涯誰とも結ばれることはないというのか?

「不憫だが、掟は掟。
弱いものにコロニーは作れない。わたしも櫂も心から麟を愛している。だから麟はわたしの手元にずっと置いておく。
お前が気に病むことではない、これは我々の問題なのだ。
さあ、これ以上、お前に話すことはなにもない。
体の調子もよいようだから、明日、櫂に境界線まで送らせよう」

話はここまでだときっぱりと言葉を区切った凪に、仕方なく一礼をして、立ち上がった宏隆は麟の小屋の方向へのろのろと戻っていった。


海も空も蒼かった。

そよぐ風も波の音も、まるで昔からずっとここに住んでいるかのように宏隆には懐かしく思えた。

なに不自由のない家柄に生まれ、贅沢を贅沢とすら感じない生活をしてきた宏隆だが、野心を持ち人を押しのけてまで人の上に君臨する、生まれながらの王のような長兄とは対照的に、できれば生存競争の激しい政財界になど踊りでずに、ささやかな幸せを感じながら生きていきたいと宏隆は常々思っていた。
 
一度無事を知らせるために帰った後に、再びここに戻り、麟と一緒に居ることは無理だろうか・・・・

凪と別れてから幾度となく繰り返した自問をまたしても繰り返す。

宏隆にも答えは分かっていた。

ここは、安易に人の入り込めるような所ではないと・・・・

この現と幻の狭間にある不思議なコロニーに迷い込んだのは、宏隆自身が生死の狭間を彷徨っていたからに違いない。

だから、ここから出てしまえば、二度と戻れることはないのだ。

この島を出たが最後、二度と、ここに戻れはしないのだ・・・・ 

 

■□■

 

「そんなことは聞いちゃいないだろ!!
お前の気持ちは、だからどうなんだとさっきから何度も訊いてるじゃないか!
凪さまの意見や、潜の事なんか訊いてやしない!
俺は麟の正直な気持ちを訊いてるんだぞ!」

辺りに響き渡る波の怒声に思考を中断されて、宏隆は一瞬足を止めた。 

小屋のすぐ側に立つ波の向こうに人影が見えるだけで、麟がなんと応えているのか、内容までは聞こえてこなかった。

波に腕を掴まれて、困りきった様子で、顔を激しく横に振った麟が、その拍子に離れて立っている宏隆に気が付いた。

途端に泣きそうになった麟の視線を追うように、波も肩越しに振り返り、明らかに敵意に満ちた視線を宏隆に送ってきた。

「ちぇ!よく憶えて置くんだな!あいつはすぐにいなくなっちまうんだぜ!
3日も経てばお前のことなんか忘れちまうんだからな!」

宏隆を憎悪に燃える目で睨み付けたまま、吐き捨てるように波はそう言うと、麟を掴んでいた腕を乱暴に離し、プイっとそっぽを向くと、茂みの向こうに行ってしまった。

 

「大丈夫か?麟」

駆け寄って麟の身体に目を遣ると、項垂れてしまっている麟の手首には、よほど強く掴まれていたのだろう、明らかに指の後が赤く、くっきりと残っている。

「こんなに痕になってる・・・」

麟の腕を手に取り、宏隆は優しくさすってやった。

「なにも・・・波に何も嫌なことはされなかった?」

なぜ、そんなことを訊いてしまったのだろう。

小さく首を振りながら、うっすらと涙の浮かんだ瑠璃色の瞳が宏隆を見上げた途端、愛しさが宏隆の胸一杯に込み上げてきた。

キュンと、胸が甘い衝動に疼く。

人であろうとなかろうと、宏隆は麟を守ってやりたいと強く思った。

人魚姫に助けられた王子は人魚姫を裏切って、海の泡にしてしまったけれど、宏隆は自分を救ってくれたこの天使を、自分の腕の中に抱き留めて、守ってやりたいと強く思ったのだ。

「麟・・・好きだよ」

そっと、麟の白い頬を両手の掌に包み込む。

麟は返事の代わりに、濡れた睫毛をゆっくりと薄く染まった頬に伏せ、ふっくらとした珊瑚色の口唇を、誘うように綻ばせた。

ゆっくりと宏隆が近づいていくと開いた花弁からはプルメリアノの芳香に似た甘い薫りがした。

 
甘やかな名残を惜しみながら口唇を離し、宏隆はきつく麟を抱きしめながら言った。

「明日の朝、みんなが起き出す前に、一緒に島を出よう、麟」

「ヒロ・・・ 僕は・・・」

宏隆の突然の言葉に大きく見開かれた麟の瞳が不安にゆらりと揺れる。

「凪さまにみんな聞いたよ。僕たちとは違うんだって事も。
ずっと、少年の姿のままでも構わない。
僕と一緒に行こう」

「僕・・・・」

麟はギュッと宏隆の首に廻した腕に力を込めて頷いた。

「僕・・・ ヒロが・・大好き・・・」

そのまま、しゃくりあげながら、ぽろぽろと大粒の涙を零した。 

どこかの国で、人魚の流す涙が真珠になるのだ、という伝説があると宏隆は聞いたことがあった。

麟の乳白色の頬にこぼれ落ちる涙は、日の光を吸って、キラキラと南洋の真珠のように美しく輝いていた。